1622日目・・・「支配の論理」=「支配数<被支配数」=「官僚の論理」、「組織の論理」・・・「搾取する数>搾取される数」・・・「生産=消費」、「生産>消費」、「生産<消費」・・・「需要=供給」・・・「需要>供給」、「需要<供給」・・・「市場=交換価格」・・・「使用価値」・・・

 NHK・ETV「三島由紀夫(1925年1月14日〜1970年11月25日)戦後史証言プロジェクト」・・・
 「ナニか」を手に入れればヒトは変わる。しかも与えられた「ナニか」ではなく、自分が自分自身の「能力」で得たと思い込んでしまう「ナニか」である。
 そして、それは自分にとって
 「これからも自由にコントロールできる」
 と思い込んでしまう切っ掛けとしての
 「ナニモノのか」である。
 「ナニモノ」とは「これからも自分自身で出来るモノ、出来るコト」で・・・「自我でコントロール出来るモノ」と思い込んでいる「自我意識」・・・
 「三島由紀夫」の後、
 「日本人論(NHK・ETV・100分de名著)」・・・に欠けているモノは「日本人(の傾向性)」ではなく、「人間の自我としての階級意識の発端、切っ掛け」と、その「階級意識の分岐」である・・・「分岐」とは「支配するもの(能動的に従わせるもの)・支配されるもの(受動的に従わされるもの)」・・・階級社会枠内での個々人の「エゴ意識の覚醒」である・・・覚醒したらどうなるんだか?・・・いずれも「大地でプチブル意識の枠内」で地位の上昇、転落、儲けの多寡の妄想で葛藤するのカモかも・・・
  ↓
 九鬼 周造
 (1888年・明治二十一年2月15日
   〜
  1941年・昭和十六年5月6日)
 「「いき」の構造」
 「偶然性の問題」
 「人間と実存(哲学私見)」
  ↓ 
 河合 隼雄
 (1928年・昭和3年6月23日
   〜2007年・平成19年7月19日)
 日本の心理学者
 京都大学名誉教授、
 国際日本文化研究センター名誉教授
 文化功労者。元文化庁長官
 専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化
 兵庫県多紀郡篠山町(篠山市)出身
 ユング派分析家
 日本における分析心理学の普及・実践に貢献
 箱庭療法を日本へ初めて導入
 著作
 「母性社会日本の病理」
 「中空構造日本の深層」
 「日本人の心のゆくえ」
 「日本人という病」
 「日本文化のゆくえ」
   ↓
 鈴木 大拙(だいせつ)
 本名は太郎(ていたろう)
 (1870年11月11日・明治三年10月18日
    〜
  1966年・昭和41年7月12日)
 日本の禅文化を海外に紹介
 仏教学者(文学博士)
 「日本的霊性
 大拙は仏教の核心に、
 「霊性の自覚」を見出した
 仏教の霊性的自覚というのは
 「即非の論理の体得」
 「日本的霊性
 霊性
 大知性・莫妄性・無分別智
 ・・・ボクとしては「中空構造日本の深層」が面白かったけれど・・・高天原に成った神の名は、
  ↓
 天地初發之時、於高天原成藭名、
 天之御中主藭
 (訓高下天、云阿麻。下效此)、
 次
 高御產巢日藭、
 次
 藭產巢日藭。
 此三柱藭者、
 並
 獨藭
 成坐而、
 隱身也。
  ↓
 「天之御中主神高御産巣日神神産巣日神
 の
 「天之御中主神」の役柄、役職が不明で
 「天照大御神須佐之男月読命
 の、
 「月読命」の役柄、役職が不明であるコトが
 「中空(曖昧・無責任・灰色・中間・媒介空間・うつぼ)構造」と説明され、「中空」は「無責任・妥協・取り込む」日本人の傾向性と・・・論議?されていた。
 だが、
 「天之御中主神(テンシオンチュウシュウシン)」
 も
 「月読命(ゲツドクメイ)」
 も、「漢字(真名仮名)」の「意味」であり、「音」であるコトには変わりがない。
 そして「天之御中主神」は
 「獨藭成坐而、隱身也」
 で三神一括の「神」として説明され、
 「月読命」も「夜之食國」、あるいは「大氣津比賣神・大宜津比賣藭」と同じ神らしく、「爲穢汚而奉進」=「汚きモノを吐き出した神」として「須佐之男に殺された」と説明され、その後、「故是・藭產巢日御祖命」ている。これは「御祖(ゴソ)」の字が抜けた「藭產巢日藭」である・・・
 ・・・「新井白石」は漢字を「ニホン語の音(音写)」で採れ、と解釈しているらしいが、「古事記」を記録した人物は「漢字の意味も音」も学習した後に「ニホン語の音も、漢字の意味も採って重ねた」のである・・・
  ↓ 
 以下は
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
 の「新井白石」に対する歴史的、かつ、評価の論文だが・・・この記述者は、よく「勉強」しているなぁ〜、と思うので、勝手に部分抜粋して、ボクの「?」も加え、注目文字を改行の「頭出し」として、少々改作添付・・・
   ↓
ーーーーー
 第3章 新井白石と正徳の治
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
   ↓
 ・・・
 (間部)詮房は、・・・元は能楽
 (徳川)家宣存命中はもちろん、
 その死後も、問題にぶつかる度に
 白石の意見を求めるようになります。
 その家宣が将軍になるにしたがい、
 白石も幕臣となりました。
 が、彼はあくまでも
 儒者という地位にとどまりましたから、
 間部と異なり、
 1709年に500石を賜り、
 1711年になって1000石
 に加増されているに過ぎません。
 身分的にも
 本丸寄合(よりあい)、
 ↓    本丸
      城の中心となる
      曲輪(くるわ)で指令部
      「○○丸」と呼ばれる
      曲輪は織田、豊臣、
 ↓    織豊系城郭の系統の城
 すなわち無役のままで、
 最後まで通しています。
  ↓
 一介の寄合に過ぎなかった者が
 幕政を完全に左右していたのですから、
 地位と実際に
 行使した権力との
 落差に驚かされます。
 今の感覚でいうと、
 総理大臣の
 秘書官と家庭教師が、
 舞台裏から完全に
 国政を牛耳っている状態でも
 想像すればよいのでしょうか。
 結果は手段を・・・?・・・「結果論は」
 正当化するとはいえ、
 かなり
 不健全な状況・・・?
