1697日目・・・スゴイネッ!!今夜の22:55の「探検バクモン・北海の湾岸要塞〜後編〜・日本最大級の『セメント工場』に潜入!海上では巨大クレーンを目撃。さらに雪山で待ち受けるのは、超巨大重機と大爆発!?街を形作る原料・セメントのヒミツ」・・・そして、「歴史秘話ヒストリア」ですか・・・「国書偽造・秘められた真実〜国境の島・対馬の憂鬱〜・豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶した日本と朝鮮。そこから僅か十年で国交を回復させた立て役者が対馬の人々だった。その裏には国書偽造という恐るべき秘密が隠されていた」・・・「李氏-朝

  ↓↑
 日朝の国交回復を
 李氏朝鮮
 対馬藩が仲介として
 1607年(慶長十二年)
 6月29日(5月6日)
 「通信使(3回目まで回答兼刷還使)」
 を幕府に派遣
 江戸で
 徳川秀忠に国書を奉呈
 帰路
 駿府
 徳川家康に謁見
 「回答兼刷還使」の目的は
 日本側からの国書による
 「回答(謝罪)」
  と
 「刷還
 (儒家、陶工捕虜などの解放と朝鮮への帰郷)」
 であった
  ↓
 国書の偽造は
 朝鮮側使者も偽造を黙認・・・?
  ↓
 1636年(寛永十三年)
 国書の偽造内容
  ↓
 朝鮮側の国書で
 徳川将軍の呼称を
 「日本国王」から
 「日本国大君」に変更すること
 (呼称は
  京都
  五山の高僧
  玉峰光璘・・・・?
  の進言)
 将軍側の国書では
 「日本国-源家光」とした
 親書の
 「年紀の表記」を
 「干支」から
 「日本の年号」に変更
 使者の名称を
 朝鮮側の
 「使兼刷還使」から
 「通信使」に変更・・・
 中華思想冊封体制であった
 「国王」称号や
 「干支」の使用を取り替えた・・・
 後に、対馬藩家老であった
 柳川調興(やながわ しげおき
   対馬藩家老・玄蕃頭、豊前
   号は式山・梅軒・素庵
   徳川家康、秀忠の小姓だった)
 は
 寛永十年(1633年)に
 対馬藩
 国書改竄を幕府に直訴
 結果
 対馬藩
 宗義成は忠告のみ
 お咎めなし、
 柳川調興
 津軽流罪・・・?ナゼか、調の興(味)
       老中・土井利勝の配慮で、
       家臣七名の供を許され、
       弘前城南西に広大な屋敷を与えられ
       藩主津軽信政の賓客として遇された
       貞享元年(1684年)死去
       墓所弘前
      「長勝寺」・・・    
 朝鮮側は、
 文禄・慶長の役の後、
 日本に対する
 李朝への批判
 日本に
 朝鮮人捕虜の返還要求
 だが
 朝鮮から
 明が撤退後
 日本の再侵略を恐れ、
 後金からの脅威もあって
 日本とは
 友好関係の
 締結を望んでいた・・・?
  ↓↑
 その前の時間帯は「試してがってん」の「尿道(尿管)結石」・・・ボクも七転八倒の経験があるが・・・遶道(ニョウドウ・キョウドウ)結石・・・「オステオポンチン(osteopontin)」・・・?
ーーーーー
 オステオポンチン(osteopontin)
 オ捨て汚本沈(陳)?じゃぁないよな・・・
 オステオポンチン
     pontine=橋・脳橋(ノウキョウ)→納経?
  ↓
 骨芽細胞(Osteoblasts)
 破骨細胞(osteoclasts)
 英語は「Osteoblast」
 ・・・なんか、複雑・・・
  ↓
 骨粗鬆症が多くなるのは、
 エストロゲンの分泌が減少するため
 一型コラーゲンや
 オステオカルシン
 オステオポンチン
 骨シアロタンパク質などを 産生する
 燐灰石(リン酸カルシウム)
 抗酸化物質(antioxidant)は、
 抗酸化剤とも呼ばれ、
 生体内、食品、日用品、工業原料において
 酸素が関与する有害な反応を
 減弱もしくは除去する物質の総称
 生物化学あるいは栄養学において、
 狭義には
 脂質の
 過酸化反応を
 抑制する物質を指し、
 広義には
 生体の酸化ストレスあるいは
 食品の変質の原因となる
 活性酸素
 (酸素フリーラジカル
  ヒドロキシルラジカル
  スーパーオキシドアニオン、
  過酸化水素等)
 を捕捉することによって
 無害化する反応に
 寄与する物質を含む
  ↓
 尿路結石の核
 上部尿路結石
 腎結石
 尿管結石
 下部尿路結石
 膀胱結石
 尿道結石
 成分は
 尿酸結石
 シスチン結石
 リン酸結石
 シュウ酸結石など
 ・・・???
