1565日目・・・書き込みが「消えた」・・・「保存」のキイを押したハズなんだけれど、単純な手違い?・・・おバカを無意識にしてしまう・・・ボクの記憶能力の範囲では同じ文章を書き込むのは難しい。その「文・文字・文章」のホトンドがコンピュータのキイを叩くと出てくる、と言う便利さに依存しているからだ。「記憶」は「脳ミソの埒外」にある。だが、ピアニストの指先自体が、体自体が曲を覚え込んだモノとは雲泥の差がある・・・「時間は不可逆」だし・・・それでも「脳ミソの記憶」をたどって・・・NHK・TV「あさイチ・まさか!う

 ・・・書き込んだコトは・・・
 ボクが名古屋にいた時から
 「青木さやか」さんのファンだったコト
 「青木さやか」さんが「おかぁさん」になっていたコト
 当時、TVに映し出されていた
 彼女の「頑張っているキャラ」が
 チョット前の
 「イモト」の
 「頑張り」と「危うさ」に似ていると思ったコト
 番組中、
 「栃木」で「地震」があったコト・・・
  ↓↑
 ・・・「たよれる人」、「ほめてくれる人」、「怒っ(注意して)てくれる人」、「みとめてくれる人」、先ずは一番に「きいてくれる人」・・・
 当時の「青木さやか」さん、「頑張っていた」けれでど、その「キャラ」がボクには「純粋(潤粋・醇酔)」、「純朴(淳朴・醇朴)」で、「純心(順信)」、「純信(順信)」で、「危うく」見えたのが、今現在のチョット前の「イモト」の「ガンバリ」と「アヤウサ」に重なっているように思えた・・・「フアン=ファン」の理由・・・
 「純朴・醇朴・淳朴」
   ↓
 「かざりけがなく素直なこと
  人情が厚くて素朴なこと」
 「ういういしい・危うさ・単純・人がよい・お人よし・うぶな・無防備な・極楽トンボの・緊張感がない・田舎くさい・ダサイ・ナイーブ過ぎる・ばか正直な・融通がきかない」
 「simple and honest・unspoilt・Unsophisticated
  simple・naive・plain」
 「自分の意見などというものは
  持ち合わせない純朴な好好爺
  (善良そうな性格の表現・描写・類語)」
 ・・・ジジイ・ババァにかかわらず、だろう・・・
 類似語には
 「念入りに仕上げていない、または仕上げられていないさま何の変哲もない・プレイン・質素・歴然たる・素朴・判然たる・単純・簡易・簡略・飾り気のない・明白」
 「純粋
  まじりけのないこと
  雑多なものがまじっていないこと
  邪念や私欲のないこと
  気持ちに打算や掛け引きのないこと
  ひたすらなこと」
 「pure・genuine・real」
 「innocent・clear」
 「spitefulは意地悪・impurityは不純」
 ・・・未だ、経験的に判断力のない幼稚児、低学年の子供達には「イイも、ワルイも」、「大丈夫も、アブナイも」、「賢いも、狡いも」、「ダマスも、ダマされるも」、「ウソもホントも」、「イジメも、イジメるも」、「クスグッタイも、イタイも」、「アツイも、ツメタイも」・・・子供の親たち、近所のオバサン、オジサン、オニイサン、オネエサンたち、その子供たちに、その生活環境で、養育過程で、同時にそれらの「二面性・表裏性」を教えていく必要があるのは当然である。この「人間社会」は「純粋無垢」なモノはなく、「単純さが絡まった複雑な社会」でアルコトを・・・この人間社会では幼児であろうと、なかろうが、「コタエは二つ」である。一つのコタエを選択するのには「経験的な出来事の遭遇の時間」が必要だ・・・殆どが「自分自身のイタイ目」にあってからの「選択」である。「イイ目」にあっても「左か右かの選択」はする。「イイ目の報酬の理由の裏をも」の納得次第である。
 「オギ」先生、「コトバの技術的な使い方の問題」にしてしまったら子供たちは、その「意図」を旣に見破っているかも・・・TVでは、その「コトバ」は誤解されるかも・・・幼児、子供達は自己存在、自分の生命存在の維持として本能的に自分自身に接する「大人たちのコトバ・コウイ」と「現実」があまりにも「乖離」しすぎているのを敏感にカンジているから・・・水曜日の「あさイチ番組」は「悩んでいる大人たち」だけが見ているとは限らない・・・大人は自分自身の「幼児時期・少年、少女の時期」のイイも、ワルイも、アイマイであった実体験、経験を、その立場でハナシテヤルべきではあるが・・・子供、幼児たちの「実存的維持=狡(ヅル)さ?=エゴ?」は決して甘くはない・・・その本質は動物としての「食える=排便できる」の「生理的存在」である・・・
 そして、養育されるプロセスで意思表示出来るようになった幼い子供の「問題意識」は「ナゼなの?どうしてなの?」の連発で・・・その「答え」を知りたい、憶えた範囲のコトバとその思考で「理屈」として自己納得したい存在なのである・・・
 なにもコレは幼児だけであるとは限らない。成人した老若男女の社会的な人間諸関係でも問題次元は異なれ、「ナゼなの?どうしてなの?」である・・・
 「人間諸関係」、そのホトンドが悲しいかな「ダマし、ダマされる社会」、「ヌスミ、ヌスマれる社会」、「殺傷の加害、被害の社会」である。モチロン、「自然界の生物の本質」である。だが、「人間」は「自然界からの解放」をココロザシたのだ・・・「社会の人間」は「自然界の動物とは異なる」のだ、と、「理屈」で、「コトバ」で・・・今のところ、人間界の人間と自然界の動物は多少の差はあれ、「ムリ」である・・・「自然の枠内の社会」である・・・
 ボクはダマされるのが大嫌いであるが・・・「ウソとホント」での舞台に立つお笑い芸人のコトバ、作家の文章、手品師の技、諸々の芸術家の表現、造作されたモノを除外して。彼らの表現の中には示唆、暗示された危険の警告、発信があると同時にウソの扇動、プロカバンダもある・・・だが、ダマされるのは享受者、観客、受け取る側の「勝手自由」である・・・職業的詐欺師の蔓延する社会だから・・・
 純粋無垢、純朴・・・TV番組の「はじめてのおつかい」に登場する子供達の「ガンバリ」と「アヤウサ」には毎度ハラハラ、ドキドキ、シワクチャの頬に流れるのは泪・・・なんで、「涙」の異字漢字があるんだか・・・泣かされるが、ボクの顔の表情は笑ってんだか、怒ってんだか・・・ダレにって・・・TVを見ている自分自身にだろう・・・
 「愛憎」・・・純粋無垢、素朴・・・「ストカーの心情?」は「親の心情?」の本質に重なっていく・・・先ずは「愛」が先行し、「憎」が追っかけていく・・・そして、「理屈」が・・・「愛憎愛」とサンドイッチになるのかな・・・もしかして「憎愛憎」のサンドイッチかも・・・「理屈」でないから・・・
 ・・・なんか、消したブンショウとは異質なモノになってしまった・・・ボケ・・・ナニを書き込んでいるのか・・・
 この社会では「コタエ」は「ふたつ」どころか、「たくさんアル」ようだ・・・だが、最後に選択するの「ひとつ」・・・「たくさん選択」出来るヤツは欲張りなヤツなんだろ・・・欲張りも余裕しだいだから・・・