1591日目・・・「12月」は毎年、肉体的にも精神的にも調子がワルイなッ。「水をオトシタ」のに水道が凍結である・・・「いきばがない」って、「イキ場」ない?・・・息をして生きている限り、その場所自体が「いきば」である・・・水が凍ってしまえば溶けるのを待つしかない。いずれ、水となって蛇口から押し出される。台所のシンク、いずれは下水道に・・・トイレの水洗凍結にはウンの行き場もない・・・

 「干支暦の月」の「12月の支」の漢字は各「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」月の「子月」で、「10干」の各「甲・乙・丙・丁・戊・己・壬・癸+(甲・乙)」で、「干支」月の組み合わせは、「子」月と「甲」月の順序の組み合わせの「甲子」は「60ヶ月」、「60÷12=5年」に一回である。
 干支の「干」は10進法でアラビア数字では「(0)・1・2・3・4・5・6・7・8・9」で、インド起源であるらしい「0→10」は「1〜9」の全部の「数字」が含まれていると言う意味である。そして「支」は12進法で「(0)・1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12」である。「0→12」は「1〜11」の全部の「数字」が含まれていると言う意味である
  ↓
 2014年12月16日火曜日
 2014年 干支31 甲午(丙・  ・丁)年
 12 月 干支13 丙子(壬・  ・癸)月
 16 日 干支58 辛酉(庚・  ・辛)日
  ↓
 クリスマス
 Xマス・Christmas・Xmas・X-mas
 Χριστοσ=キリストのミサ(missa・mass)
         キリスト降誕祭
  ↓
 2014年12月25日木曜日
 25 日 干支07 庚午(丙・  ・丁)日
  ↓
 「Xmas=X-mas」は「X=未知数・ラテン文字(アルファベット)の24番目の文字・ギリシア文字のΧ(キー/ヒ/カイ)に由来・ラテン文字の発音はksがギリシア西方方言でΧと書かれた・標準ギリシャ語のΧの音写にはchやkhが用いられる・ギリシア文字のΞ(クシー)の音写にXが使われることがある。キリル文字のХと同系」
 の
 「マス」である・・・
 「サケ=鮭」が「Salmon(サーモン)」、
 「マス=鱒」が「Trout(トラウト)」である。
 そして「枡・桝・升・舛」で、「マス(mass)」は「集まり・集団・群衆」で、「質量」で、
 「一升」とは「米の1升の重さは約1.5Kg」で
 「一升瓶」は「1.8リットル(ℓ・l・L→乙の略字・乚はイン)」、
 「乚=別源異体字. かくす・「隠」の古字。 (部首)「乙」の異体」。 「毫(ゴウ・わずか)」の略体」・・・「乚」の呉音は「オツ,オチ,イン,ゴウ」、漢音は「オツ,オチ,イン,ゴウ」、訓読みは「かくれる」・・・隠すである・・・
 「masturbation」って、自己満足の快楽・・・「自慰(ジイ)」って、あたかも不道徳、不倫理の行為で翻訳漢字がそぐわない・・・同音異字は「ジイ=次位・示威・辞意・侍医・爺・字意」である・・・「自慰行為」はサルもネコもイヌもスル・・・
 「X」の「マス」とはパズルの「升字空白=スペルのXの?」である・・・
 今月の「12月=丙子月」・・・ここでは「干支」月の組み合わせではなく、「甲子(園)」は「甲=1」で、「子」が「12」番目の月だが、「子支」の読みの順序は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」で「1番目」である。古くは「1月=正月」は「子月」で、数字で言えば「子=1」であった。そして、「12月」は「亥月」であった。「丑月=正月=1月」になって各「支」月がズレ、「子」は「12」になったのである。だが「子支」の読みの順序、記録の順序も「一番目」で変わらなかった。マス目がズレたのだ・・・12月25日頃は「冬至=とうじ=当時」である・・・
 80歳で死亡したらしい「仏陀ブッダ・BC)」は「基督(キリスト・AD)」より遥か以前に誕生し、死没した・・・各仏教学者の推測の巾を採れば「紀元前624年〜紀元前383年」だが、キリストの大先輩である。
 「景教」での「イエス・キリスト」の記録漢字は「移鼠」で「移動するネズミ」である・・・支では「子(シ)」を「ね・ねずみ」と訓読みし、漢字では「鼠(ソ)」である。
 「三蔵法師」は有名だが
 その生存期間はたかだか
 「602年〜664年3月7日)」の人物である。
 「玄奘(げんじょう)」