       ・・・「非不健全」
 といえるでしょう。
 しかし、
 この二人の誠実さ、・・・?
          ・・・「主人に誠実」
 言葉を換えれば、
 無私の心だけは・・・?
        ・・・「無心=物欲が無い」
        ・・・「権力欲はある」
 否定することができません。
 いくらでもお手盛り
 自分に対する
 報酬を増やせる状況にありながら、
 そうした動きは全く見せていなかったからです。
  ↓↑
 ・・・ナゼ、そうはしなかったのか?・・・
 ・・・権力欲は物欲に勝る・・・権力>物
  ↓↑
 白石は、
 儒者・・・?・・「非儒者
 としては、
 様々の点においてきわめて
 例外的な・・・・・「非例外」
 人物ですが、
 この時代の財政家としての
 最大の特徴は、
 数字に明るいということです。
 これまでも度々
 「白石の調査数字」
 を引用してきましたが、
 あらゆる問題に、実に周到に
 「統計調査」
 を行い、それに基づいて、
 合理的な思考で・・・?
        君臣の階級枠で
 問題を解決していく点に、
 白石という人の優れた特徴が存在します。
  ↓↑ 
  A 荻原重秀と宝永の改鋳
 前章に詳述したとおり、
 荻原は金貨の改鋳により、
 元禄期の
 幕府の
 財政危機を救いました。
 が、この頃になると、
 経済規模に比べて
 通貨供給量が多くなりすぎたことから、
 インフレ傾向へと
 経済基調が変化していました。
 しかし、
 当時の普通の人々には、
 そのような
 通貨常識はありませんでした。
 そこで、
 物価上昇の原因は、
 品位の低い通貨に改鋳したことにある、
 ときわめて単純な論理で荻原を非難しました。
  (A) 金貨の改鋳
 そこで、荻原は、1710年に、きわめて皮肉な方法で反撃にでます。
 宝永小判の発行です
 (「乾」・・・いぬい=戌亥=犬猪=狗獅
   の
   字の刻印
   があるところから
  「乾字金」とも呼ばれます)。
 これは、金純度が慶長小判が86.79%であったのに対して、84.29%とほぼ同一の小判です(まだ技術が低かった時代なので、個々の小判における成分比のぶれに過ぎないようです)。
 しかし、その重量は2.5匁で、慶長小判の4.76匁に比べると約半分です。
 だから、含有される純金だけを取り出して重量を比べると、慶長小判の51%に過ぎず、悪名高い元禄小判よりもなお少ない、という小判です。
 つまり
 十分に高品位でありながら、
 改鋳により
 幕府として
 出目が得られるという手法です。
 品位の低さだけを取り上げて
 非難していた人が、
 非難の論理を失って当惑している顔が、
 目に見えるような気がしませんか?
 同様に、やはり
 慶長一分金の
 ほぼ半分の重量で、
 ほぼ同一品位の
 宝永一分金も発行します。
 両者合わせて1151万5500両と、
 ほぼ
 元禄金銀の発行量に
 匹敵する大量発行を敢行します。
  ↓↑
 荻原重秀・・・「商品流通・物流」の「社会」では卓越な発想・・・かも、だが・・・「無生産者、消費階級の武士社会の幕府の金庫」を潤すコトが基本目的である・・・そして、未だ「ブルジワ」が成熟していた階級ではなかった。「流通経済社会」は浸透しつつあったが、未だ「私有社会の階級社会」でもなかった・・・
  ↓↑
 以下は「ウイッキペデア」が原文
 唐代
 飛銭と呼ばれる
 役所発行の手形が用いられていた
 北宋
 商人によって
 交子・会子と呼ばれる手形が使われた
 全国一律で同じ価値を持つ
 交子は
 他地域との
 交易には欠かせないものとなっ
 交子は仁宗の頃
 会子は南宋になってから
 政府によって発行(世界で最初の紙幣)
 後に大量発行されて
 インフレーションが発生
  ↓
 銅銭・銀との兌換が前提だった紙幣は
 不換紙幣へと変化
 南宋末期の1246年に
 増発され
 北宋末と比較して
 物価水準は約2倍、
 紙幣の価値は
 銅銭の1/3〜1/4まで低下
  ↓
 専売品との引き換えに
 茶引・塩引と呼ばれる
 手形も紙幣の代用品として用いられた
 金国は、北宋・遼の銭貨を用いていたが、
 海陵王の治世で、
 交鈔と呼ばれる紙幣が発行
 大量発行されて
 インフレーションが発生
 これらの紙幣は
 使用できる年限が定まっており、
 期限を過ぎるとただの紙切れ
 期限前に
 役所に対して手数料を払う事で、
 新しい紙幣との交換は可能
 1260年
 元国のクビライが即位の
 中統元宝交鈔(通称・中統鈔)という
 有効期限の無い
 交鈔が発行
 交鈔は補助貨幣ではなく、
 基本貨幣(紙幣)で
 金銀との交換できる
 兌換通貨
 大量発行されて
 インフレーションが発生
  ↓↑
 以下は「新井白石」の続き
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
 「新井白石」の
  ↓↑
  B 信牌制度
 単に規制を厳しくするだけでは、
 密貿易を誘発するだけです。
 実際、この時期、
 密貿易は第2のピークを迎えていました。
 例えば
 1707年には19件、
 新令の施行された
 1708年にも
 7件の密貿易が摘発されています。
 綱吉時代の密貿易は、
 長崎市民が犯人でしたから、
 市民の
 行動の自由を
 制限することで
 押さえることができたことは、
 前章で紹介しました。
 それに対して、
 この当時の密貿易は、
 主犯は長崎市民ですが、
