1569日目・・・「カツドン」が大好きだが、随分と食っていないなぁ〜・・・ボクの妄想回帰・・・「石上宅嗣」・・・は実在したのか?・・・「いそのかみ の やかつぐ・いわのうえのタクシ・遺志の状、託す詞(ことば)」・・・「石の上に託し嗣ぐ?」・・・「イシのウエにタクのシ」、「イシのジョウのタクのシ」・・・医師の帖(讓→高野長英→通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎)・・・文化元年五月五日(1804年6月12日)〜嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)

 以下、「ウイッキペエア」などが原文・・・
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 後世派(ごせいは)=後世方派(ごせいほうは)
 漢方薬
 唐・宋以降の
 書籍をよりどころにする一派
 「古方派」の原典である
 「傷寒論」、
 「金匱要略」の
 生薬の調合薬草は簡単調合
 「後世方」では、
 東南アジア・インド、中東やヨーロッパなどから輸入した
 牛黄(牛の胆石)、
 熊胆(くまのい)、
 麝香(じゃこうじかの性腺)
 など、希少な動物性の高貴薬など[要出典]もしばしば使われ、それぞれの薬味(生薬)に、気味と呼ばれる温感(寒・涼・平・温・熱)の別と、五味(酸・苦・甘・辛・鹹)が配当され、また、経絡との関係や、薬方の中での働きの重要性によって、君・臣・佐・使の区別がある・・・
 日本では
 主として
 「金・元の医学」を奉じる人々を
 後世派と称し、
 戦国時代の
 田代三喜
 及びその門人
 曲直瀬道三(『啓迪集』)
 曲直瀬玄朔(『医学天正記』)親子を祖
 江戸時代には
 岡本玄治
 古林見宜
 長沢道寿
 堀正意
 饗庭東庵
 味岡三伯
 香月牛山
 岡本一抱
 堀元厚
 らの名医がいた・・・
 田代三喜や
 曲直瀬道三が
 「金元四大家」のうち
 李杲・朱震亨の説を主体にしたのに対して、
 饗庭東庵・味岡三伯・岡本一抱・堀元厚らは
 劉完素・張子和の説を重んじた
 堀元厚の門人である国学者
 本居宣長も医学的にはこの流れを汲む・・・
  ↓
 これに対して思弁的傾向が強いとする批判が現れ、
 『傷寒論』などの
 唐以前の古典と実証主義を重んじる
 名古屋玄医
 後藤艮山
 らの古方派が台頭・・・
  ↓
 ・・・で、?
 1976年
 「三宅正彦」とは、・・・・ダレ・・・?
  ↓
 「三宅正彦」氏が
 「安藤昌益の社会変革論は
 尊王論の系譜に入れるべき・・・」・・・?
 それを受けて
 早川雅子は、
 「私法神書巻」
 (稿本『自然真営道』巻九)の分析によって
 安藤昌益の
 尊王攘夷論を立証・・・?・・・「ブンセキ(文石)」で、ですか・・・?
 ・・・コレって、「実証」じゃないよなッ・・・
  ↓
 「H(ハーバート)・ノーマン」
 1957年4月4日に赴任先の
 カイロで飛び降り自殺・・・暗殺された・・・?
  ↓
 駐日カナダ大使であった
 「H(ハーバート)・ノーマン」の手により、
 『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』
 原書名
 「Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism(大窪愿二訳・上下、岩波新書・1950年)」で、ノーマンは世間の一部に知られるようになった・・・
 ノーマンは
 「昭和天皇
  と
  マッカーサー
  GHQ側の
  通訳を担当」・・・
 ・・・レーニンはとにかく、
 カール・マルクス
 「安藤昌益」の思想を知っていた・・・とはネッ?
 ・・・で、ナンジャイ、この記事にある人物の「名前」・・・?
