1953日目・・・マルっと雪投げの一日・・・ウンザリ(辟易→運覚理)だが・・・白い「カミ」が与える試練のママに、黒い「アクマ(666・六六六=六×三=十八=壱拾八=拾八・六×六×六=6³=216)」の与える試練のママに・・・「六」の「数字=すうじ=素得字・州氏」に拘(手+句・こだわ・拘泥する)る・・・取句、水(氵)の尼(尸+ヒ・匕→牝)・・・

 コピー用紙は白いが、わら半紙(わらばんし、藁半紙)は、
 薄茶色→黄色・黄版(黄板→大判→大伴←大分←播磨-黒田)・・・
 黄幡(卑弥呼の宗女、壱與(壹與・臺與)-十三歳・張政-帯方郡吏・詔書及び黄幟(黄色の軍旗)・・・
 正始六年(245年)
 皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗)を下賜・・・
 正始八年(247年)
 卑弥呼は太守王頎に載斯烏越を派遣して、
 狗奴国との戦いを報告
 太守は
 塞曹掾史-張政らを倭国に派遣・・・
 壹与は、帰任する
 張政に
 掖邪狗ら二十人を同行させ、
 掖邪狗らは都に向かい
 男女の生口三十人
 白珠五千孔
 青大句珠二枚
 異文の雑錦二〇匹を献上・・・
 正始九年(248年)〜泰始二年(266年)
 魏使、
 張政・・・
 魏志倭人伝三国志西晋国の統一後280以降、陳寿編纂
       元嘉六年(西暦429年)
       これに
      「裴松之」が
       注釈し・・・「裴」の同姓の人物は
             「裴清世」・・・?
             「大業三年(607年)
             「俀王-多利思北孤」が
              第二回遣隋使派遣
              煬帝はその国書に立腹し
              大業四年(608年)
              文林郎
              裴世清を派遣
               ↓↑
              推古十六(608)年六月
              第1回遣隋使
              小野妹子の帰国に伴われて来朝
               ↓↑
             「世」の漢字名は
              太宗
             (唐朝二代目皇帝-李世民
              の諱(いみな)、
             「世民」のために
              諱の使用を避け「裴清」
       上表と共に
       宋の
       文帝に提出
 648年
 晋書(唐代の648年編纂)
 塞曹掾史
 帯方郡太守
 王頎(斤+頁)の部下
 魏から邪馬台国(邪馬壹國)に派遣された
 役人
 梯儁も倭國
 弓遵によって派遣
  ↓↑
 ・・・「わら半紙」とは元は「半紙」のコト・・・
 「明治六・七年までは、すべての用途に対して、紙は和紙」・・・この頃、「洋紙(ザラ紙)」という言葉が使われ始めた・・・
 「当初、舶来洋紙、輸入洋紙、西洋紙と 呼ばれ、
  明治六・七年に製造開始された国産紙を国産洋紙、
  西洋紙と呼ばれた」・・・
 「西洋から伝わった製法で作った紙
  木材・藁(わら)・襤褸(ぼろ)などの
  パルプ、屑(くず)紙を
  機械的、化学的に処理して作る」・・・
 「日本では
  明治六年(1873年)に、欧米の機械を導入した
  初の洋紙工場を設立
  なお、
  木質紙が主流になる以前、
  洋紙の主原料は
  木綿(もめん)の
  襤褸(ぼろ)や
  藁(わら)だった」・・・
  ↓↑
 日本の洋紙製造史
 1871年明治4年
 日本初の製紙会社である
 洋法楮製商社が設立
 しかし製造には至らなかった
 1872年
 有恒社設立
 1873年(明治六年)・・・・明六社
 初代王子製紙設立
 1874年(明治7年)6月
 有恒社が、
 東京に設置した輸入抄紙機で
 日本初の洋紙を生産
  ↓↑
ーーーーー
 西洋紙(シ)と
 西洋史(シ)
 西洋詞(シ)
 の研究・・・「東洋氏」は「和紙(鷲・雕=周+隹・都=周+酉)=わし=倭史」での研究だった・・・?