 補助者には
 よそ者が
 参画している場合がぐっと増え、
 したがって逮捕者を
 長崎市民と
 よそ者に分けると、
 よそ者の数の方が多い、
 という状態になってる点に大きな特徴を示します。
 もちろん、こうしたよそ者の利用が、
 長崎市民の
 行動の自由に対して
 加えられている制限を
 かいくぐるための
 手段であることはいうまでもありません。
 犯行が・・・?・・・「非犯行」
 広域化したということは、
 取締が困難になるということを意味します。
 そこで、白石は、そのための策を立てます。
 すなわち、
 中国船に対する
 信牌(しんぱい)の発行です。
 これこそが、新令の最大の特色です。
 信牌は、
 割符(わっぷ)とも呼ばれます。
 来航した中国船のうち、新令に違反しないことを制約した者だけにこれを交付します。そして、以後は信牌を持たない限りわが国との貿易を認めない、という制度です。
 この制度には、巧みに飴とむちが組み込まれていました。
 すなわち、信牌を持っていれば、
 制限金額を銀30貫までは増額して、
 全量を買い取るという特典がつきます。
 そのかわり、
 積載量に定高より30貫以上の
 過不足がある場合には、以後の来航を禁ずるとか、指定された正規の航路以外を通ることは認めないとか、粗悪品、不正品を積載してきた者は、以後の貿易を認めないというような様々の条件を受け入れなければいけません。
 もちろん密貿易をした者は信牌を取り消されます。その結果、かなり効果的に密貿易の取締ができるわけです。
 もっとも、
 信牌を発行するのは
 幕府そのものではなく、
 単なる
 通事とされました。
 これは中国政府側の抵抗を恐れたからです。
 すなわち、
 中国の伝統的な政府貿易の形式は
 入貢貿易です。
 中国の臣下の国が貢ぎ物をすると、中国側ではその忠誠心を愛でて貢ぎ物以上の物を下賜する、という形式の貿易です。
 足利義満が(中国に)臣下の礼をとって行った貿易などが有名です。
 中国では、
 信牌とは、
 この入貢国に対して与えるものだったのです。
 したがって、
 幕府が中国船に信牌を発行すると、
 中国をわが国の入貢国としたかのように見えるので、
 貿易摩擦の発生が予想されたのです。
 実際、そういう事件が起きました。
 信牌を与えられなかった
 中国商人達は、
 本国で訴訟運動を展開します。
 すなわち、
 信牌は
 日本の年号を使用しているので、
 信牌を受けた船頭は
 日本に忠誠を誓って
 清朝に反逆する者だと政府に訴えたのです。
 そこで
 中国政府では信牌を没収したため、
 多くの船が日本に来られなくなったのです。
 もとより
 白石はこうした事態のあることを
 予想して信牌を
 幕府発行とは
 しておかなかったのですから、
 早速適当な便船で、
 抗議書を中国に送りました。
 中国側では、結局
 1717年になって、
 康煕(こうき)帝の勅裁により
 わが国の信牌の発行に
 文句を言わなくなりました。
 なお、
 中国では、
 同年から再び海禁(つまり鎖国)政策に転じます。
 おそらく中国側としても、日本の信牌を利用することで、貿易状況のチェックが可能になるという点に、信牌の許容策を導入した理由があると思われます。
 吉宗が将軍に就任したのが
 1716年のことですから、
 この時には、もう
 白石は政権から遠ざけられていました。
 他方、信牌を受けられなかった中国商人達は、九州各地、特に福岡、小倉、萩の3藩の領海が接する辺りに回航して、日本側の密貿易船を半ば公然と待ち受けるということを始めました。多いときには十数艘も滞船していた、といいます。
 幕府では当初は手を拱いていましたが、
 1718年に
 3藩合同の軍を出動させて追い払いました。
 その後、何度か出動させ、
 最終的には
 1726年に追い払うのに成功したのです。
 何故このように長く出動を遅らせたのかはよく判っていません。
 海上の3藩の境界という難しい場所であるために、関係する3藩の足並みをそろえるのに時間がかかったということもあるでしょうし、家宣が死亡して、権威が低下しつつある間部詮房の命令では、各藩がなかなか動こうとしなかったという事情もあるでしょう。
 しかし、国際紛争を未然に防ぐため、康煕帝の勅裁が降りて中国側が信牌の運用に文句を言わないということが確認できるまで待っていた、というのが真の理由ではないかと、私は考えています。
  C 長崎市振興策
 ところで、白石が新令の制定を諮問されたきっかけは、長崎廻銅の量の減少により、長崎貿易が不振となり、このため長崎市民が困窮しているという報告が長崎奉行から出されたことです。
 それなのに、貿易制限を強化したのでは、困窮の救済にはならないはずです。
 白石の答申した新令が
 長崎市民の救済になる、
 という逆説を理解するには、
 それまでの
 長崎貿易の状況を理解する必要があります。
 定高仕法によると、
 正規の貿易は
 長崎廻銅を
 ベースとして行われなければなりません。
 ところが、この長崎廻銅が不足する結果、
 貿易量が恒常的に
 制限額以下で推移するという状況が生まれていました。
 前章で述べたとおり、長崎貿易では、
 諸利益のうち
 11万両は長崎会所に残し、
 残りはすべて長崎運上として
 幕府が徴収するという制度がとられていました。
 この
 11万両が、会所と市民に分けられるのです。
 細かく内訳を書くと、
 長崎会所で
 外国からの輸入品を