 「三宅正彦」氏は同姓同名の異人、ベツ人か?、同一人物か?・・・多数の「同姓同名」の人物が存在したとしても不思議ではないが・・・別人だろう・・・
   ↓
 「日本のファッション界」・・・
 「1940年代〜1970年代創成期に続く成長期に活躍した大物経営者としては、
 オンワードホールディングス
 馬場彰・名誉会長(77)、
 東京スタイル
 故
 高野義雄・前社長(享年75)、
 そして現在
 TSIホールディングスの会長兼社長と
 サンエー・インターナショナル会長を兼務する
 三宅正彦氏(77)」
 ななかまど(七竈)の木・・・花言葉は「慎重・賢明・用心・怠りない心」・・・「私と一緒にいれば安心」ですか・・・安心していても危険かも・・・



 ・・・?・・・「馬場」と「高野」と「三宅」・・・ですか・・・
  ↓
 「三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。
 加賀国
 金沢(石川県金沢市)生まれ。
 加賀藩
 家老
 本多家の
 儒医
 三宅恒の子として生まれる
 本名は雄二郎
 1888年
 志賀重昂杉浦重剛らと政教社を設立し、
 国粋主義の立場を主張
 『日本人』を創刊
 (後に『日本及日本人』に改題)
 後も、個人雑誌として
 『我観』を創刊」・・・?
 ・・・「我観(ガカン・われカン)」ですか・・・我々でなく、「我」の一人称だから「私(ム)観」と言う訳だ・・・
 「フランス使節団の随員の一人に
  金山佐輔(かながみさすけ)という
  会津人がいた。
  金山は会津若松馬場町に生まれたが(天保7年・1836)、
  会津藩士ではなく、当時、
  正使
  池田
  筑後守に学問の賓師として迎えられていた人で、
  池田の従者の資格でこの旅行に同行していた」
  「金山は明治になってから
   佐原盛純(さわらもりずみ)と改名し、
   会津中学校などで教鞭をとり、有名な
   「少年団結す白虎隊」の
   漢詩の作者として知られる。
   そして金山は
   明治37年10月に、このときの
   旅行日記を出発から帰国まで克明に謄写し、
   「航海目録」(全4巻)と名づけて
   子孫に遺した(現在、会津図書館蔵)」
    ↓
 「金山の目録によると、この日、
  カイロのホテルに居残って
  ピラミッド(三角山)見物に
  行かなかったのが
 副使の
 河津伊豆守と
 「田辺太一」、
 それに
 金山自身も含めて
 七名だった・・・
 スフインクス(首石)の前で
 写真を取った
 日本人サムライは
 二十七名、
 それに
 ブレックマン(写真家)の計
 二十八名」・・・
 「田辺太一」の娘
 竜子(たつこ)は
 三宅雪嶺に嫁ぎ、
 三宅花圃(かほ)の
 ペンネームで作家・歌人として知られた。
 三宅立雄は
 雪嶺・花圃夫妻の
 孫であり、
 「田辺太一」からは會孫・・・?
  ↓
 「国際法の権威で
  幕末維新史の研究に
  大きな
  足跡を遺した
  尾佐竹猛(おさたけたけき)博士が、
  その著
 「夷狄(いてき)の国へ
 (幕末遣外使節物語)」の中で、
 「この
  スフインクス
  (首石)の下にて
  一行の撮影した写真を
  三宅雪嶺氏が所蔵せられて居る、
  古来
  スフインクス(首石)の付近を通過したものは
  無数にあるが、
  陣笠のサムライの通ったのは
  空前にして絶後であろうとの
  三宅氏の言は面白く感ぜられる」・・・
 ・・・「三宅雪嶺」が所蔵の写真・・・?
   ↓
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 石上 宅嗣
 (いそのかみ の やかつぐ)
 天平元年(729年)
  〜
 天応元年六月二十四日
 (781年7月23日)・・・?
