1852日目・・・「安全保障の関連法案は17日午後、参議院特別委員会で採決が行われ、与党などの賛成多数で可決?」、で、今度は「参議院本会議」ですか・・・賛成する奴はマズは「日本国憲法=日本国家意志」に「忠誠を誓うベキ」であるカナ・・・それも「コウノイケ」は、パフォーマンスも必要だとか、「タロウさん」に云っていたとか・・・表面的な「礼儀・儀礼・道徳・形式・段取り・言葉づかい」も階級間の意識行為であるらしく「対等意識」では無いらしい。表現された道徳的コトバのウラでは「倫理的自由の領域」ではあるが・・・「参議

 そして、「人間」としての「ヒトを殺して十字を切るペルー国籍人?」の本質は「懺悔=天国=観念」で、「チリ津波?」の本質は「地獄=現実」である・・・
 事実、事象、事件に直面していない人間も自然災害、人間災害には「危機意識」が他人事で、キウスである・・・
 以下は「ウイッキペデア」や、他のブログ記事などを参照、参考にしたものを若干、改作して添付したモノ・・・
  ↓
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 旧約聖書
 ネヘミヤ書
 尼希米記=ネヘミヤ記
  ↓↑
 ネヘミヤ・・・音経視哉
 (Nehemiah=主は慰めてくださった、のヘブライ語
 「エズラ記」
 と
 「ネヘミヤ記」は1つの書物であったらしい・・・
 物語の連続性や、
 同一の登場人物が登場
 七十人訳聖書の
 「エスドラ書」ともその内容が重複
 「歴代誌」と「エズラ記」、
 「ネヘミヤ記」は
 「歴代誌史家」と
 同じ著者グループの作品・・・
 特に
 1人称(「私は・・・」)
 で
 記された箇所の背景には
 エズラ、ネヘミヤ
 の
 回顧録が保存されていた・・・
 「私」=「わたし・わたくし・よこしま・シ」=「ム」
      渡し  和多句詞 邪=横嶋 詞  謀=務・武
  ↓
 「ネヘミヤ」は
 バビロン(バビロニア)・・・ 巴比倫
 捕囚からの解放後、
 エルサレムに派遣された
 ペルシャの総督(献酌官・宦官?)
         ケンシャクカン=縣借巻・建尺間
                 懸務借款
 で、
 エルサレムの城壁を再建し、
 民族の復興に尽力した
 ネヘミヤに由来・・・・・音経視哉(埜)
             埜=林(はやし・リン)
                   土(つち・ド)
               木+木+土
               記 紀+十+一
               二 き 拾 壱
 ネヘミヤの事跡(1章〜7章)
 ネヘミヤのエルサレム行き(1〜2章)
 エルサレムの城壁の補修(3〜7章)
 律法の公布(8章〜13章)
 律法の朗読
 城壁の奉献
  ↓↑
 ネヘミヤ
 は
 紀元前515年
 第二神殿が完成後
 アケメネス朝
 ペルシャにより
 ユダヤ属州の
 総督として
 派遣されたユダヤ
 エルサレムの城壁を再建し、
 ユダヤ民族再興に取り組み、
 エズラ
 らとともに
 ユダヤ史における
 第三次帰還を率い、
 第二神殿時代のはじまりを担った
 ハカルヤ
 の息子
 ネヘミヤ
 は、
 紀元前586年
 新バビロニアによって
 エルサレムが陥落したあと
 バビロンに移され、
 ユダヤ捕囚民となった
 その後
 紀元前539年
 ペルシャによって
 新バビロニアが滅ぼされ、
 捕囚民の
 エルサレムへの帰還が許されたが
 一部のユダヤ人は優遇され
 繁栄していた者は
 バビロニアに残った
 ↓↑
 ネヘミヤ
 は、
 アケメネス朝
 ペルシャの王
 アルタクセルクセス1世
 の献酌官だった
 「かの州で
  捕囚を免れて生き残った者は
  大いなる悩みと、
  はずかしめのうちにあり、
  エルサレムの城壁はくずされ、
  その門は
  火で焼かれたままであります(ネヘミヤ記1:3)」
 を知り
 紀元前445年
 ネヘミヤは
 エルサレムに行く決意をし
 ペルシャ王の許可を取り付け、