 わが国商人に売って得た銀(金7万両相当)、
 つかい銀(小遣い銭)、
 落銀(長崎市民に落ちる銀)、
 間銀(あいぎん=手数料)、
 役料(役目に対する報酬)
 などです。
 このうちから、
 7万両が
 地下(じげ)分配金として、
 長崎市民に配分されるはずなのです。
 ところが、貿易実績が上がらないのですから、このような市民への配当も来ません。
 幕府の方も、それでは長崎運上が入らないはずですが、そこは法令を作る方ですから、対策の立てようがあります。
 すなわち、
 貿易できずに帰る
 積み戻り船の船荷から、
 貿易制限の枠内での
 「追売」を認めて、
 貿易利潤の補填を図ったのです。
 これは会所の査定額で一方的に買い上げ、
 二割増で日本商人に売り出したので、
 夥しい利潤があったといいます。
 この追売は、
 幕府が長崎運上確保のために
 別枠で行うので、
 長崎市民への配当はありません。
 要するに、貿易総額が減少する中で、長崎運上に当てる追売を確保する方針を幕府が維持したので、本来の貿易は圧迫されてますます先細りとなり、
 運上額そのものは増加しているにも関わらず、
 長崎市民への
 貿易利潤の配分は減少する、ということが起きたのです。
 白石は、貿易額及び貿易船の入港数を低く設定することと、銅輸出額を実際の輸出能力にあったものに改訂することにより、
 追売のような
 不健全な貿易形態を廃止します。
 また、長崎市民が貿易を支えるために負担している様々な活動のための経費は、従来は、貿易決済後の実績によって配分していたのです。
 それを幕府からの
 前貸しの建前にして、
 貿易実績が上がると否とに関わりなく、
 配分することにしたのです。
     *     *     *
 この
 海泊互市新例は、その後幕末まで続く幕府の基本政策となります。
 これを
 消極的な貿易無用論と
 理解しては間違いです。
 この政策は、二つの点で、
 国内産業の保護育成策なのです。
 一つは、
 俵物を正規の輸出品にしたことです。
 これにより、全国的に煎り海鼠や干し鮑の増産が行われるようになっていきます。
 今一つは、
 輸入品の
 国産化です。
 我が国において、
 片貿易が長く続いていた理由は、
 白糸(上質の生糸)、各種絹織物、綿布、鹿皮、砂糖などの海外産品に
 国内需要があるにもかかわらず、
 封建政権は、その基盤である
 米の生産に力を入れ、
 そうした農産品の
 国内生産を
 許さなかった点にあるのです。
 そこで、そうした
 農産品は
 国産化を推進すべきである、
 というのが
 白石の結論でした。
 惜しいことに、白石時代は長く続きませんでした。
 が、この農業政策の大転換が必要という発想は、
 次の
 享保の改革における農業政策の中心となっていきます。
  D 日朝貿易
 中国産生糸ほどの高品質のものが、幕府の政策が転換されたからといって、直ちに国内生産可能になるわけはありません。
 他方、国内の生糸需要は依然として根強いものがあり、長崎新令は、その道をふさいでしまったわけです。
 そうした膨大な需要を、
 長崎貿易に
 代わって支えたのは、
 対馬藩を経由しての
 日朝貿易でした。
 前章で簡単に触れたとおり、
 朝鮮人参については
 宗家と朝鮮王家との間の
 公貿易という形をとっていましたが、
 それ以外に日朝間には
 私貿易という形態の貿易が存在していました。
 その状況について
 対馬藩では
 「私貿易帳簿」というものを作成しており、
 1684年以降のものが現存しています。
 それによると、
 朝鮮経由の
 中国生糸の輸入がこの頃から急増していきます。
 対馬藩は、
 長崎貿易よりも安い価格で
 朝鮮から生糸を輸入するようになり、
 独自のルートで
 西陣などへ供給するようになりました。
 その結果、
 日朝貿易による生糸の輸入量は、
 1730年くらいまでは
 長崎貿易の量を凌ぐようになります。
 この日朝貿易の
 決済手段は相変わらず
 銀でした。
 このため、長崎からの銀の流出が止まっても、対馬から毎年、1000貫〜2000貫というレベルで銀の流出が続いていたことになります。
 元禄銀の場合には、品位の低さを補うため、一定のプレミアムをつけることが必要だったようです。
 そして、
 三つ宝銀や四つ宝銀の場合には、
 プレミアムをつけても
 受け取りを拒否されました。
 このため、
 1710年から1714年までは、
 勘定奉行
 荻原重秀の特別の計らいにより、
 品位80%という特別良質の銀貨が、
 年に1417貫だけですが、鋳造されます。
 これは、
 建前上は、
 朝鮮人参輸入の確保という名目でしたから、
 「人参代往古銀」という名称でした。
 これを幕府は、
 普通の
 劣位貨幣と同価で
 対馬藩に渡していました。
 つまり形を変えた
 輸入補助金というわけです。
 その後、
 重秀の失脚により、これは製造されなくなりますが、
 白石が作った
 正徳銀は信用が高かったので、
 そのまま問題なく取り引きされました。
 この対馬からの銀の流出は、
 白石も抑制することができませんでした。
 対馬藩には、幕府に代わって対朝鮮外交を担当する、という大義名分があり、
 日朝貿易の独占による利潤は、
 外交を円滑に進めるための
 経済的保障という性格があったためです。
 次章に詳しくは紹介しますが、1730年代に行われる元文改鋳により、銀貨の品質が再び著しく低下し、特例によって「人参代往古銀」は製造されます。
