2010日目・・・先日、「ガリバーの時代のラピュタ(天空の岩島)」と「古事記・日本書紀」との関連を書き込んだが・・・・古代九州の「岩井の乱」とは何であったのか?・・・「岩戸開き・磐余彦=神武天皇」・・・「神武(神倭伊波礼琵古命(古事記)=神日本磐余彦尊(日本書紀)景気」の由来とは・・・「磐の余り」と「伊の波の礼(禮)」である・・・ラピュタの時代は「ガリバー旅行記」が「初版 (1726年)〜完全版(1735年)」であるから、執筆は「トーリー党(Tory Party)=(後のジェームズ2世)の即位を認める立

 で、時代は「1800年代の日本」だが・・・
 「兎園會(トエンカイ)1825年・文政八年」なるものが「曲亭(滝沢)馬琴=曲亭陳人(かわら版記者・南総里見八犬伝、兎園小説の作家」が開催して
 「1803年享和三年春二月二十二(廿二・廾二)日午刻」
 に
 「うつろ(虚・空洞)舟と蛮女(去る亥の年=1803年)」
 の報告したらしい・・・ナゼか、「兎(うさぎ・卯・月・菟・莵・兔)の園(その)の會(あい)」・・・?・・・問えんかい、訳宛繪(絵)・・・
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 1803年
 享和三年春二月二十二(廿二・廾二)日午刻・・・
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 癸亥年
 甲寅月
 丁亥日・・・・ユリウス 暦西暦1803年4月1日
        グレゴリオ暦西暦1803年4月13日
 丙午時
 水曜日
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 1807、8、9年・・・
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 https://www.youtube.com/watch?v=TMPUH28NCbA&ebc=ANyPxKqKZCZEp2O7hDYQJHcL2MQG6sB-NgbMIZL5gNhyLh-yyapgAmAcKGm5krYbjLEdDIFv2Y9ihLU-NCbfFo7rQMk2Y_MeXg
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 事件の場所
 常陸国
 はらやどり
 茨城県
 大洗町北茨城市?)付近の
 海岸「はらやどりの」の浜
 鹿嶋灘(鹿島郡京舎ケ浜)の
 原舎ケ浜
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 舎利浜(伊能忠敬の絵図に記録)
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 うつろ舟の漂着した舟と女性の情報
 釜状の舟
 上部にガラス状の窓・鉄制の釜状の下部に縦縞の襞
 女性の状態
 赤毛・つけ髪・西洋風衣服・長靴
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 1825年後の「兎園會」で
 「滝沢馬琴」が報告
 前年の
 享保二年(1824年)5月28日に
 大津浜事件
 水戸藩領の
 大津(北茨城市大津町)の浜に、
 イギリス人
 12人が上陸
 水戸藩が尋問
 後
 彼らを船に帰した
 この年
 異国船打ち払い令が出された・・・
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 情報
 かわら版で類似したものが
 愛知・京都などで発売
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 研究
 1926年大正15年
 柳田国男
 「うつぼ(空洞)舟の話」を発表
 ・・・うつぼカズラ(ウツボカズラ(靫葛)
    打保・笂・簳・宇津保





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 金色姫(星福寺)本尊
 茨城県神栖市・・・神栖(すむ・セイ・サイ)
          栗栖・来栖(クルス)
 養蚕・・・箱の中には蚕(1807〜8)
 曲亭馬琴=曲亭陳人・・・かわら版記者の署名
      「兎園小説」の作者
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 蘭文字(△○・王・○十○・○△○)の記録
    「蘭字枠」=浮世絵の外枠にデザインされた和蘭文字
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 2012年1月発見の「かわら版」
 滋賀・甲賀流忍者の家から発見
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http://scoby.blog.fc2.com/blog-entry-742.html
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 漂着の類似言い伝え
