1667日目・・・スゴイねッ・・・「人間の博打」・・・NHKスペシャル「世界“牛肉”争奪戦」・・・「いま世界で食料の争奪戦が起きている。牛肉や大豆の調達に奔走する商社、価格高騰につながる投資マネーの最前線を追い、米国・ブラジル・オーストラリアなどで取材した」・・・「自由な市場」・・・「カミの先物取引の証券化」・・・大干ばつ(旱魃)・・・

 「あるがままのカミ(自然と人間社会)」・・・
 「パウロの犯罪と、その苦しみと葛藤と倫理的反省」・・・
 「無責任なキリスト」・・・
 「責任転嫁の対象者はダレ」に・・・
 「財政、カネ管理の責任者のユダ(イスカリオテ)」・・・
 「ゴルゴダ磔刑以前」と「その後」のシナリヲを制作担当、演出した人々・・・
 「キリスト=発案者」−「ユダ(イスカリオテ)=制作費・財政担当者」−「パウロ(サウル)=組織者」の「3人組」・・・
 「NPO法人抱樸理事長=奥田知志」氏はエライ、なァ〜・・・
 「神の御心」を引き受けたのではなく、「理不尽な社会矛盾の枠内」で生きている「人間の生き方」を「人間の組織」として引き受けたのだろう・・・
 「ヒトは人の生命、生活を救えない存在」・・・
 今現在、生きている人間の何を「救えれる」のか?・・・
 「こころ(アイ)=気持ち」だけではなく・・・どうしたら救えるのか・・・
 「生きている人間相互愛での扶助行為」・・・
 「抱樸」・・・ここは、財政担当者の「ユダ(イスカリオテ)」に訊(質)ねるより方法がない・・・「カネの世の中」だから・・・
 「天国は
  貧しい人々(?)が
  死後に救済される世界」だが、
 もはや「カネの世界」ではない・・・天国である・・・
 「生きている人間相互のカネの多寡、有無を必要とする階級社会」ではない・・・
 だが、問題は「今現在、生きている人々をどうするコトも出来ない(しかたがない)」と考えている「社会的人間」の「救済の方法」である・・・
 「神=自然」がなくちゃァ・・・「肉身も精神(霊魂)も生きられない」のは事実・・・「事実(現前の出来事の認識)」と「真実(媒介的な情報認識)」は違うらしい・・・が、「確信」に於いてはどちらも同じらしい・・・だが「証拠・証人」の客観性、主観性で異なる・・・
ーーーーー
  ↓
 「抱樸」の「樸(木+菐)」とは「原木」らしい・・・
 「樸」
  「あらき(樸)=切り出したままの木材・荒木
          ありのまま・飾り気のない
         「素樸(ソボク)=素朴=粗樸ソボク」
          粗末で飾り気のない
         「樸実(ボクジツ)」
         (飾り気がなく誠実)
  「璞(ハク・あらたま)」
     荒削りな玉・掘り出したままの玉・原石
     磨いてないたま
  「璞玉(ハクギョク)」
   ↓
  「撲(ボク・なぐる・うつ)=「扌(手)+菐」
                 手を荒々しく動かすこと
   うつ・たたく=「打撲・撲滅・撲殺・相撲」
    相撲=相い打つ
       土俵の中で
       二人が打ち合い、
       組み合って闘う競技・レスリン
  類字は「丵・菐・業・叢」・・・
            叢書
            叢(ソウ・・ゾウ・くさ・むらがる)
            叢の剣=草薙の剣=群雲の剣
           天叢雲剣草薙剣=草那芸之大刀
         鵠生の叢・・・鵠(くぐい・まと)
                白鳥の古名
           社叢=神社
          神経叢=神経集網
            叢軽折軸
 「菐」・・・「丵+廾」の会意
        丵(草むら)を両手で持つ
       「菐」=「业䒑夫」
       異体字
       𦭱
       樸・𤀾・𤃊・𣞧・𣾴
 「菐」は「业」+「美」・・・・・・並ぶ美・・・・・?
     「业」+「羊」+「大」・・・並ぶ羊の一の人・・・?
     「丵(サク)」・・・美を削りだす彫刻家・・・?
        サク・のみ・うがつ  
      上部にノコギリ歯のついた道具の象形
      この道具で物を彫ったり、地面を打ち固めたりする
      この字は単独で使われることなく音符となる
      菐(ボク)=ノコギリ歯のついた道具を手にもつ
            荒削り・荒っぽい動作→相撲
      辛=辛痛しては即ち泣出づ・身をつきさすくらいに厳しい
        つらく苦しい・辛苦・辛酸・辛抱・辛辣・苦辛・辛労
      䇂=「辠(つみ)=罪なり・辛は庚を承け、人の股に象る?」
         辠(つみ・そちる・そしる・サイ・セ・ザイ)
           罪・罪科・罪過・犯罪→睾
      䇂=入墨に使う針の象形
        刺青のハリ
     「鑿(のみ・うがつ・サク」=木材、
                   石材に穴をあけたり
                   溝を掘ったりする工具
  ↓
 「菐」
 わずらわしい・うつ・ホク・ボク
 「丵(サク)」を両手で持つという字
  「丵」・・・諸説あり
  「菐」の字形解釈にも諸説あり・・・
 「丵」は草むらという意味で、(説文解字
  草を抜くのは煩瑣であるとする説(部首訂)・・・
 「一の本の注に云はく、
  丵は衆多なり。
  兩手に之れを奉る。
  是れ煩瀆なり
  (説文解字の徐鉉の注)」
 「瀆菐(トクボク)なり」
 「瀆」は煩瀆、
 「菐」は煩猥で、
 「瀆菐」は煩雑の意味
 「丵字の譌(正字通)」
  ↓
 老子(第19章)
 聖を絶ち知を棄つれば、民の利百倍す
 仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復る
 巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし
 此の三者は以て文にして未だ足らずとなす
 故に属する所あらしめ、
 素を見し
 樸を抱き、
 私を少うし
 欲を寡(つの)らす
  ↓
 「樸(ぼく)=荒木・原木」
 「抱樸=原木・荒木を抱きとめること」
  ↓
 「丈夫な人には医者はいらない。
  いるのは病人である。
  わたしがきたのは、
  義人を招くためではなく、・・「義人=約束を守る人」
  罪人を招くためである・・・・「罪人=原罪者=人類」
 (マルコ福音書二章一七節)」
 ・・・「原木(樸)とは罪人」・・・「原罪者」
 パウロは言った・・・
 「善人のためには、
  進んで死ぬ者も
  あるいは
  いるであろう。・・・義人?
