1990日目・・・昨日は屋根の雪下ろし、除雪、2階の灯油をタンクに給油で疲れてダゥン・・・「???」マークを日記に書き込んだだけで、サボリ・・・本日、2月28日は朝から天気、ツララの水滴が眩しい・・・午前中にオフロ、洗濯・・・今年は「置閏(チジュン)法」で閏(うるう・ジュン・ニン)年。明日の「29日」まで「2月」だったのを忘れていた・・・4年に1回の誕生日のヒトは長生きしてんだろうな・・・「太陰太陽暦=一年を354日、19年に7回、8年に3回などの割で適当な閏月を設ける」、「太陰暦=1年、約354日・適
「潤=氵+門+壬」は水門によって貯水池に潤った水だろう・・・日本歴史ならば「水戸黄門(徳川光圀)」だが、「黄門」が「黄色の門」なら「西の門=白虎or麒麟」だが、宮殿・後宮の門の色(黄)から判断するならば「方位の乾(戌・北西)、艮(丑・北東)、巽(辰・南東)、坤(未・南西)」の「戊・己=土色→黄色」で、門がその後宮の角地にあったのか、どうなのかは微妙である。「黄門」は「中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務」の「黄門侍郎=給事黄門侍郎」の略で、漢代では「宦官の職名=小黄門、中黄門」。「唐代の門下省次官」の「中納言」の名で、光圀の官職と職掌が似ているので「黄門」・・・「第2代-常陸(ひたち)水戸藩主、水戸光圀=水戸黄門。水戸藩初代藩主頼房の三子。常山人、梅里と号・諡号は義公・水戸北郊の西山荘(常陸太田市)に隠棲し、隠居後は西山隠」・・・「閏」の漢字・・・
中納言・・・注(註)納言
黄門・・・・後門・閘門・後門・校門・肛門・・・口問
水戸・・・・ミズのト
北郊・・・・キタの郊
西山荘・・・ニシのサンソウ
常陸(ひたち)・・・日立・肥立・火性質・干性質
比経知・扉性質
太田市(おおたし)・・・太(多史)→太安萬侶
隠居後・・・・・・・・・允許→木戸孝允・・・韻拠・殷墟
西山隠・・・・・・・・・似史、爾史の纂引
である・・・コレラの漢字の示唆、暗示と、その推理の条件は揃っているが・・・?
「閏」の異体字は「閠・𨳝・𥹿・䦞」であるらしい・・・
「閏=余り・余分な→有留得(卯・兎・鵜・鸕・鄔・鶖・鰞・烏・鴎・胡・迂・雨=ウ・あめ・あま=天)?」・・・「售得(うるう・売る-ウ)=隹+口+得」、「詅得(うるう・売る-ウ・てらう=衒-ウ= 詅-ウ)=言+令+得」か?・・・「閏」は「氵(さんずい・みず)」を省いた「門の壬」である・・・五行からは「北(壬・玄武=蛇亀)の門」だろう・・・「北門之歎」は「仕官した先の主人が愚かな人物で、重要な地位につくことができずに嘆くこと・「北門」は『詩経」の詩の編名=中国の東晋の李充が家計のために、地位の低い地方官になったときに言ったとされる言葉から「北門之歎」とも・・・台北府城の北向きの門=「承恩門=天子の恵みを授かる」という意味から・・・「萩城三の丸の毛利屋敷跡の和魂才の宿・山口県萩市北門屋敷」・・・
北枕
北向く
大相撲の隠語で、変わり者、すね者
高松城の鎮守神である
華下天満宮(はなしたてんまんぐう)は改築にあたり
社殿が通常の向きと違う北向きに建てられて、
別名「北向き天神」と呼ばれている
この呼び名を
「北向き変人」とシャレ言葉にした
↓
北門ではなく、西門は
「嘆きの壁(西の城壁の門?)」で単語自体は
アラビア語「el-Mabka(涙の場所)」の直訳らしい
ヘブライ語の音で
水は「マイム」・・・・「mayim(マイム)=水」
歌詞『Mayim mayim be-sasson』は
旧約聖書(ヘブライ語)の借用で、
直訳は「乾燥の地で見つけた
喜びの水」
MIME(マイム)=身ぶり・手ぶり・ものまね
無言劇
語源は
ギリシア語「ミモス(mīmos)」
ラテン語「ミムス(mimus)」
演劇、古代の軽業、声色、寸劇
など・・・
北は「ツァフォン」
東は「ミズラフ」・・・北ではなく、
「ひんがし・あづまはや」
「みずら-ふ」→「角髪(あげまき)-フ」
「髪型のお下げ」の附?
籠(カゴ)は「サル」・・・「猿女=宇受女」、「猿田彦」?
空間は「ハラル」・・・・・「原留」→葉等留?
朝は「ボケル」・・・・・・ボケ?
一日は「ヨム」・・・・・・読む→余務→夜務?