 総督として
 エルサレムに向かった
 52日間で
 エルサレムの城壁を修復
 「またわたしは、
  ユダの地の総督に
  任ぜられた時から、
  すなわち
  アルタシャスタ王
  の
  第二十年
  から
  第三十二年
  まで、
  十二年の間、
  わたしも
  わたしの兄弟たちも、
  総督としての
  手当を受けなかった(ネヘミヤ記5:14)」
 「わが神よ、
  トビヤ、
  サンバラテ
  および
  女預言者
  ノアデヤ
  ならびに
  その他の預言者など、
  すべて
  わたしを
  恐れさせようとする者たちを
  おぼえて、
  彼らが行った
  これらのわざに報いてください。
  こうして
  城壁は
  五十二日
  を経て、
  エルルの月
  の
  二十五日に完成した(ネヘミヤ記6:14-15)」
  紀元前433年
  ネヘミヤは
  ペルシャに戻り
  再び王に仕え、
  その後に
  ユダヤ人の信仰が乱れ
  再びエルサレムに戻り
  様々な改革を行う
  「その当時、
   わたしは
   エルサレムにいなかった。
   わたしは
   バビロンの王
   アルタシャスタ
   の
   三十二年に王の所へ行ったが、
   しばらくたって
   王にいとまを請い、
   エルサレムに来て、
   エリアシブ
   が
   トビヤ
   のためにした悪事、
   すなわち
   彼のために
   神の宮の庭に
   一つのへやを
   備えたことを
   発見した(ネヘミヤ記13:6-7)」
   ↓↑
 ネヘミヤ記
 破壊されたエルサレムの城壁の修復
 修復の際、
 エルサレムやその周辺に領土を持つ
 サマリヤ人からの妨害
 これに、
 武器を持たせて警戒させた
 ペルシャ
 に背き
 王になるつもりだと言う
 噂を立てようとする脅迫
 城壁の完成によって
 町の安全性が高まった・・・?
 エルサレムの住民を増やし
 エルサレムの町を治めさせた
 「民のつかさたちは
  エルサレムに住み、
  その他の民は
  くじを引いて、
  十人のうちから
  ひとりずつを、
  聖都エルサレムに来て住ませ、
  九人
  を
  他の町々に住ませた(ネヘミヤ記11:1)」
 神殿への
 奉仕や務めについて定めた
 「すなわち
  イスラエルの人々
  および
  レビの子孫は
  穀物、ぶどう酒、
  および
  油の供え物を
  携えて行って、
  聖所の器物
  および
  勤めをする
  祭司、
  門衛、
  歌うたう者たちのいる
  へやに
  これを納めなければならない。
  こうして
  われわれは、
  われわれの神の宮を
  なおざりにしない(ネヘミヤ記10:39)」
 安息日の取り引きを中止
 「そこで
  安息日の前に、
  エルサレム
  もろもろの門が
  暗くなり始めた時、
  わたしは命じて
  そのとびらを閉じさせ、
  安息日が終るまで
  これを開いてはならないと命じ、
  わたしのしもべ数人を門に置いて、
  安息日
  荷を携え
  入れさせないようにした(ネヘミヤ記13:19)」
 異邦人との結婚を禁止
 「そのころまた、
  わたしは
  アシドド、
  アンモン、
  モアブ
  の
  女をめとったユダヤ人を見た。
  彼らの子供の半分は
  アシドド
  の言葉を語って、
  ユダヤの言葉を語ることができず、
  おのおの
  その母親の出た民の言葉を語った。
  わたしは彼らを
  責め、
  また
  ののしり、
  そのうちの数人を撃って、
  その毛を抜き、
  神の名をさして誓わせて言った、
 「あなたがたは
  彼らのむすこに
  自分の娘を与えてはならない。
  また
  あなたがたのむすこ、
  または
  あなたがた自身のために
  彼らの娘を
  めとってはならない(ネヘミヤ記13:23-25)」
 ネヘミヤ
 は様々な問題に取り組み、
 宗教上の改革や・・・・・?