  しかし、
  まだ
  罪人であった時、・・・・「ダレが?」
  わたしたちのために
  キリストが
  死んで下さったことによって、
  神はわたしたちに対する
  愛を示されたのである
 (ローマ書五章7〜8節)」
 キリストは、
 「善人=義人?」のためではなく、
 「罪人=原罪者」のために死んだ
 「抱樸」は、キリストが示された「樸人」への「愛の抱擁」・・・?
 ・・・「樸」は罪の自覚が無い「初心(うぶ・無垢?)なキリスト信者」のコト・・・?
ーーーーー
 ETV・3月14日
  こころの時代〜宗教・人生〜「この軒の下で」[再]
  昨年夏、北九州市の教会に
 「軒の教会」と名付けられた新会堂が完成した。
 25年以上にわたってホームレスの自立支援を行ってきた人々が、
 会堂に込めた思いと願いとは。
 東八幡キリスト教会の
 牧師・奥田知志さんは、
 牧師となった当初から、
 路上で暮らさざるを得ない人々が地域で自立した生活を
 取り戻す手助けをしてきた。
 長年の活動で学んだのは、
 家や仕事など物理的条件以上に、
 当事者の人生に最後まで
 伴走する「人との関係」が、
 支援には肝心だということだった。
 関係を結び共に生きる時、
 人は互いに傷つけ合うことがある。
 その傷を引き受け、
 なお
 共に生きようとする世界は
 いかに開かれるのか伺う。
(出演)
 東八幡キリスト教会牧師
 NPO法人抱樸理事長…奥田知志
 (きき手)山田誠浩
 ・・・「パウロ」を思わせるような人の「洗礼儀式」・・・
ーーーーーー
 ・・・多分、「人間社会」の「衣食住」の原則的なモノは「自然法則性(弱肉強食)の生物体の生態系の枠内での生き方」なのである・・・「人間社会の個人、個々人の共同生活の掟」も、この「自然法則性の枠内での生存生活の協同で、協働、教導・・・暴力排除も含む」だったし、今現在もソウである。
 この「自然法則性」からの「解放」されたい願望が「人間」だった・・・「キリスト」は「人間社会生活の根本」が、この「自然法則性(貧富の差・階級、階層、権利の格差)」にあり、その「脱却」を目指したのだ・・・だが、解放されるべき人々は「言葉・識字・知識の教育」に於ける「貧困者」でもあった。
 「キリスト」は多くの「比喩」で多くの人々にカタッた。「比喩」の名人であった・・・「貧困者」には「日常生活」で「合理的知識」を持たなかったが「生きる方法」としての「経験的な知恵」があった・・・「比喩」は彼等の「生活の仕方としての知恵」で納得されたのだ・・・
 元々は
 「ユダヤ法主義者」で、
 「ユダヤギリシャ人」
 「ローマ市民権保持者」
 「ギリシャ文化の教養者」
 「キリスト教徒弾圧者」
 の
 「パウロ(サウル)」は
 「人の子であるイエス・キリストの方法」に学んだのである。
 「人間の組織化の方法」をである・・・
 「異邦人」の「組織化」は
 「異邦人の
  意識、知識(多神教)文化」
  を利用するコトである・・・
 「結果」、
 「ユダヤ民族主義」は
 「異邦人教会組織」を梃子にして
 「キリスト教の国際化」
 で救われるコトになる・・・
 そして、
 「ローマ帝国主義」からも解放される・・・ハズだった・・・
 だが、
 キリストが目指した
 「貧困者の階層」
 「階級としての公平化」
 「神の下の平等」
 は
 「現実階級社会の支配秩序」と対立するモノだった・・・
 ローマ帝国
 「国家的宗教」となっても
 「貧困者」の解放ではなく、
 「権力者」
  と
 「財産家」
 に
 「利用される
  観念、心の宗教」となってしまった・・・
 「土地に僻(ひがみ)つく国家権力」としての
 「ユダヤ主義国家」は滅亡した・・・
 「権力」を動かすモノ・・・カネ・・・である・・・
 そして、「ドリーム」である・・・
 神の「力」は、紙の「力」となったが・・・
 いずれも「特赦な幻想」である・・・