らしい・・・
↓
「壬(みずのえ・ジン・ニン・九番目の十干
人名→あきら・つぐ・み・みず・よし
章 注ぐ 視 瑞 葦・与詞・由
「任那(みまな)日本府」
「壬生 (みぶ)」
壬生・・・日本の氏族名
壬生家=公家・壬生姓
日本の地名
壬生(みぶ)
日本の地名
栃木県下都賀郡壬生町
壬生城
壬生藩
壬生寺
壬生通り
京都府京都市壬生
壬生川通
壬生浪士
壬生寺
広島県山県郡北広島町壬生
壬生城 (安芸国)
壬生の花田植
「壬」
↓
「妊と通じ孕む」、
「北方に位する・陰極まりて陽生ず
故に易に曰く『龍、野に戰ふ』と
戰は接するなり
人の褢妊の形に象る
亥、壬を承くるに子(水=壬・癸)を以ってするは、
生の敘(述べる・ジョ)なり(?)説文解字・巻十四」
・・・「敘(述べる・ジョ)」は
「1946年の官報で使用印刷の活字の字体は「敍」
1947年、官報で「敘」に訂正
1949年の当用漢字字体表採用は「叙」」・・・
「敘=敍=叙=述べる」
「閏」=正統でない天子の位
閏統(正統な帝位を奪った皇統
閏指=六本ゆび(奇形)・・・余った「一本を指す」?
「正閏」
「閏月・閏年」
「異体字」の
「閠」=門+玉
「𥹿」=米+火+土
「䦞」=門+氵+壬・・・類字は「淫」、「浧」
ーーーーー
「閏」
↓
餘分の月なり、
五歲にして再び閏す、
告朔(コクサク)の禮、
天子は宗廟に居し、
閏月には門中に居す、
王の門中に在るに従ふ、
周禮に曰く、
閏月には、王の門中に居ること、
終月なり、と(説文解字)
・・・説文=「節分・窃文・拙文」?
・・・解字=「開示・開字・戒自・怪事・快事・界磁」?
「海事・海路・海自(海上自衛隊)」・・・?
ーーーーー
国立天文台の「Q&A」のブログ記事から
↓
閏年
グレゴリオ暦法
西暦年号が「4」で割り切れる年
西暦年号が「100」で割り切れ
「400」で割り切れない年は平年
(西暦2000年、2400年は、
100で割り切れ、
400でも割り切れる)
↓↑
・・・西暦年数を「コンピュータで干支(六十・六拾周期)年」に変換する「要」で、「干支日(六十・六拾周期)」の「かなめ(要)」である・・・問題は「月の節入り(二十四節季・七十二侯)」は「春分の日」で決まるから「月の節気の境目(節入り日)」、あるいは、その「前後の日」の「月節決定」は微妙である・・・「格式」は「月節期間の蔵干」で決定されるから、「節入り日の日の時間帯」も「節入り日=節入り月」の「かなめ(要)」となるから、その判断は曖昧にならざるを得ない。しかも「月節期間の蔵干」も、その有無による「透干理論」としての「整合性」が曖昧である・・・「自然科学=物理学」の根幹を支えている「数字(計算認識)」も「存在(実体)」からは微妙である・・・で、「五行(疑似科学の物質元素)」を根幹とする「四柱(履歴)推命」も、それで「ヨし」だった・・・「経験則で推理された命」だから「絶対」ではないのはアタリマエである・・・「閏=余り・余分な」モノは「認識外」ではあるが、アドバイサーはナントカしなくちゃァ・・・
↓↑
地球が太陽を一回り=約365.24219日
グレゴリオ暦法の
1年の平均日数を計算=365.2425日
グレゴリオ暦の1年≠現実の1年間
「約0.00031日程度の差」
数千年程度で1日のずれが生ずる・・・
ーーーーー
↓
地球が太陽のまわりを回る(公転)=約365.24219日
=365日+6時間余
春分点を通過〜次の春分点を通過する時間=約365.24219日
星空に対して地球が太陽を1周する時間=365.25636日
1996年の春分は、3月20日の17時3分
1997年は、その約6時間後の3月20日の22時55分
1998年は、その6時間後の3月21日4時55分
1999年は、3月21日10時46分
春分は毎年約6時間ずつ遅くなっていく
そのために春分日の日付がずれる・・・占い上では困る?
2000年(閏年)=1年の日数=366日
そのため、
春分は約6時間遅れると同時に
1日早い日付になり、
1996年の春分の時刻に近い、3月20日の16時35分になった
だが、春分の時刻は、
4年前と全く同じ時刻にナラナイ
長期的には春分の時刻は少しずつ早まる
2024年からは、
うるう年を含む3年間は
3月20日が春分日で、
残りの1年が3月21日
2056年からは、
毎年春分日が
3月20日になる・・・
↓
秋分日が
9月23日なのは、
1980年から・・・
4年に一度
9月24日が秋分日
2012年からは、
4年に一度
9月22日が秋分日・・・
ーーーーー
・・・???・・・