 しかし、この時は、宝永の時と違って、幕府が対馬藩に必要経費を請求するようになったことから、輸入量は急減します。
 最終的に
 日朝貿易による
 銀貨流出が終わるのは、
 1750年代のことになります。
 朝鮮人参について 
 国産化が成功し、また、
 国産生糸の品質が向上して、
 中国産生糸に対する
 国内需要がほとんどなくなったのが、
 その理由です。
 なお、その後も対馬藩による日朝貿易は続きます。
 その場合、
 日本からの主力輸出品は、
 長崎貿易を通じて
 日本に入ってきた
 東南アジア産の
 胡椒、水牛の角、すおう等です。
 李氏朝鮮は、日本以上に
 厳しい
 鎖国を実施していましたから、
 このような
 奇妙な・・・?・・・「非奇妙」
 三角貿易
 必要性があったのです。
 この場合の朝鮮からの輸入品は、
 3分の2までが
 木綿で、これは国内市場で売却されました。
 残り
 3分の1は
 米です。対馬はご存じのとおり、山がちの島で、米といえども自給自足ができません。
 そして距離的にははるかに朝鮮に近いので、
 (米を)日本国内から輸入するよりも
 安上がりだったのでしょう。
  E 琉球貿易
 この機会に、
 鎖国時代の今一つの貿易ルートであった
 薩摩藩による琉球貿易
 についても説明しておきましょう。
 鎖国というのは、わが国の場合、
 国交を持つ相手を制限する、
 ということであって、
 貿易量そのものを
 制限するものでなかったことは、
 第2章で説明しました。
 このため、
 薩摩藩による
 琉球貿易も、制限外として認められていました。
 琉球貿易は、
 琉球
 独立国という建前の下に、
 中国などと貿易をし、他方、
 薩摩藩に対して
 琉球
 朝貢貿易の形で
 船を派遣するという形で行われていました。
 銀貨が貿易の決済手段だったことは
 日朝貿易の場合と同じです。
 1715年に、
 白石は、従来認められていた
 銀1206貫の限度額を906貫に抑制しています。
 薩摩の方が対馬よりも制限が厳しいのは、
 小藩である対馬に対しては、
 外交費用相当の援助という要素があるためです。
 琉球貿易の詳細については、薩摩藩ははっきりした資料を今日に伝えていないので、確かなことは判りませんが、
 薩摩藩は、
 この禁令は余り守らなかったようです。
 (3) 年貢増徴策
 貨幣の改鋳や長崎新令は、いずれも大事なものですが、これらは
 幕府財政を豊かにしてくれる力は持っていません。
 通貨改鋳策に至っては、
 経費分だけ
 幕府財政を締め付けることになるはずです。
 そこで、
 歳入の増加策が必要となるのですが、ここまできますと、天才白石といえども、封建社会の常識から抜け出すことはできませんでした。
 すなわち、
 年貢米をいかに増加させるか、
 という点を考えるしか、能がないのです。
 ここでも、白石のきわめて
 数理的な頭脳は、
 統計解析によって
 問題の所在を突き止めようとします。
 彼によると、
 幕府直轄領の税率は4公6民、
 すなわち税率40%のはずです。
 それなのに、
 実際には28〜29%程度で、
 30%を切っているといいます。
 その租税徴収率の低さが、
 幕府財政が苦しい原因だ、というのです。
 そこまでは正しい計算なのですが、
 白石は、江戸生まれの江戸育ちで、
 農村の生活に
 理解がありません。・・・?・・・「有理解」
 そこで、このように
 年貢徴収率が低いのは、
 幕府の
 代官やその手代が
 地元と結託して、
 賄賂を取るかわりに
 税率を下げる等の
 便宜を図っている
 に違いないという
 結論になります。
 これは当時の
 幕府の公式見解そのもので、
 御触書にも
 「近年は村々からの年貢収納量が段々と減少してきて、昔の半分ほどになっているのに村々は少しも豊かになっていない。それは
 村々が年貢を負けて貰うために
 代官諸役人に
 賄賂を贈っているからで、
 年貢量は減少するが、
 村々が支出する総領は、
 賄賂分を合わせると
 結局
 昔と同じになるからだ」
 ということが明記されていました
 (御触書寛保集成)。
 この当時の年貢の徴収は、
 検見取(けみどり)法というやり方でした。
 すなわち、
 代官以下の
 地方(じかた)役人が
 個々の村を回って、米の出来具合を個別に確認しては、村ごとの年貢総量を決定する、という方法です。
 そして、確かに、
 収穫高の査定に当たる地方役人が、
 村側の饗応の多少によって
 査定に手心を加えるということは
 かなり横行していたようです。
 余り接待しすぎたために、
 役人の方がつけあがって、
 家族親戚まで連れてきて
 饗応を楽しんだ、
 という話まで残っているほどです。
 白石は、先に
 荻原重秀が廃止した
 勘定吟味役
 1712年に再度設置して
 勘定所自体の綱紀を引き締めるとともに、
 勘定所に命じて、
 綱吉時代にもまして
 厳しい地方検査を開始します。
 具体的には、
 全国を十の地域に分け、
 それぞれに
 3名で構成される
 巡察使を派遣して虱潰しに査察を実施したのです。
 3名の中には、彼として信頼できる甲府藩からの転籍者を必ず1名は入れていたといいます。
 この結果、彼が事実上の権力を握っていたわずかの期間に、
 処罰された
 代官は10名に達します。
 期間当たりの処罰数としては空前のもので、綱吉の元禄期以上に代官が厳しく取り締まられた時期ということができます。