 『千葉県安房和田町(現南房総市)花園の伝説。
 「子の神由来記」と呼ばれる
  掛け軸に記録
  花園天皇(即位1308年)
  一人の姫がうつろ舟に乗ってこの地に漂着
  村人達の介護もむなしく、姫は死亡
  姫の墓に
  一本の花木(ハマボウの花)を植えた
  村の名も、
  西条村から
  花園村に変わった』
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 中国の古民話
 『あるところに金持ちの権力者の男がいたが、
  大事にしていた娘が
  未婚のうちに妊娠しているのが発覚した。
  娘を問い詰めると、相手は信心している寺の
  若い僧侶ということであった。
  怒った男は、僧侶を捕まえて首を斬った。
 また、いったん入ると出ることのできない舟を作り、
 その中に自分の娘を閉じ込め、流した』
 ・・・そうですか・・・「安珍-清姫」にも似ている・・・道成寺
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 "江戸時代の日蘭交流"
http://www.ndl.go.jp/nichiran/index.html
江戸時代の日蘭交流江戸時代の日蘭交流
 日本におけるオランダ語学習
 長崎の出島居留オランダ人との交渉のために
 長崎に配置された通詞(通訳)たちによって始められた。
 始め平戸にあったオランダ商館が長崎の出島に移されたのは、
 寛永16年(1639)の
 鎖国令により
 ポルトガル人が出島から放逐されてから2年後の
 寛永18年(1641)のことであったが、これ以後幕末に至るまで
 オランダ商館員(ただし男性のみ)は長崎の出島に居住を認められ、
 幕府公認の日蘭貿易に従事した。
 オランダ商館が出島に移って以後、幕府は、
 日蘭交渉の実務に携わらせるために通詞、
 すなわちオランダ語の通訳の養成を開始し、
 将来の通詞候補の若者を選んで出島に赴かせ、
 オランダ人から直にオランダ語を学ばせた。
 こうしてネイティブ・スピーカーから
 オランダ語を学んだ通詞の仕事は世襲であり、
 それぞれの家で親から子へとオランダ語の知識を伝承させた。
 このようにして、
 17世紀後半には長崎の通詞制度が確立し、
 ある程度のレベルの生きたオランダ語の知識が伝承されるようになった。
 17世紀後半以降の日蘭貿易の進展とともに、
 長崎におけるオランダ語の学習と研究は
 これらの通詞たちを中心として深められ、
 語学のみならず西洋の学問の研究も一段と進展した。
 このようにして西洋の学問研究を行ったことで知られる
 オランダ通詞の家としては、
 吉雄家、
 志筑家、
 本木家
 などが知られている。
 また、18世紀後半の江戸においても、
 前野良沢
 杉田玄白
 らがオランダ語医学書の翻訳を行い、
 安永3年(1774)に
 『解体新書』として刊行し、また、
 大槻玄沢の私塾である
 芝蘭堂ではオランダ語教育が行われ、
 寛政8年(1796)に玄沢の弟子の
 稲村三伯が日本で最初の
 蘭和辞書である
 『波留麻和解』(「江戸ハルマ」)を刊行するなど、
 蘭学の興隆が見られた。
 19世紀になると、世界情勢の変動が日本にも波及し、
 フェートン号事件(1808年)をきっかけに、
 長崎の通詞たちの間ではオランダ語のみならず
 英語の学習も始められ、のちに
 日本人がオランダ語学習から英語学習に転換していく先駆けをなした。
 その一方、
 ヨーロッパ情勢の変動により
 オランダ船の渡来がほとんど途絶えた
 1810年代の出島では、
 オランダ商館長ドゥーフが、
 『波留麻和解』のもとになった
 フランソワ・ハルマの蘭仏辞典の日本語訳を独自に開始し、
 ドゥーフ帰国後の
 天保4年(1833)に、
 長崎通詞たちの手で
 『ヅーフハルマ』(「長崎ハルマ」)として完成した。
 この『ヅーフハルマ』は写本の形で西日本を中心に流布した。
 また、19世紀前半には長崎や江戸以外の地でも
 私塾や大名家で蘭学オランダ語学習が行われるようになった。
 こうした私塾の中では、緒
 方洪庵が開設していた大坂の適塾が名高く、
 村田蔵六大村益次郎
 や
 福沢諭吉などが門弟として知られている。
 嘉永6年(1853)の
 ペリー艦隊の来航に刺激を受けて、
 日本における蘭学及びオランダ語学習は一層の進展を見せ、
 安政5年(1858)には
 今日の慶應義塾大学の前身となる
 蘭学塾が福沢諭吉により江戸で設立された。
 また同じ頃に、
 近畿・北陸や東北、九州の諸藩においても蘭学の進展がみられた。
 その後、明治維新とともに、
 英語、フランス語、ドイツ語などが
 オランダ語に代わって日本人の学習対象となっていくが、
 地方においては、
 19世紀の後半まで
 オランダ語オランダ語文献の影響が残っていたようである。
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 ・・・???・・・「英語」もねッ・・・