ーーーーー
 「遶道祭(ぎょうどうさい)=大和の官幣大社の神事。一月一日、献灯の火を松明に 移し、信者が持ち、神職と共に摂末社を巡る。みなそれを移しともして持ち帰り雑煮を炊く」・・・「遶=ニョウ(ネウ)・ ジョウ(ゼウ)・めぐる」・・・ 「右遶三匝=遶仏(にようぶつ)・施遶(せによう)」、「インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,比丘たちは仏に対して右 遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった」、「うにょうさんそう=右繞三匝・右遶三匝」 、「仏教用語=礼式の一で、仏 に対して右回りに3回まわること。また、その作法」、「にょうぶつ=繞仏・遶仏=繞堂(にょうどう)」に同じ・・・
 「遶=辶+堯(土土土兀)」
            「兀(ゴツ・ゴチ)」
 「兀」=「人の上に一在るに從ふ
      儿の上に一を置く指事で、地形」、
     「白川静は、
      髪の毛を剃り落とした
      頭の側面の象形
      髟に兀を組み合わせた髠
      という字は髪の毛を剃り落とす刑罰」・・・
ーーーーー
  ↓↑
 清和天皇
 嘉祥三年3月25日(850年5月10日)
  〜
 元慶四年12月4日(881年1月7日)
 第五十六代天皇
 在位期間
 858年12月15日
  〜
 876年12月18日
 元号
 天安
 貞観
 先代は文徳天皇
 次代は陽成天皇
 ↓
 諱は惟仁
 貞観帝、
 水尾帝とも
 文徳天皇
 第四皇子
 八歳で即位。
 貞観6年(864年)に元服
 外祖父の
 藤原良房
 が初めて
 人臣摂政となった
  ↓
 貞観八年(866年)
 伴善男らによる
 応天門炎上事件
 伴善男を信頼していたが
 天皇は、
 事件を解決した
 藤原良房を正式に
 摂政に任命
 貞観十八年(876年)
 第一皇子、
 九歳の
 貞明親王陽成天皇)に譲位
 元慶三年(879年)
 5月に出家
 十より畿内巡幸の旅
 翌年3月
 丹波国
 水尾の地に入り
 苦行
 水尾を隠棲の地と定め、
 新たに寺を建立中、
 左大臣
 源融の別邸
 棲霞観にて病を発し、
 粟田の
 円覚寺に移され崩御
  ↓
 嘉祥 3年(850年)生誕。同年、立太子
 天安 2年(858年)即位(9歳)
 貞観 8年(866年)応天門炎上事件
          応天門の変
          最澄
         「伝教大師」の諡号を贈る
 貞観11年(869年)祇園祭の開始
 貞観18年(876年)27歳で突然譲位
 元慶 3年(879年)出家して仏門に帰依
          仏寺巡拝の旅へ
 元慶 4年(880年)崩御
  ↓
 清和源氏の先祖
 子孫の多くが
 臣籍降下して清和源氏となった
 栄えたのが
 第六皇子
 貞純親王の子
 経基王の子孫・・・源頼朝足利尊氏
  ↓
 氏神となる
 石(岩)清水
 八幡宮を建立
 八幡宮総本社の
 宇佐神宮大分県宇佐市)から
 勧請された神社
 京都盆地南西の
 男山
 (鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座
 天皇家からは
 遠国の宇佐神宮に代わり
 二所宗廟の1つとして崇敬
 京都の裏鬼門(南西)を守護
 鬼門(北東)の
 延暦寺とともに重要視
 源氏が武神として信仰
 源氏の広がりとともに
 壺井八幡宮鶴岡八幡宮など、
 各地に八幡宮が勧請された
 創建以来、境内の
 護国寺と一体になる
 宮寺形式をとった
 祭神
 三神
 「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称
 中御前=誉田別命(ほんだわけのみこと)
     第十五代応神天皇
 西御前=比竎大神(ひめおおかみ)
 宗像三女神多紀理毘売命市寸島姫命多岐津比売命
       三柱
 東御前=息長帯姫命
     神功皇后
  ↓
 貞観元年(859年)
 南都大安寺の僧
 行教(空海の弟子)が
 宇佐神宮にて受けた
 「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」
 との神託により、
 貞観二年(860年)
