2054日目・・・「辰月の土用期間」は終わったが、「新月」の抜け出す月齢 1.3(大潮)」・・・今日も砂利運び。夕方に農協に行って、トマトとキュウリの苗を買って庭に植えたが・・・「トマト=蕃茄(バンナ・バンカ?)」には別名の「小金瓜(こがねうり)・唐柿(からがき)・赤茄子・珊瑚樹茄子(サンゴジュなす)・西紅柿・洋茄子)」があるらしいが、時たま八百屋で「苫斗」の表示漢字を見たコトがあるが、ブログ事典を調べたら「苫=篷」とは「菅 (すげ) や茅 (かや) 等を粗く編んだ筵(むしろ)・和船や家屋を覆って雨露を

 「ムシロ」の同音のアテ名漢字に「篷(とま・苫・當麻)=筵・莚・蓆・寧ろ・簟・席」があるが、「胡瓜(きゅうり)」は「窮理・九里・究理」で、
 「九十九(99)里浜」
 は千葉県「房総半島東岸」にある、「刑部」岬と「太東」崎の間の、太平洋に面している全長約「六十六(66)」キロメートルの海岸で、日本の「白砂青松100(百)選」と「渚百(100)選」に選定されているらしい。この「房総半島」の地形は・・・ボクは行ったコトはなく、ブログの写真だが、海沿いの砂浜が「白い帯」のように続いている・・・その名称由来は「古名が玉浦(玉の浦)」で、「源頼朝の命令」で一里ごとに矢を立てたところ「九十九」本に達したという伝承から・・・らしい・・・
 以下は「房総半島」とそれを「反転させた図」である・・・この地形はナニに見えるかは人それぞれだろうと思うが・・・ボクには「トリかヘビ」、そして「観音様の姿」にもみえるのだが・・・?・・・

 以下は東京湾を含めた「横にした地図」だが、ボクには「鰐(わに・ガク)」の頭と口にみえる・・・

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 九十九里浜
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 六世紀
 畿内の大王の有力な外戚である
 「和珥(わに)」氏・・・応神天皇
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             誉田別尊
            (ほむたわけのみこと)
             誉田別命
            (ほんだわけのみこと)
             大鞆和気命
            (おおともわけのみこと)
             誉田天皇
            (ほむたのすめらみこと
             ほんだのすめらみこと)
             胎中天皇
            (はらのうちに
              ましますすめらみこと)
             品陀和氣命
            (ほむだわけのみこと)
             大鞆和気命
             (おおともわけのみこと)
             意富多牟和気
            (おほたむわけ)
             の 
            「王仁」の「千字文」である
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 「命を受けて貢上れる人、
  名は
  和邇吉師(わにきし)。
  すなわち
  論語十巻、
  千字文一巻、
  併せて
  十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。
  この
  和爾吉師は
  文首等の祖。
  また
  手人韓鍛(てひとからかぬち)
  名は
  卓素(たくそ)
  また
  呉服(くれはとり)
  の
  西素(さいそ)二人を貢上りき(古事記)」
  日本書紀・十五年八月条
       十六年二月条に同様の記事
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             和珥=和邇・丸邇・丸
             和邇部・和爾部・和尓部
             丸部
            「和珥部君手
            (わにべ-の-きみて)
             生年?〜文武天皇元年
                (697年)九月
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 「和珥(わに)」氏
 の一族
 「武社国造」が進出、
 大海上国は
 上海上国造
 下海上国造
 に分割、衰退した・・・
 「日本書紀
  卷七
  景行天皇
  四十年十月条」
 日本武尊
 「海路をとって
  葦浦を廻り、
  玉浦を横切って
  蝦夷の境に至った」
 とし、
 茂原市本納には
 「弟橘媛(おとたちばなひめ)」
 を祀る橘樹神社がある・・・
 「続日本後紀
  承和二年(835年)
  三月十六日条」
 「物部匝瑳熊猪
 (もののべ-の-そうさ-の- くまい)
  物部氏十二世(饒速日命十二世の孫)
  父は物部布都久留(ふつくる)
  兄は物部木蓮子(いたび)
  子は大国(おおくに)」
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  改姓記事に、
 「昔、
  物部小事大連、
  節を天朝に錫し、
  出でて
  坂東を征す。
  凱歌帰報。
  下総国に始めて
  匝瑳(ソウサ)郡を建て
  この功勳に籍りて
  下総国に始めて
  匝瑳郡を建て、
  仍て以て氏となすことを得しむ。
  是れ即ち
  熊猪(くまいの・ユウイ)等の祖なり」
 「物部匝瑳足継は
  弘仁三年(812年)二月に鎮守将軍
  物部匝瑳熊猪も
  承和元年(834年)五月に鎮守将軍に任」
 「物部氏」も進出した・・・
 「小川台古墳群を
  物部氏
  奥都城」とする説も・・・あるらしい・・・
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 ・・・地名、名前の漢字と数字は「何時のモノ」なのか?・・・「明治の文明、文化」の所産だろう・・・?
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 物部匝瑳(ソウサ)氏の・・・・物述べの操作?
 本貫は
 当郡(匝瑳郡)であったが、
 承和二年(835年)三月に至り、
 宿禰の姓を賜るととも
 本貫を
 左京二条に移した・・・・・佐教・差教・詐経・差今日?
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 慶応四年七月二日(1868年8月19日)
 幕府領などが
 安房上総知県事の管轄となる
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 明治初年
 七ヶ村新田が
 蕪里村、高村、篭部田村、堀川小屋村、
 栢田村、今泉村、川辺村に編入
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 明治二年二月九日(1869年3月21日)
 安房上総知県事が
 宮谷県となる
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 明治四年
 七月十四日(1871年8月29日)
 廃藩置県
 藩領が佐倉県、生実県、安中県、西端県の管轄となる
 十月二十八日(1871年12月10日)
 第1次府県統合により、
 安中県の管轄区域が・・・・案註懸?
 群馬県の管轄となる
 十一月十四日(1871年12月25日)
 第1次府県統合により、全域が
 新治(にいはり)県の管轄となる・・・新貼り懸?
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 1875年(明治八年)・・・・・・・・・葉知撚?
 五月七日
 第2次府県統合により、
 新治県のうち
 香取郡海上郡匝瑳郡が
 千葉県に編入
 尾垂村、惣領村が合併して
 尾垂惣領村が成立
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 1878年(明治十一年)11月2日
 郡区町村編制法の
 千葉県での施行により、行政区画としての
 匝瑳郡が発足
 「海上匝瑳郡役所」が
 海上郡
 銚子町に設置され、同郡とともに管轄
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 ・・・和邇・話似・和爾・和仁・・・撰字文・・・戦時悶(問)・・・カイロ宣言・・・ポツダム宣言・・・玉音放送・・・アメリカ戦艦ミズーリ甲板・・・応訊・・・応神天皇・・・