 唐代の中国の訳経僧
 玄奘は戒名
 俗名は陳褘(チンイ)
 諡は大遍覚
 尊称は法師、三蔵
 鳩摩羅什と共に
 二大訳聖
 あるいは
 真諦と
 不空金剛を含めて
 四大訳経家とも呼ばれる・・・
 ・・・ギリシャ神話、そしてキリスト教と仏教はどちらが日本に伝承されたかのか?・・・記録上の問題ではなく、人間の交易、出会いでの相互関係として可能性としての推理、推測である・・・
ーーーーー
 中国地域への仏教の伝来
 1世紀頃と推定
 後漢の永平10年(67年)の
 明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話
 『後漢書』に、
 楚王英伝に仏教信仰に関する記録
 仏教
 紀元前三世紀頃、
 阿育王が出現して仏教興隆のために尽力
 中国に仏教が伝来したのは、後漢
 明帝が永平十年(紀元六七)
 仏 教 伝 来
 中国に仏教が伝来
 後漢の明帝が永平十年(紀元六七)、
 インドの迦葉摩騰竺法蘭
 洛陽(河南省)に迎え、
 白馬寺において経典を訳
 中国の人々に認識されるようになったのは、
 後漢桓帝(146〜167在位)
 インドの
 安息国の皇太子であった
 安世高が出家して沙門となり、
 その後中国で、
 約二十年間にわたって
 主に小乗経典の漢訳に従事
 霊帝(168〜189在位)のとき、
 大月氏国の沙門であった
 支婁迦讖が中国で
 大乗経典を翻訳
 魏・呉・蜀の
 三国時代を経て盛んになった・・・
  ↓
 魏の国は、蜀の国を滅ぼし
 「晋」を建国し(265年)、
 さらに
 呉の国を統合して(280年)
 三国を統一
 晋の建国から約五十年間を
 西晋(晋)時代
 仏教僧に
 竺法護(231〜308)
 経典の翻訳に約四十年間にわたって従事
 「正法華経」「光讃般若経」等、
 三百巻を超える経典を訳出
 竺法雅
 や
 康法朗などの仏教僧は、
 儒教老子荘子の思想を利用して、
 仏教の教理を説明し布教
 これを
 「格義仏教」という・・・
 仏教本来の教義が歪められた・・・
  ↓
 五胡十六国時代
 四世紀
 北方の騎馬民族
 西方の民族の五胡
 (匈奴鮮卑・羯・氐=成(前蜀、のちの漢)・羌)
 二趙(前趙後趙)、
 三秦(前秦後秦西秦)、
 四燕(前燕後燕南燕北燕)、
 五涼(前涼後涼西涼南涼北涼)、
 夏・成
 の十六の国
 仏教は隆昌し、
 特に後趙前秦後秦北涼
 の各国では盛ん
 前秦
 道安(312〜385)は、
 経典を整理し
 「総理衆経目録・(道安録)」を作成
 後秦の時代
 羅什三蔵(344〜413)=鳩摩羅什
 は
 亀茲国(中国ウイグル自治区)に生まれ、
 七歳で出家し、
 九歳のときに
 大月氏国に渡って
 槃頭達多に
 小乗経を学んで、再び帰国
 亀茲国が滅亡後、
 涼州に留まり、
 弘始三年(401)
 後秦二代の
 王・姚興に迎えられて長安に入った
 三百八十四巻ほどの経論を翻訳
 『妙法蓮華経
 『大品般若経
 『維摩経』、
 及び
 『大智度論
 『中論』
 『十二門論』
 『百論』
 『十住毘婆沙論』
  ↓
 南北朝時代
 「法華経
 五〜六世紀
 東晋の流れを継続した南朝
 五胡の流れを汲む北朝
 とが対立
 南朝
 四二〇年に成立した
 宋に続いて
 斉・梁・陳の国々の興亡
 北朝
 四三九年に北魏華北を統一
 内部分裂で、
 北周に亡ぼされ
 五八一年に
 随によって併合
 隋はさらに
 南朝の陳をも滅ぼし
 五八九年に全国統一
 この南北朝の仏教では、
 経典に対する
 教相判釈の研究が活発化
 揚子江を境にして
 南に三師三派、
 北に七師七派の
 南三北七の十派が各々の義を立てた
 義は、細部の違いはあっても
 大綱は共通し、
 華厳経第一、
 涅槃経第二、
 法華経第三
 南朝最後の陳の時代
 天台大師は、
 これら南三北七の義を打ち破って
 法華を宣揚
  ↓
 天台大師(智�瘉・チズイ)
 天台大師(五三八〜五九七)
 中国天台宗の開祖
 陳・随両時代の
 法華経の第一人者
 梁武帝
 大同四年(538)
 荊州に生まれた
 十八歳のとき、
 果願寺の法緒のもとで出家し、
 法華三部経等を研鑽
 二十三歳で
 大蘇山(河南省南部)の
 慧師(南岳大師)に師事し、
 法華三昧の行に入り、
 法華経『薬王品第二十三』の、
 「是真精進。是名真法。供養如来
 (是れ真の精進なり。
  是を真の法をもって
  如来を供養すと名づく)」
 の句によって悟りを開く・・・
 これを
 「大蘇開悟」といい、