 清和天皇が社殿を造営したのが創建
 「石清水」の社名は、
 男山に既に鎮座していた
 石清水山寺
 (摂社石清水社)による
 皇室・朝廷からは、
 京都の
 南西の裏鬼門を守護する
 王城守護の神
 王権・水運の神
 として崇敬
 中世以降は
 勧請元の
 宇佐神宮に代わって、
 伊勢神宮と並び
 二所宗廟の1つ
 清和源氏
 足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏
 などの源氏諸氏族から氏神として崇敬
 武神・弓矢の神・必勝の神とされた
 分霊は
 源頼義による
 壺井八幡宮
 頼義・頼朝による
 鶴岡八幡宮など、
 数多くの八幡宮に勧請
 幕末までは
 神仏習合の宮寺として
 「石清水八幡宮護国寺」と称し、
 東寺(教王護国寺)・清水寺
 比叡山延暦寺仁和寺
 鹿苑寺金閣寺)・慈照寺銀閣寺)
 相国寺・大安寺など
 多くの寺院と関係を持った。
 伊勢平氏も当社を重んじ、
 平正盛の造営の功や
 平清盛伊勢平氏
 臨時祭での演舞が知られる
 江戸時代まで
 護国寺極楽寺、弁天堂を始め
 「男山48坊」と呼ばれる
 宿坊が参道に軒を連ねた
 寛永の三筆である
 松花堂昭乗も当社に仕える社僧
 慶応四年
 (明治元年・1868年)3月12日
 神仏分離により、
 神号を
 「八幡大菩薩」から
 「八幡大神」と改めた
 1871年
 近代社格制度において
 官幣大社に列するとともに社号を
 「男山八幡宮」と改名したが、
 1918年には
 「石清水八幡宮」に戻した・・・
  ↓
 日本三代実録
 清和天皇陽成天皇光孝天皇
 三代が記載された正史
  ↓
 後水尾天皇は、
 清和天皇を意識して
 その諡号を贈られた
 ↓
 嵯峨水尾(さが みずお)
 京都府京都市右京区の地名
 「柚子の里」
 「清和天皇陵」などがある
 「きれいな水が湧く所」という意味
 古くは
 「水ノ尾」・・・水脈(みを)だろう
         巳緒=巳(蛇)の緒
 「水雄」とも書き、
 「みずのを」
 「みのを」とも呼ばれた・・・「美濃緒」は
               蝮(まむし)の
               斎藤道三
               信長の舅である
 集落の位置が
 清滝の川尻にあたることから
 水尾という表記になった
  ↓
 ・・・「みを」は鉱脈、水脈で、「つる」である・・・登山用のピッケルを大きくした「鶴嘴(つるはし)」は石炭や鉱石を掘り砕く道具である。時には冬に凍りついた「氷」を砕く道具でもある・・・「血脈」と云うコトバもある・・・
  ↓
 愛宕山(924m)の南麓にある
 北東側には愛宕山
 西側には
 牛松山(636m)
 四方向を山に囲まれる
 山間狭隘の集落
 北側は
 右京区
 嵯峨越畑嵯峨樒原宕陰地区)
 西側と南側は
 亀岡市保津町と接している
 愛宕山西麓を源流とする
 水尾川が集落西側の谷を流れており、
 水尾川は京都府道50号京都
 日吉美山線に沿って
 南進した後にJR山陰本線
 保津峡駅付近で
 保津川桂川)に合流
  ↓
 中世
 平安時代初期に編纂された
 『続日本紀』には
 「宝亀三年十二月
  行幸山城国水雄岡」や
 「延暦四年九月
  行幸水雄岡遊猟」などとあり
 光仁天皇
 桓武天皇
 水尾を訪れていた
 奈良時代には
 山城国
 葛野郡に属した
 平安時代には
 一時
 丹波国
 桑田郡に属し、
 山城国に復した
 平安時代中期に成立した
 『うつほ物語』には
 源仲頼が
 水尾山に隠遁した記録
 東の八瀬大原と並ぶ
 西の出家・隠遁の地
  ↓
 平安時代前期
 文徳天皇
 第四皇子であり
 九歳で即位した
 清和天皇(850-880)は
 水尾の地を愛し、
 水尾帝とも呼ばれた
 清和天皇は27歳で
 陽成天皇に譲位した後、
 三十歳の時に
 仏道修行のために
 近畿各地を回り、
 その最後に
 水尾の山寺に入った
 清和天皇
 水尾の地を終焉の地と考え
 三十一歳の時に
 洛東の
 円覚寺で亡くなった
 遺骨は遺詔(遺言)によって
 水尾の水尾山寺に葬られ
 清和天皇水尾山陵
 境内には摂社として
 四所神社が祀られている
  ↓
 応永二十七年(1420年)
 洛東の円覚寺が焼失
 水尾山寺が
 円覚寺の名を継承し、
