1574日目・・・ダーウィンが来たのインドネシアの「クロざる」の「顔の表情」、大蛇の撃退、仲間との絆・・・すごいなぁ〜ッ、撮影スタッフも。敬意を・・・守るモノが「イノチ」しかないヒトは「怖いモノがない?」・・・獲たモノが「タクサン」あるヒトは「怖いモノがタクサンある?」・・・「三輪山(御諸山)の大物主」は「怖いモノがタクサンあった?」・・・大物主は「蛇神(ジャシン→邪神・蛇身→蛇腹→蛇身→寫眞・写真→写心・舎身→舎人)」という伝承がある。拝殿前の「巳さんの杉」に蛇の好物の生卵が供えされるらしい・・・蛇は

 サルは猿でも秀吉(日吉丸)、「禿げネズミ・針鼠?」・・・「クロダカンベイ」・・・「中津」・・・蘭学者福沢諭吉など)・・・江戸の戯作者・・・「お栄」・「長政・お菊・お糸」・・・「蜂須賀小六」は何処からやって来たのか?・・・新羅高句麗、高麗・・・
 「major」mode・・・「魔女亜?」→「長音」音階、「minor」mode・・・「三ノ輪・箕輪?」→「短音」音階・・・「major(メジャー)」は「まじょぁ」、「minor(マイナー)」は「みのわ」とヨンでクレ・・・
 以下は例のごとく、ウイッキペデアや他のブログ記事の原文を抜粋、参照、参考にした・・・
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 1918年(大正7年)2月10日
 蜂須賀茂韶が死去
 阿波徳島藩
 「蜂須賀茂韶が宮中に参内し応接室で待っていた時、卓上にあったタバコ(葉巻烟草・葉巻煙草・シガレット)を一本失敬した。
 明治天皇
 「蜂須賀、先祖は争えんのう」
 と言ったと「司馬遼太郎街道をゆく」に記しているらし・・・祖先とは血筋のコトなら「蜂須賀茂韶」は「蜂須賀正勝(小六・小六郎)」の血統一族ではなく、「徳川の血統」である・・・
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 蜂須賀氏
 羽柴秀吉に仕えた
 蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族
 元々、「須賀(すが)」氏と呼ばれていた?・・・「須賀神社」は
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 須賀神社
 牛頭天王須佐之男命を祭神とする
 祇園信仰の神社
 日本全国に存在
 「すが」は「須我・清・酒賀・素鵞」
 などとも表記
 島根県高知県に特に多い
 スサノオ
 「八岐大蛇」を退治して
 クシナダヒメを妻とした後、
 出雲国須賀に至って
 「吾此地に来て、我が御心すがすがし」
 と言ってそこに宮を作った由来
 須賀神社の多くは、
 明治の神仏分離まで
 「牛頭天王社」などと称していた・・・
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 蜂須賀氏の出自に関しての確証はない
 「武蔵七党の横山氏」と同じ家紋の
 「五割万字(いつつわりまんじ)」
 を使用していることから、
 横山氏の系統・・・
 横山党?
 文献から、
 「小野篁」の後裔・・・
 太田亮の
 「姓氏家系辞典」・・・?
 武蔵国多摩郡横山
 (東京都
  八王子市
  元横山町)を本拠として横山姓を称した
 当時
 「横山」とは「多摩」丘陵を指し、
 「万葉集」に「多摩の横山」と詠われている?
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 十三代藩主の
 蜂須賀斉裕の実父が
 徳川家斉紀州徳川家出身)
 紀州徳川家
 水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族
 北海道で大規模農場経営をおこなったが
 失敗
 大正から昭和期に
 十八代当主となった
 蜂須賀正氏は
 「鳥類学者」
 ・・・たびたび犯罪に絡んだために「華族の品位を落とす」とされ、
 1945年(昭和20年)7月に侯爵位を返上
 戦後は正氏の遺族の間で
 財産争いが起こり、
 暴力団も絡み破産し、
 蜂須賀氏没落・・・?