  ↓↑
 明六社
 アメリカ帰りの
 森有礼
 が
 西村茂樹
 に相談して設立した結社
 社名は
 明治六年(1873年
 に結成されたことに因む
 設立目的
 社を設立するの趣旨は、
 我国の教育を進めんがために
 有志の徒、
 会同して、
 その手段を
 商議するにあり。
 また、
 同志集会して
 異見を公刊し、
 知を広め
 識を明にするにあり。
 (明六社制規第1条)
 明治七年二月
 民衆を啓蒙するために設立された団体
 明治日本にとって最大の目標は、
 富国強兵を実現し
 西欧列強に互すること
 技術や人(お雇い外国人)、
 制度を移入することで
 明治維新が進められたが、
 人間という
 中身も変革(民心の一新)
 することを目指す
 啓蒙思想
 「文明国」という
 「世界標準」に追いつくためには、
 民衆を
 「文明国」的「国民」へと改鋳すべき・・・
 この啓蒙家が集まったのが
 明六社であった
 明六社
 核となった同人
  ↓↑
 森、
 西村
 に誘われて
 津田真道
 西周
 中村正直
 加藤弘之
 箕作秋坪
 福澤諭吉
 杉亨二
 箕作麟祥
  ↓↑
 など、
 かれらは
 西村以外は
 下級武士
 下層出身者
 明治以前から洋学者
 幕府の
 開成所などに召し抱えられていた
 その多くが
 幕末、明治期に
 洋行の経験あり
 尊皇攘夷思想に染まっていなかった・・・
 福澤を除けば、
 明治以後は
 維新政府の官吏になった
  ↓↑
 啓蒙するための手段として選択したのが
 定例演説会と
 雑誌発行
 定例演説会で
 個別のテーマについて意見交換し、
 それを基に筆記したものが
 『明六雑誌』に掲載された
 この「演説」ということばは
 福澤がスピーチにあてた訳語・・・
  ↓↑
 『明六雑誌』の刊行
 『明六雑誌』には
 幾つか
 異本が有る
 タイトルは
 「明六雑誌」で知られているが、
 本文1頁には
 「明六社雑誌」と表記
 大きさも
 B6版相当のものと
 A5版相当のもの
 の二種類
 様々な問題を提起し、
 知識を紹介して
 人々の関心を高めること自体が目的
 演説会・雑誌という
 当時、目新しかった
 情報伝達手段、
 それ自体が関心を引いた
  ↓↑
 扱う範囲は
 総合学術誌を目指した
 学者のあり方から
 妾の是非(男女同権論等)、
 哲学や信教の自由などの
 宗教論、
 文字改良論などの
 教育論、
 死刑廃止論
 等の社会問題関連、
 貨幣・貿易等の
 経済諸問題、
 はては
 妖怪の類まで、
 常に広きにわたる
 論説・翻訳を扱っている
 ただ
 文学に関してだけは
 論説が少ない・・・・
 西周(にし あまね)
 が「知説(第25号)」
 で
 文学用語を紹介する程度・・・
  ↓↑
 掲載論説の
 総数は
 156(壱百五拾六・壱陌伍足陸)本
 津田真道
 29(弐拾九・貮拾玖)本、
 西周
 25本(弐拾五・貮拾伍)、
 阪谷素
 20(弐拾・貮拾)本
 杉享二
 13(壱拾参)本、
 森有礼
 西村茂樹
 中村正直
 各11(壱拾壱)本、
 加藤弘之
 10(壱拾・壱足)本、
 神田孝平
 9本(九・玖)、
 箕作麟祥
 5(五・伍)本、
 柏原孝明
 4(四・肆)本、
 福澤諭吉
 3(三・参)本、
 清水卯三郎
 2(二・弐・貮)本
 箕作秋坪
 津田仙
 柴田昌吉
 各1(壱)本
 掲載されたものは
 明六社同人のものに
 限られていた
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 ・・・雪で世界は真っ白・・・「white out(天地の識別困難)」です・・・「太陽光が遮られ、 足元の風紋も見えない」・・・「視界ゼロ、方向感覚崩壊」・・・屋根から転落し、雪にウズモったが、なんとか這い出して・・・怪我なし・・・
 「ほ・わ。い・と-あ・う・と」をスベテの漢字に変換してみる・・・取り敢えず、「保和意訳・會得訳」・・・