 水尾の
 円覚寺
 延宝七年(1679年)の大火で焼失
 約100年後の
 安永五年(1776年)に再建
  ↓
 周辺には
 樒(しきみ)・・・柚子(ゆず)=木+由+子
          樒(しきみ)=木+密
            史記視=死期視
            記紀の秘密?識視
 が繁茂していたことから、
 水尾村と北側の原村を合わせて
 「樒原」と呼ばれた
 水尾は
 柚子栽培発祥の地
 花園天皇
 水尾の地に
 柚子を植えた
 冬期に
 柚子風呂(柚子湯)
 料理は
 鶏鍋(水炊き・鶏すき)
  ↓
 原村は右京区の一部となった
 1931年(昭和六年)以後は
 町名に
 「樒原」が用いられている
 1582年(天正十年)
 明智光秀
 本能寺の変
 6日前に
 亀岡の
 亀山城から
 水尾を訪れ、
 愛宕山愛宕権現
 参拝してから京に向かった
 明暦四年(1658年)頃の村は
 上町・下町・西町・辻町の
 四町に分かれて
 近世には
 丹波国
 山城国を結ぶ道が
 ふたつしかなく、
 老ノ坂峠
 (国道9号の経路)越えと
 水尾越えの
 二者択一を迫られた
 このため水尾は繁栄し、
 人口が1,000人に近い時代もあった
 延宝七年(1679年)
 と
 天保六年(1835年)
 に大火
 愛宕山
 東麓が
 水尾村領、
 西麓が
 上嵯峨村領であり、
 清滝からの登山道が
 表参道、
 水尾や樒原からの登山道が
 裏参道
 表参道と裏参道が合流する
 八合目は
 「水尾わかれ」と呼ばれ、
 水尾わかれのすぐ上には
 「水尾女(みずおめ)」が
 参拝者に樒を売る花売場があった
 江戸時代の産物
 ビワ、柚子、マツタケ、砥石
 明治時代には
 ビワ、柚子などを京阪に出荷
 1889年
 (明治二十二年)
 町村制が施行
 水尾村など5村が合併して
 嵯峨村となり、
 それぞれの旧村名が
 大字名となった
 1900年
 (明治三十三年)
 京都鉄道(JR山陰本線)が
 亀岡盆地を通って
 京都と
 園部をつなぎ、
 その経路から
 大きく外れた水尾は
 寂れていった
 嵯峨村は
 1903年
 (明治三十六年)に
 下嵯峨村を合併し、
 1923年
 (大正十二年)に町制を施行して
 嵯峨町となった
 1931年
 (昭和六年)に
 京都市
 右京区の一部となり、
 大字だった
 旧6村は186の町に分割
 「京都市右京区嵯峨水尾○○」
 1936年(昭和十一年)
 水尾の玄関口となる
 山陰本線
 保津峡駅トロッコ保津峡駅)が開業
ーーーーー
 ・・・以前にも書き込んだが・・・
 斯波氏・・・織田家の主家
 鎌倉時代
 足利泰氏の長男
 家氏が
 陸奥国
 斯波郡(しわぐん)
 現在の
 岩手県
 盛岡市の一部
 及び
 紫波郡
 を所領とし、
 宗家から分かれたのに始まる
  ↓
 鎌倉時代
 足利家氏が斯波郡を所領
 興国二年=暦応四年(1341年)
 陸奥南朝
 南部氏などが
 岩手・斯波二郡を平げ、
 葛西氏等と連合して
 国府を攻めようとした
 斯波家兼が奥州に入部し
 四管領並立を制すると、
 同族の
 高水寺斯波氏が
 南朝側河村氏を次第に圧迫し、
 応永三年(1396年)
 河村秀基はその傘下に下った
 16世紀半ばに
 高水寺斯波氏は隆盛を極める
 のちに
 南部氏の圧力により逼迫
 天正年間に
 高水寺斯波氏の
 斯波詮直(最後の斯波御所)が
 北上川遊覧の折、
 川底の赤石に陽が射し、
 紫色に輝く川波を瑞兆として
 「けふよりは 紫波と名づけん
  この川の 石にうつ波
  紫に似て」
 と詠み、
 古代以来
 「斯波郡」
 と書いていたものを
 「紫波郡
 に改めた・・・
 元来の名は
 志賀理-和気神社(最北の式内社)から
 「志和」と書かれた、という説・・・
 (赤石を
  御神石として
  引き上げ祀ったので、
  この神社は後世
  「赤石神社」とも呼ばれた)
 奥六郡最北となる
 「岩手郡」の
 建郡以前に
 志波城が置かれ、
 後にこの地が岩手郡となったように、
 「岩手郡」も
 元は
 「志波(斯波・志和)郡」
 斯波氏の旧居城であった
 高水寺城は
 天正十九年に
 郡山城と改称され、
 ほぼ同じ頃に
 郡名も改められた。
ーーーーー
 ・・・ナニがナンだか・・・混乱気味・・・