1653日目・・・生きている間は、「天国」にも「地獄」にも逝くことを期待せず、ただ、ただ「現世」で生きているコトに専念すべきだろうが、思念、思想、空想、妄想、そして願望するコトも人間の宿命である・・・「パウロ(サウル)の時代」の「魔術」も「奇蹟」も、現今ではホトンドが「科学的認識の枠内」にアルと云っていい。だが、まだ、まだ「不思議なコト」が多い・・・そして、昔も今も「永遠の生命」が欲しいらしいヒトが存在する。ナゼ欲しいのかは「現世がイイから」であろう・・・兎に角、「永遠の命」がアルかナイかは「天国・地獄

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 現世の現実は複雑怪奇だが・・・
 「賃金労働者」と「政治権力者」が「商業的経営者」になるのは難しい・・・
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 ボクの持っている「新約聖書」の「コリント(哥林多)後書・第12章・結末」には「闘争(あらそひ)・嫉妬(ねたみ)・怨恨(うらみ)・争論(さうろん)・誹謗(ひぼう)・呟言(つぶやき)・驕慢(たかぶり)・擾乱(ゆうらん)」の漢字が羅列され、ルビが振られている・・・これらのコトバの事象が無くなればイイのか?
 「コリント(哥林多)後書・第13章」には「イエスの恩寵」、「神の寵愛」、「聖霊の交際」が記録されているが・・・
 「恩寵(オンチョウ)=めぐみいつくしむこと
            キリスト教での神の恩寵
            超自然(宗教的な)
            恩賜の誤り
            君主からたまわること
 キリスト教における
 恩寵(ギリシア語=χάρις
    ラテン語=Gratia
    英語=the divine grace
    ロシア語=Благодать)
 神の人間に対する働きかけ、
 神の人類に対する慈愛を意味
 恩恵、聖寵、神の恵み、恵みとも・・・
 神や主君から受ける恵み。慈しみ
 キリスト教で、人類に対する神の恵み
 grace of God
 divine favor」
 「寵愛(チョウアイ)=特別に大切にして愛すること」
 「交際(コウサイ)=付き合い
  社会生活を営む際に
  生じる他者との関係を
  円滑に行うための行為
  他人と関係を持つという意では
  相通じて用いられる
 companyfriendship
 association
 society
 social intercourse
 associate with〜
 acquaintance
 company with〜
 relationship」
 交際
 ・・・「交=亠+ハ+乂」は当然、部首の意味の
 「亠(トウ・ズ・なべぶた冠・音の略字)」
 「八(ハチ・ハツ・や・やつ)・片仮名のハ」
 「乂(カイ・ゲ・かる・おさめる)」
  の
 「マジワった漢字」で、
 同時に漢字を訓読みし、
 その音を当てた漢字である
 「マジワル」は「眞字和留」、「馬路話留」など、「真面悪」である・・・
 「際=阝(こざと・丘・阜)+祭(まつり)」
 「際=あと少しで
    別のモノになろうとする
    ぎりぎりのところ。
    境目、物の端」
 ・・・「きわどい」訳語である・・・国境、国際・・・間際・・・
 「際(サイ・きわ・はて
    二つの物が接する所
    限りのところ
    出会い
    接してまじわる
  際涯・際限・分際・辺際・際会」・・・
 ・・・「恩寵・寵愛・交際」も・・・人間が生きて存在していることが前提である・・・自分自身が産まれてきた「確率」は「精子卵子の出会い」を考えれば、まさに「奇跡的事象」ではある。そして、今現在生きているコトも・・・だが生きている個々のモノ自体が星の数より以上の「確率」を獲得した関係性の結果の存在である・・・「神」が存在していてイイけれど、前提的にソレを考えている人間がいなくちゃァ、ハジマラナイ・・・