 天台は
 薬王菩薩の後身といわれている
 三十二歳のとき、
 金陵(南京)の
 瓦官寺で法華経を開講
 その後、六年を経て隠遁を決意
 天台山浙江省東部)に入り、
 頭陀を行じて
 円頓止観を悟り、
 四十七歳のときに
 陳王の請いに応じて
 天台山を下り、後に
 金陵・光宅寺において
 『法華文句』を講じた
 陳が滅び、隋が天下を統一すると、
 天台は
 隋の晋王広(煬帝)に招かれ、
 開皇十一年(591)
 晋王広に
 菩薩戒を授け、
 「智者大師」の号を贈られた
 翌年、天台は故郷の
 荊州に玉泉寺を建立
 『法華玄義』を説き、
 開皇十四年(594)
 『摩訶止観』を講説
 一念三千の法義を明らかにして
 法華経
 最高の教法であることを示した
 南三北七の十師たちが唱える
 邪義に対して、
 天台は
 五時八教判をもって批判
 開皇十七年(597)
 天台山で六十歳で入寂
  ↓
 天台法華宗
 天台大師入寂後、
 弟子の
 章安(灌頂・561〜632)が
 天台宗の基礎
 章安は、
 天台の
 『法華文句』
 『法華玄義』
 『摩訶止観』の講義を筆録・整理して
 三大部を完成
 章安以後、天台宗は唐代に入って
 智威・慧威・玄朗と継承
 禅宗真言宗華厳宗法相宗
 等に勢いを押されてたが
 唐代の中頃に、
 玄朗の弟子である
 天台宗
 第六祖の
 妙楽(荊渓大師湛然・711〜782)が出て、
 天台の
 一念三千の法義を明確にし、宗勢を復興
 妙楽の著作
 三大部を注釈した
 『法華玄義釈籖』
 『法華文句記』
 『摩訶止観輔行伝弘決』
 妙楽のあとを継いだのが弟子の
 道邃と
 行満であり、
 この二人から天台法門を学び、
 道邃から
 円頓止観を授けられたのが、
 日本の
 伝教大師最澄(さいちょう)の諡号
  ↓
 弘法大師空海
  ↓
 キリスト教分派
 (異端?キリストは神性を具へた一個の人間)
 の
 ネストリウス派景教
 大秦景教流行中国碑
 (だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)
 1623年、西安長安)で土中より発掘
 明末に
 長安
 崇聖寺の境内で発掘された古碑 
 ネストリウス派景教・ネストル教)の教義や中国への伝来などを刻す。
 唐代781年(建中二年)に
 伊斯(イザドブジド Izadbuzid ?)が建立・・・
  ↓
 碑文内容
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4707_9678.html
  ↓
 「唐の太宗の時、
 阿羅本が景教の經像を齎らして長安に來朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建てて、僧二十一人を度せしこと、次の高宗は天下の諸地方に景教の寺院を増置したこと、則天武后時代から睿宗時代にかけて、景教の法運やや不振に陷つたこと、玄宗時代に景教は再び唐室の保護を受けて、法運振興したこと、次の肅宗・代宗・徳宗三代を通じて、法運の益々隆昌したことを記した
この記念碑建設の費用を喜捨した、
伊斯の徳行を敍した」
「ミシア(Missiah 救世主の意味)教」・・・
   ↓
 「彌尸訶(貞元新定釋教目録)」、
 「彌施訶(大秦景教流行中國碑)=彌失訶」・・・
 碑文は
 景浄=アダム(Adam)
 中国へは、
 唐の太宗の時代に
 ペルシア人司祭
 「阿羅本(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)」らによって伝えられ、景教と呼ばれた。
 景教とは中国語で「光の信仰」という意味であり、
 景教教会を唐の時代、
 大秦寺という名称で建造された
 セメド(Semedo)といふ宣教師の作つた
 『支那通史』に石碑頂部先端は
 ピラミッド形
 1625年(明の天啓五年)に発掘記録
 唐代末期、
 武宗に弾圧され消滅・・・
 「元」の時代に一時的に中国本土で復活
 秦氏によって日本にも景教が伝わった・・・
 中国では
 ダビデを漢訳して
 「大闢」と書くが、
 秦氏
 西日本の日本海各地に
 「大避神社」と号する神社を建立し、
 また京都の
 広隆寺の隣に
 秦始皇帝を祭神の1つとして建立した
 大酒神社も、
 昔は大辟、
 さらにさかのぼると
 大闢と号していた・・・
ーーーーー
 ・・・なぜ、「ブッダ」は「佛=仏=イ+ム(私・よこしま→邪)」になったのか・・・横の島・・・
緯度33度・・・横島→阿蘇山→横島・・・