 しかも実際には、事務処理が遅れて、処罰が享保以降にずれ込んだ例もかなりあるようですから、実質的処罰件数ははるかに多いと見るべきです。
 そして空席になった代官のポストに送り込むのもまた、甲府藩からの転籍組です。
 こうした締め付けの甲斐あって、
 1713年の
 年貢米徴収量は、
 前年に比べて
 43万3400俵も増加したと
 白石は自画自賛しています。
 この年、年貢米の量は、石数でいうと411万石あまりです。増加はその後も続いて、14年、15年といずれも412万石を突破しています。
 代官締め付け策は一応の効果はあったというべきなのでしょう。
 しかし、白石が見落としていた重大な点があります。
 それは、
 幕府代官
 諸経費に関する
 構造的な要因から、
 まともに代官が仕事をしていたら、
 必ず
 赤字になってしまうという点です。
 年貢の未収分の相当部分は、
 そうした
 代官の赤字補填のために
 流用されていたものだったのです。
 締め付けると、そうした分が増加するのです。
 しかし、現場の声が彼のところまでは上がってこなかったために、そこまではこの天才でも、洞察することはできなかったのです。
 したがって、この問題の真の解決は、享保の改革に譲られることになります。
 (4) 朝鮮通信使待遇改訂
 白石の事績を紹介して、
 朝鮮通信使
 待遇改訂問題を
 避けてとおるわけには行かないでしょう。
 ご存じのとおり、
 日朝関係は、
 秀吉の朝鮮出兵によって
 決定的に破壊されます。
 自家存立の必須の条件として
 日朝友好を熱望していた
 対馬の宗家は、徳川家康が日朝関係の復旧に意欲があるのを幸いに、日朝間にあって、懸命の工作を行いました。
 その結果、
 1607年に初めて朝鮮から使節がわが国を訪れ、
 1609年に、
 対馬と朝鮮の間で
 己酉条約が成立して、ようやく両国間に講和が成立しました。
 その後、1617年に朝鮮政府は、徳川幕府による日本統一の賀使を、1624年には家光の将軍位襲職の賀使をそれぞれ派遣してきたので、ようやく日朝修好の実が備わるようになってきます。
 そして、1636年に、通信使という名の使節の最初の者が送られてきます。
 以後、将軍の代替わりの都度、通信使が訪日することになります。
 通信使という名称を使うか否かは問題ではありませんから、以下、1607年以降のすべての訪日を、朝鮮からの使節として一律に論ずることにします。
 これら使節の訪日の趣旨そのものは、日朝友好ということで、全く結構なことです。しかし、これが
 幕府財政上の大問題
 にならざるを得ないのは、
 ひとえにその規模のためです。
 1607年の第1回の来日の際には、秀吉の朝鮮出兵の後遺症が双方に色濃く残っているときでしたから、朝鮮側としては各分野のトップクラスの人間を多数送り込んで、徹底的に日本側の情報を収集することを目指したのだと思います。
 その結果、この時の使節団の総数は467人に達しました。
 この規模が、規模に関する先例を作ってしまったのです。
 江戸まで使節が来たことは全部で
 11回ありますが、それを見ると、
 1624年の第3回が300人と少ないのを例外にすれば、正使以下の一行の人数は、最大500人(これが実は新井白石の改革の時です。)、最小でも428人(第2回)、平均470人程度となっています。
 使節団は3艘の船に分乗し、これに3艘の副船が献上品その他の荷物を載せて従います。
 これが釜山から対馬壱岐経由で下関に入り、瀬戸内海を抜けて大阪に上陸します。その後、船を管理する人間を100名程度残して、残り全員が陸路、江戸に入ります。
 だから使節団だけで3百数十名という規模です。
 これに、対馬藩から、使節側1名当たり、2名程度の割合で随行者がつきます。すなわち約700名です。したがって、行列の本体規模が大体1000人に達することになります。
 建前として、
 日朝双方は対等ということになっていますが、
 江戸幕府としては、
 朝鮮は入貢してきている
 というポーズを国内的に取っています。
 そこで、この入貢国を厚遇することにより、ひいては幕府の権威を高揚することができると考えているのですから、この大人数の、日本国内に入ってからの経費はすべて日本側の負担です。
 滞在期間は、建前としては半年ですが、悪天候その他の事情から行程はどうしても遅れがちになり、普通は大体1年近い期間が必要になります。
 海上にある間は、それでも大して手間も費用もかかりません。
 しかし、大阪に上陸して陸路を進み始めると、当然この1000人という大行列の荷物を運ぶ人足が必要となります。旅行用の荷物に加えて、進貢用の荷物、それに貿易用の物資ですから、決して少ない量ではありません。
 さらに、道案内として諸国の大名から人数がつきます。それやこれやで、行列は大体3000人くらいの規模に膨れ上がります。
 これが半年がかりでしずしずと進んでいく訳です。一行の威儀の盛大さ、道中における饗応、接待の手厚さはまさに人の目を驚かせるものがあったのです。
 しかも、娯楽の少ない時代のことですから、見物や交流のため、多くの人々がその道筋にやってきます。
 当時の街道は、東海道にしても中山道にしてもささやかなものですから、これほどの規模の行列にゆっくりと進まれては、機能が麻痺してしまいます。
 そのためと思うのですが、通信使が来る度に、幕府では「吉道」と呼ばれる特別の道を、通常の街道とは別に整備します。