 蜂須賀藩主は、
 代々
 釣り好きで専用の釣り場を維持
 磯釣りの
 「うきフカセ釣り」は
 「阿波釣法」の発祥
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 中津
 明治二年1869年
 版籍奉還によって
 府藩県三治制下における
 中津藩の藩庁が置かれる
 明治三年(1870年)
 中津藩士
 福沢諭吉の進言により
 御殿を残し、その他建造物を破却
 明治四年(1871年
 廃藩置県により
 中津県の県庁が置かれ、
 小倉県に併合され中津支庁が置かれる
 明治十年(1877年)
 西南戦争
 西郷隆盛挙兵に呼応した
 増田宋太郎率いる
 中津隊の襲撃により
 中津支庁舎であった御殿が焼失
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 中津城
 豊前国中津(大分県中津市二ノ丁)にあった城
 黒田孝高(如水)が築城
 細川忠興が完成
 江戸時代の大半は、
 奥平氏の居城
 周防灘(豊前海)に臨む
 中津川(山国川の派川)河口の地に築城
 梯郭式の平城
 水城ともされ、
 今治城
 高松城と並ぶ
 日本三大水城の一つ
 直角三角形をなし、扇形に例えて
 「扇城(せんじょう)」とも
 櫓の棟数は22基、
 門は8棟
 総構には、
 6箇所の
 「虎口」が開けられた
 中津城は、
 冬至の日には、
 朝日は
 宇佐神宮の方角から上り、
 夕日は
 英彦山の方角に落ちる
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 大物主
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 「出雲国造神賀詞」では
 「大物主櫛甕玉」
 「大穴持(大国主神)」の
 和魂(にきみたま)である・・・
 別名
 「三輪明神
 「倭大物主櫛甕魂命
 (ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)
 大国主の分霊であるため
 「大黒天」として祀られる・・・
 明治の神仏分離に際して
 金毘羅三輪一体との言葉が残る
 大物主を正式な祭神とされた
 「古事記」によれば、
 大国主神とともに国造りを行っていた
 少彦名神常世の国へ去り、
 国造に悩んでいた時に、
 海の向こうから光り輝く神様が現れて、
 大和国
 三輪山に自分を祭るよう希望
 大国主神が「どなたですか?」と聞くと
 「我は汝の
  幸魂(さきみたま)
  奇魂(くしみたま)なり」と答えた
 「日本書紀・一書」では
 大国主神の別名
 大神神社の由緒では、
 大国主神が自らの
 和魂を
 大物主神として祀ったと・・・
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 勢夜陀多良比売
 (セヤダタラヒメ)
 が美人であるという噂を耳にした大物主は、
 「赤い矢」に姿を変え、
 勢夜陀多良比売がトイレ(便所)で用を足しているとき川の上流から流れて行き、彼女の下を流れ、
 ほと(陰所)を突いた。
 その矢は大物主の姿に戻り、二人は結ばれ
 生れた子が
 「比売多多良伊須気余理比売
 (ヒメタタライスケヨリヒメ)」で、
 後に
 神武天皇の后となった・・・
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  倭迹迹日百襲姫
 (ヤマトトトヒモモソヒメ)は、
 夜ごと訪ねてくる男に「顔をみたい」と頼む。
 男は最初拒否するが、
 「絶対に驚いてはいけない」という条件で、
 朝小物入れをのぞくよう話した。
 朝になって
 百襲姫が小物入れをのぞくと、
 小さな黒蛇の姿があった。
 驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、
 置いてあった箸が陰部に刺さり、死んだ
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  活玉依比売
 (イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。
 父母はその男の正体を知りたいと思い、
 糸巻きに巻いた
 麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、
 糸をたどると三輪山の社まで続いていた。
 糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、
 「三輪」と呼ぶようになった
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 意富多多泥古
 崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、
 夢に
 大物主が現れ、
 「こは我が心ぞ。
  意富多多泥古(太田田根子)
 をもちて、
 我が御魂を祭らしむれば、
 神の気起こらず、
 国安らかに平らぎなむ」と告げた
 天皇は、活玉依比売の末裔とされる
 「意富多多泥古」を捜し出し、
 三輪山で祭祀を行わせ、
 天変地異も疫病も収まった
 これが現在の
 大神神社である
 「古事記」では、
 三輪大神は
 「意富美和之大神」とされている・・・
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