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 ・・・「ガラチア(加拉太)書」・・・「拉(くだく・ひしぐ・ロウ・ラツ)」・・・「拉致誘拐」、「ラテン(Latin・拉丁・羅甸)は、ローマの南東にあった古国ラティウムラテン語: Latium)の形容詞形 latinus に由来する言葉」・・・「加えて、拉(くだく・ひしぐ)、太(ふとい)」って・・・「ひしぐ=押しつけてつぶす・ 勢いをくじく・頓挫(とんざ)させる・ひしゃげる」のは「太った奴」だろう・・・パウロからすれば「思想的、現実的利害の敵対相手」である・・・
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 「加拉太書叙言」から参照抜粋・・・
 (一)
 ガラチアの事
 小アジアの一小國
 基督
 紀元前
 二百七十八(278年)年・・・弐百七拾八
 ピチニア國王
 ニコデモ、
 ゴウル(今の仏國)地方より來れる軍族に、
 嘗て戰役の時助けられし報酬として
 此小國を譲れり。
 爾來國勢次第に膨張したりしが、
 度々の戰役の末、
 キリスト
 紀元前
 廿五(25年)年・・・念伍(吾)
 ロマ帝國に編入
 (二)
 ガラチア教會
 と
 パウロとの関係
 使徒行録十六章に據れば、
 パウロは其
 第二回
 傳道旅行の時、
 ガラチアに至りて布教
 異邦人なる此處の人民は、
 パウロ
 神の如くに歓迎し、
 程なく盛なる
 教會全國に設立
 斯て
 三年を経て、
 第三回傳道旅行の時、
 パウロ
 再び
 ガラチア信徒を訪問
 (三)
 本書を認めし機會及び目的
 パウロがガラチアを去るや、
 ユデア教主義の人々、
 彼盛なる教會に入込みて、
 種々の
 謬説を流行せしめ、
 大いに人心を
 擾亂したり。
 殊に、
 パウロ
 異邦人に布教するに、
 人の救はるるは
 キリストを
 信仰するに在る事を以てせしに、
 彼人々は之に反して、
 尚
 舊約の法則を遵奉して
 割禮を受くべき事等を教え、
 且
 パウロの権力を蔑如して、
 彼が眞の使徒に非ざる事、
 其教ふる所は
 ペトロ、ヤコボ、ヨハネ以下
 他の使徒等の教と
 大いに
 異なる事等を主張
 生來
 變心し易きガラチア人は、
 大いに之に迷はされしかば、
 パウロは之を聞きて、
 速に本書を遣る事を必要とせしなり。
 然ば本書の目的は、
 彼人々の得たりし勢力を挫き、
 彼等に駁せられし
 教理に就きて
 確乎たる根底を示すに在り。
 随つて
 己が
 使徒たる資格を保證し、
 人の救はるるは
 舊約の掟によらず
 キリストに於る信仰による事、
 及び
 キリスト信者は
 モイゼの律法に對して
 自由なる事を證するを旨とせり。
 (四)
 本書の題目及び区分
 本書の題目
 曰く
 ユデア教の法
 と
 キリスト教の法
 とは相容れざるものなり。
 曰く
 律法を以て、
 詛を招きしに反し、
 キリストに於る信仰を以て
 神の祝福を受くべし。
 曰く
 割禮と
 イエズスの十字架と
 孰(いずれ)をか
 択(えらぶ)むべき。
 第二篇には
 舊約の律法と
 福音とを
 比較して、
 信仰によりて
 義とせらるる事、
 及び
 信者は律法に関して
 自由なる事を證し(三章四章)、
 第三篇には
 此聖なる
 自由によらん事を
 ガラチア人に勧め、
 其
 自由の徳
 及び方法を示し、
 尚數個の教訓を與え(五章一節乃至六章十節)、
 末文に於て更に
 教理上の論證を掲げ、
 例の祝祷を以て了る(六章十一節以下)。
 (五)
 本書の特色
 一個人に宛てず、
 ガラチア國の諸教會に宛てた
 本書は主観的にして論難の調子を有し、
 且
 行文簡潔なり。
 本書の殊に重要なる事は、
 キリスト教に於る
 自由の大法例とも稱せられたるものなり。
 (六)本書を認めし年代と場所。
 凡
 紀元五十五(55年)年、若くは五十六年ならん。
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