   7月23日・・・弘文天皇・・・明治
 奈良時代後期の公卿・文人
 姓は石上朝臣
 物部朝臣、石上大朝臣
 左大臣石上麻呂の孫
 中納言石上乙麻呂の子
 官位は正三位・大納言。贈正二位
 天平勝宝三年(751年)
 正六位下から従五位下に昇叙・治部少輔
 天平勝宝九年(757年)
 従五位上
 相模守・・・?
 天平宝字三年(759年)
 三河
 天平宝字五年(761年)
 上総守
 同年遣唐使の副使に任命されたが、
 唐に渡ることなく、翌
 天平宝字六年(762年)
 藤原田麻呂に交代して辞任
 天平宝字七年(763年)
 文部大輔・・・?
 藤原宿奈麻呂
 大伴家持
 佐伯今毛人・・・今蝦夷
 とともに、
 当時の権力者である
 太師(太政大臣
 恵美押勝を除こうとして失敗、
 天平宝字八年(764年)正月
 大宰少弐に左遷
 同年九月に発生した
 藤原仲麻呂恵美押勝)の乱により
 恵美押勝が失脚すると、
 宅嗣は復権
 同年十月
 正五位上
 常陸守・・・
 道鏡政権下では
 天平神護元年(765年)
 従四位下・中衛中将
 天平神護二年(766年)
 参議
 同年
 正四位下に昇叙
 神護景雲二年(768年)
 従三位
 宝亀元年(770年)
 称徳天皇崩御
 参議として
 藤原永手らとともに
 光仁天皇を擁立
 宝亀二年(771年)
 中納言
 宝亀十一年(780年)
 大納言
 右大臣
 大中臣清麻呂
 内大臣
 藤原魚名に次いで、
 太政官で第三位の地位を占めた
 この間。
 大宰帥・式部卿・中務卿皇太子傅を歴任
 宝亀六年(775年)
 物部朝臣
 宝亀十年(779年)
 石上大朝臣に改姓
 天応元年(781年)四月
 正三位
 同年六月に死没
 その後
 正二位の位階を贈られた
 淡海三船・・・?
 と並んで文人の筆頭と称され、
 作品が
 『経国集』に収められている・・・?
 仏道にも通じ、
 『浄名経讃』
 『念仏五更讃』を著し
 旧宅に
 阿閦寺(あしゅくじ)を建立
 その片隅に書庫を設け、これを
 芸亭と名付け、
 主として仏教経典以外の
 外典(げてん)を一般に公開した
 (『続日本紀』巻36
  天応元年(781年)6月辛亥24に
  伝記あり・書影)
 この芸亭
 日本最初の
 公開型の図書館・・・?
  ↓
 父:石上乙麻呂
 母:不詳
 妻:不詳
 男子:石上継足・・・継足?
 女子:藤原雄友の室
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  ↓
 日本最初の公開図書館
 幕末から明治維新まで
 仙台藩が設置していた
 青柳文庫だといわれている
 しかし、
 一部には奈良時代にあった
 芸亭院を、
 最初、もしくは最古のものとする説もある。
 (桑原蓼軒『芸亭院―日本最初の公開図書館』芸亭院創始千二百年記念会 1962年)
 石上宅嗣が自宅に設けた個人図書館
 鎌倉時代
 北条実時が設けた
 金沢文庫を公開図書館とする・・・
 これは利用には厳しい条件があった・・・
 1875年-81年
 浅草に官立で設置された
 浅草文庫というものもある・・・
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 ・・・江戸城内には「紅葉山文庫」があった・・・
 「紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)」
 江戸時代、幕府将軍のために
 江戸城
 紅葉山に設けられた文庫(図書館)である。
 「紅葉山文庫」の名称は
 明治時代以降に用いられたもので
 (現存する蔵書印も明治以降に押印されたもの)、
 江戸時代には単に
 「御文庫」と呼ばれ、
 あるいは
 「楓山(ふうざん)文庫」
 「楓山秘閣」
 などと呼ばれることもあった・・・
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 ・・・???・・・図書館長はダレ・・・