 このように見てくると、通信使の応接に巨額の費用がかかり、そのため、幕府財政が傾く恐れがある、ということが判っていただけると思います。
 家宣が将軍に就いた時には、それを祝って
 1711年に
 第8回目の通信使が来ています。先に述べたとおり、空前絶後の規模の通信使です。
 その際に、新井白石は、末代までの語りぐさになるほどの努力を払って、極力この経費を切りつめました。
 しかし、記録に残っているのは、
 従来朝鮮側の国書の宛先を
 「大君」としていたのを、
 朝鮮と対等に
 「国王」に直したとか、使節が将軍に拝謁する際に御三家が同席していたのをしないことにした、というような形式面の話ばかりが多く、具体的にどこでどのような経費を削減したのかはよく判りません。
 朝鮮は、朱子学大義名分論を大事にするので、大きな論争点になるのは、実質的な待遇の良し悪しよりも形式的な面に集中するためです。
 しかし、
 白石の方では、
 本当の狙いは
 幕府の財政難の救済にあったはずですから、できる節減は全部やったはずだ、ということだけは確かです。
 それでも、陸路に当たる兵庫=江戸間の、京、大阪を始めとする各地の道普請あるいは修復、人馬割り等々の入用は、総額金19万2301両、米5385石に達しています。
 また、この道中のために使用された人馬の数は、行きの場合には、通しで使った人足が310人、寄せ人足1万0691人、馬9754匹です。
 帰りの場合には、通しで使った人足は同じく310人ですが、寄せ人足は1万2707人、馬8161匹という膨大な数字に達しています。
 帰りの人足が若干多いのは、贈り物や土産で荷物が増えたためでしょうか。
 したがって、諸大名が負担した分も含めた全体の経費がどのくらいに達したのかは判りません。が、想像するだけでぞっとするような金額になるはずです。
 この数字が、その前回や、再び元に戻した次回に比べてどの程度の節減になっているのかはよく判りません。いつものことながら、幕府記録の喪失のためです。
 白石だけがこうした記録を後世に残してくれたわけです。
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 ・・・
 1510年
 三浦の乱(サンポのらん・庚午三浦倭乱)
 1510年(中宗四年)
 朝鮮国慶尚道で起きた、
 対馬守護宗氏と
 恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱
 朝鮮に鎮圧
 15世紀、
 朝鮮半島南部に
 三浦と呼ばれる日本人居留地が存在
 宗氏を始めとする
 西日本諸勢力は
 三浦を拠点に朝鮮に通交
 朝鮮はこの通交に制限を加えていった
 それに対し
 宗氏と朝鮮両者の間に確執
 また
 三浦居住の
 恒居倭の
 増加に伴い様々な問題が生じ、
 朝鮮は恒居倭に対し強硬姿勢で
 三浦の乱勃発
 結果、
 三浦居留地の廃止
 通交も大幅制限
 前期倭寇
 朝鮮は討伐・懐柔
 室町幕府への鎮圧要請
 倭寇沈静化を図り、
 通交権をもって
 西日本諸勢力から
 倭寇禁圧の協力を取りつけ、
 また
 倭寇自体を平和的通交者へと懐柔
 対馬倭寇の一大拠点
 対馬守護であった
 宗氏にも協力要請
 李氏朝鮮建国当初
 入港場に制限はなく、
 通交者は
 随意の浦々に
 入港することが可能であった
 各地の防備の状況が
 倭寇に漏れるのを恐れ、
 交易統制のためもあり、
 1407年、
 朝鮮は
 興利倭船
 (米、魚、塩など日常品の交易をする船)
 の入港場を
 釜山浦
 薺浦(乃而浦とも、慶尚南道昌原市
 に制限
 1410年には
 使送船(使節による通交船)
 についても同様の措置
 1426年、
 対馬の有力者
 早田氏が
 慶尚道全域で任意に交易できるよう要求
 これを拒絶する代償として
 塩浦(蔚山広域市)を
 入港場に追加
 釜山浦・薺浦・塩浦
 を総称して
 三浦と呼ぶ
 中世の日朝交易
 通交使節による
 進上と回賜、
 朝鮮国による公貿易、
 日朝双方の商人による
 私貿易の三つの形態が組み合わさったもの
 朝鮮にとって
 公貿易は
 利益を産み出すものではなく
 国庫を圧迫する要因
 朝鮮国内における
 通交者の滞在費・交易品の輸送も
 朝鮮側が負担
 対馬は山がちで耕地が少なく
 土地を通じた
 領国支配は困難で
 宗氏は通交権益の
 知行化を通じて
 有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、
 領国支配を推し進めていた
 また主家である
 少弐氏の敗勢により
 九州北部の所領を喪失
 家臣に代替として
 通交権益を宛がう必要があり、
 通交の拡大を望んだ
 宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、
 朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。
 1443年
 嘉吉条約
 朝鮮は対馬から通交する
 歳遣船(毎年の使送船)の上限を
 年間50隻に定めた
 それに対し
 宗氏は
 特送船(緊急の用事で送る使送船)
 を歳遣船の
 定数外とし、
 島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)
 とは別に
 有力庶家名義の歳遣船を定約し、
 また島主歳遣船の
 上限を引き上げるよう要求したが、