 社会の改革を行った・・・?
ーーーーー
 ・・・異邦人との結婚が「宗教上の改革」とは?・・・
 つまり、「ユダヤ民族主義者?」にとって、
 「女性」は、
 「妻」になっても、「母親」になっても
 「男の私物」だったのだ・・・ナゼか?・・・
 ・・・「民族国家主義者の敵」は「他の民族国家主義者」である。
 「移民・混血」は「二重(民族?)国籍」になり、「階級国家間戦争」には不都合であるからだ・・・「機密情報が敵国に洩れる可能性」があり、「民族(?)国家内での間諜(スパイ)、叛乱、謀反が起こる可能性」があるからだ・・・
 国家間戦争に於いては「民族(?)国家への忠誠登録」が要求される。だが、昔も、今現在も、「純粋な人間種族としの民族」などはあり得ない。「民族」と云う日本語(促成明治作成語)概念は「戦争遂行、挙行概念」であり、「虚構」であり、「支配者幻想」である。実体存在は「人間」でしかあり得ないが、その「人間社会」は「階級・階層」を形成している「支配階級秩序」の「社会」なのだ・・・
 「忠誠登録」とは「階級社会秩序を裏切らない」と云うコトである。だが、「階級国家間」戦争に於いては「自国、敵国」を問わず「国家敗戦前後」には「階級秩序は混乱」し、「裏切り者」がワンサカ排出する。「戦国時代」を視よ・・・「かえり忠」・・・
 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」
 ココで述べられている「我が国」とは、「他国」とは、「国民」とはナンなのか、ダレなのか?・・・
 「国家」が存在しなくても「生命、自由及び幸福追求の権利」は「人間個々人、人類一般の権利」である・・・当然である・・・生きている者、生き残った者には、「最小限の生きていく生活(衣食住)の糧」さえあればイイ。それすら保障しないのが「階級国家間戦争」である・・・しかも「生命の未来的保障」は無い。それは、相手の「生殺与奪の選択の自由」次第である。「奴隷」にすらなれない「相互殺傷の戦場現場」では尚更である・・・「ドレイ」が厭なら「自殺」するより手が無いが・・・生きて仇撃ちが出来るのか、ドウなのかは「生かされている間」である。それとも、ジェノサイド(genocide)でなければ「子孫」に託すか・・・
 多分、中国も朝鮮も、全世界の「諸国家領域」には「民族」は存在せず、「人種」は存在するが、「純粋人種」は存在しないだろう。近代国家では「諸国家の法的に保証された諸国籍人」だろう・・・
 「多民族(?)の坩堝(るつぼ)」である国家、「移民の国家アメリカ合衆(州)国」は「民族(概念)国家」としては成り立たないのは当然である・・・他国家も同じである・・・
 「アメリカ合衆国国家への忠誠」とは「自由」と云う「幻想」であった。「自由選択主義」であって、「民主主義」ではない・・・「職業(生活費、カネを稼ぐ為の)と住居(居住地)を自由に選択出来る国家」だが、これらの「自由」は「商品市場と労働市場の需要供給の枠内」でのみで「選択出来る自由」である・・・衣食住の生活、「カネ」の余裕がある奴等は「自由」である。地球異変、災害が襲わないかぎり、病魔が襲わないかぎり、強盗が襲わないかぎり、そのエゴに生きている間には、奴等に「民主」などは無用であろう・・・
 「自由の民主」であり、「民主の自由」ではない・・・「商品市場と労働市場の需要供給の枠内」では「民主主義」は成り立たないのは自明である・・・あるのは「プチブル意識(成金志向・立身志向)としての自由選択の民主主義」である・・・
 アンタもオレも「成金」になれるし、「立身」するコトもデキルはずだが、そうは問屋がおろさない・・・投げた「サイコロの目」次第であるが・・・それで、イイはずがない、と思うのはダレなんだか・・・