 これは朝鮮から拒絶された。
 宗氏は対馬島外の
 勢力や実在しない
 勢力名を騙った新たな通交者の
 偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。
 当時の日朝貿易における
 日本側の輸出品は
 胡椒・丹木・朱紅・銅・金等
 朝鮮側の輸出品は
 綿布
 朝鮮は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、
 1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、
 1494年には金・朱紅の公貿易禁止、
 1498年には銅の公貿易も禁止
 それに対し宗氏は、
 特送船を使って、
 銅の輸出を図った。
 1500年に朝鮮に訪れた宗氏の使者は、
 11万5千斤の銅を持ち込むが、
 朝鮮は3分の1を買い取り、
 残りは持ち帰らせた。
 2年後、再度訪れた使者は残余の買い取りを迫ったが、朝鮮は綿布の交換レートを引き上げた上での
 3分の1の買い取りを提示し、
 交渉は物別れに終わった。
 翌々年、三度交渉するが不調
 1508年にもまた同様の交渉
 こうした大量の銅は、
 宗氏が新たに入手したものではなく、
 朝鮮が交易の制限を強化していく中、
 対馬・博多において
 大量に過剰在庫のモノ
 こうした
 交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、
 宗氏は不満を募らせ、
 三浦の乱の一因となった
  ↓
 恒居倭の増加
  ↓
 交易従事者のみならず
 三浦に定住する日本人(恒居倭)
 彼らは
 倭館の関限を超えて
 居住し、
 田地を購入して耕作
 朝鮮半島沿岸での
 漁業、密貿易など様々な活動
 朝鮮は、
 恒居倭の倭寇化を恐れ、
 検断権(警察・司法権
 徴税権といった
 行政権を行使できず、
 日本人有力者による自治に任せるままであった
 朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、
 宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請
 宗氏は当初恒居倭を掌握しておらず、
 自身の支配下にある対馬への送還
 1436年の送還により
 宗氏の支配下にない者達が一掃され、
 以降
 三浦は宗氏の派遣する
 三浦代官の支配するところとなった
 その結果、
 宗氏は送還に消極的になり、
 三浦人口は
 1436年の206人
 1466年には1650余人
 1494年には3105人まで急増
 恒居倭による
 漁場の占拠
 倭寇
 密貿易の恒常化
 恒居倭と朝鮮人の癒着
 三浦周辺朝鮮人の納税回避
 朝鮮人水賊の活発化
 15世紀末
 朝鮮国は、恒居倭に対して
 辺将による納税の論告
 海賊行為者の逮捕と処刑
 検断権・徴税権行使
 1510年
 釣りに向かう薺浦の
 恒居倭人4名を、
 海賊と誤認した
 朝鮮役人が斬殺
 恒居倭人
 この事態に憤慨し反撃
 4月4日
 対馬から
 宗盛順が率いる援軍
 約4500の兵力をもって
 三浦の乱を起こした
 倭軍は、釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ
 釜山浦では辺将を討取り、
 薺浦では生け捕りにした。
 さらに釜山浦から
 東萊城、薺浦から熊川城へ攻め進むが
 反撃に会い攻撃は頓挫
 4月9日頃
 倭軍は兵の一部を対馬へ撤退
 盛親は残りを薺浦へ集結させ
 講和交渉に臨もうとしたが、
 朝鮮は講和に応じず、
 4月19日
 朝鮮軍は薺浦へ攻撃
 薺浦は陥落
 倭軍は対馬へ撤退
 6月末
 倭軍は再度来攻するも
 撃退された
 日朝の国交は断絶状態
 宗氏以外の全ての
 受職人(朝鮮から官位を貰っている者)
 受図書人(通交許可を受けている者)
 に対しても同様
 1512年
 壬申約条により和解
 交易は再開され倭館も再び開かれた
 入港地は薺浦のみに制限
 歳遣船は半減、
 特送船の廃止、
 日本人の駐留の禁止、
 受職人・受図書人も再審査を受け
 通交は以前より制限
 その後、釜山浦も再び開港
 1544年
 蛇梁倭変が起こり、
 再び国交は断絶
 1547年
 丁未約条で
 交易が再開
 入港地は釜山浦一港に制限
 朝鮮と
 同格である
 日本国王室町幕府)の
 使節の通交を制限するものではなかった
 宗氏は、
 日本国王使の
 偽使を仕立て上げ通交を行おうとした
 三浦の乱をきっかけに本格化することになった。
 偽の日本国王使派遣
 三浦の乱後の
 1511〜1581年まで
 日本国王使は
 22回通交することになるが、
 本物の日本国王使は
 2回に過ぎず、
 20回は
 宗氏の仕立て上げた偽使であった
 日本国王使の派遣には
 朝鮮が室町幕府に発行する
 象牙符が必要であった。
 象牙符は
 大友氏と
 大内氏が所持するものであり、
 宗氏は両氏との関係の緊密化に腐心
 三浦の乱以前
 九州・中国地方の諸勢力も
 朝鮮から図書を受け通交
 三浦の乱を境に通交権は宗氏に集中
 日朝交易から締め出された勢力の一部は
 明人海商と結びつき、
 後期倭寇の一翼を担うようになる
 後期倭寇
 明国沿岸部で活動
 朝鮮半島沿岸部も活発に襲撃
 1588年
 豊臣秀吉
 海賊停止令により
 倭寇が終息
ーーーーー
 ・・・「国家エゴ」・・・