1530日目・・・「コジキ」に感じるボクの語り・・・先ずは「漢字」を勉強しなくちゃぁ・・・「小林秀雄『本居宣長』(新潮文庫・上下巻各710円+税)」・・・msn(産経ニュース)の「学術・アート」欄にあった「巨編に挑む」・・・「巨編」は「拒編・虚篇・嘘片」の「アヤマり」じゃぁ、なかろうカネ・・・

 学生時代、今やボクの旧い友人のNさんに「わたしは後悔したことがない」と聞かされ、ボクは「ヘェ〜」と思ったコトがある・・・その後に「懺悔の値打ちもない」と言う「歌が好きだ」と言っていた時もボクは「ヘェ〜」と・・・小林秀雄は「反省しない人物」だったらしい・・・
 ウイッキペデアの記事によれば・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84_(%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6)
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 原文
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 ・・・「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を
 小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである。
 戦時中は軍国青年で、戦後はすぐ左に行ってしまったと自ら回顧する
 吉本隆明は、敗戦の放心状態にあって小林のこの発言の一貫性について膝を打ったという旨のことを
 第五次小林秀雄全集によせたインタビューで述べている。
 「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった。また、
 吉本は小林の「マルクスの悟達」に至るまでの文章を挙げてマルクスを一番良く理解していたのは
 小林だったと評価している。
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 ・・・お前が云うなョ、なッ・・・「戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々」の「戦後の世間一般の価値観」とはナンなんだか?・・・「世間一般」としての「価値観」は「厭戦・嫌戦」だったのサッ。「立場を180度転換」した奴は「世間一般」ではない・・・戦争を煽って、強要し、それに乗っかって「己の立場を決定できた人々」だろうサッ・・・「忍び難きをしのび」は命令形の「偲のべ」で、「欽明(明治)憲法」に足を置いて「世間一般」に与えたコトバだろう・・・幻想を「本質的には変わらない別の幻想」で与えた奴等は「支配階級+アルファ」の「ニンゲン」である・・・「国家の支配意識と意思・意志」はその「エゴな幻想」を変える存在ではない・・・
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 この年の半ば頃、小林の実母である小林精子が没し、左翼論壇による戦責追求、戦時中からの明治大学の教授職の辞職などが連続して起き、酩酊状態で水道橋の駅のホームから崖下に転落して奇跡的に軽傷で済むというようなことも起きている。小林はこの転落事件を強がりを見せながら触れているが、小林の娘の回想では帰宅時には生気の抜けたような青白い顔をしていたとのことである。
 ・・・彼も、クウための生活がカカっていたイタんだろう・・・
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 ・・・序でに、msn(産経ニュース)の「デング熱
が目に付いたので・・・
 ウイッキペデアの記事によれば・・・
 デング熱
 (デングねつ、まれにデンゲ熱とも、
  英: dengue fever, breakbone fever)
 とは、デングウイルス(英語版)が原因の感染症であり、熱帯病の一つである。2014年現在、実用化されている予防ワクチンはまだない。 なお、病名の「dengue」は、日本語では「デング」と音訳されているが、英語では「デンギー」(/ˈdɛŋɡiː/、米国)、あるいは「デンゲイ」(/ˈdɛŋɡeɪ/、英国)と発音される。
 伝染媒体
 「ヒトスジシマ蚊」
 デング熱と見られる症例について最初に記録されたのは、
 晋王朝(西暦265 - 420年)時代に書かれた中国の医学百科事典で、デング熱に関連する飛ぶ虫について
 「水毒」と言及。
 17世紀に、デング熱の流行について説明されたが、もっともな報告が最初に発表されたのは、1779 - 1780年のことである。この時、アジア、アフリカ、北米で大流行していた。それ以降1940年までは、流行はあまり見られなかった
 ・・・
 日本語の文献では、
 1922年(大正11年)に
 台湾軍軍医部がまとめた
 『熱帯衛生並ニ熱帯病提要』に、
 1915年(大正4年)5月から10月にかけて、
 台湾全土でデング熱が流行し、
 台湾軍内では、141名が罹患したことが記録。 
 ウイルスが原因であることや伝染経路について解明されたのは、20世紀初頭である。
 第二次世界大戦以降、デング熱は世界的に広まり、
 1960年代からその発生数は急激に増加している。
 現在では、110か国以上で毎年およそ5,000万人から1億人が感染する風土病となっている。
 その原因として、
 急激な
 都市化や
 地球温暖化が関与していると考えられている。
 デング熱の症状の特徴
 突然の発熱、頭痛(一般的に目の奥の痛み)、筋肉や関節の痛み、発疹である。デング熱に伴う筋肉や関節の痛みに由来している。感染には、発熱、重症、回復の3段階がある。
 発熱期には、40℃以上の高熱が出ることがよくあり、全身の痛みや頭痛を伴う。
 通常、このような症状が2日から7日続く。この段階で発疹の症状が現れるのは、50 - 80%である。
 1日目または2日目に紅斑が現れるか、さらに4日から7日疾患段階が経過した後に、
 はしかに似た発疹が現れる。またこの時点で、点状出血(皮膚を押したときに消えないまま残る小さな赤色の点で、毛細血管の破綻が原因)がいくつか現れ、口や鼻の粘膜から軽度の出血がある場合もある。基本的に、発熱自体は1日か2日の間で急に熱が上がって下がるという二相性を示すが、どのような頻度でこの二相性発熱が生じるかはまちまちである。
 重症に至る場合、それは
 高熱から回復した後であり、通常1日から2日続く。この段階で、毛細血管の透過性が増し、水分の漏れが増加することで、胸腔や腹腔に多量の水分が溜まる場合がある。これにより、血液量減少が生じたり、循環性ショックが生じたりする。またこの段階では、臓器障害や大量出血が、一般的には消化器で起きることがある。
 デングショック症候群と呼ばれる循環性ショックやデング出血熱と呼ばれる出血が発症する割合は、全症例の5%未満であるが、以前に他の血清型のデングウイルスに感染したことがある場合(つまり、二回目の感染の場合)は、そのリスクが増える。
 症状は回復
 これは通常2、3日かかる。
回復は目覚しいが、激しい痒みが発生したり、徐脈(心拍が遅くなること)がよくある。
 斑丘疹または血管炎症候群といった別の発疹が現れ、皮膚が剥けてくる場合もある。
 この段階で、水分過負荷状態になることがあり、これが脳浮腫や意識レベルの低下、てんかんを引き起こす。
 数週間、疲労感が続く。
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 スペイン語「dengue」(引きつり・こわばり)が由来という説がある[60]。デング熱に苦しんでいた西インド諸島の奴隷たちが、ダンディな(気取った)姿勢や歩き方をしていたと言われていて、「ダンディ熱(dandy fever)」とも呼ばれるようになった
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 某TVのニュース解説では・・・「デング-熱」はスペイン語の「気取った(格好)」らしい・・・歩く姿が、あるいは、立ち振る舞いが「イイ格好しいし」のようにみえるらしい・・・?・・・
 日本にきた「宣教師」達は当時の日本の権力者(豊臣秀吉)からみれば「高慢ちきなイイ格好しいし」だったカモ・・・実は「デング熱に罹患」していたのかも・・・「天狗=西洋、中東人」は「顔が赤いし、鼻が高い」から・・・
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 デング熱のニュース
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 2014.09.16 20:06 ライフ - MSN産経ニュース
 デング熱の治療で厚生労働省は16日、市販の解熱剤や鎮痛剤にも含まれるアスピリンイブプロフェンロキソニンなどは、デング熱が重症化した場合に出血傾向を促進する恐れがあるため使用すべきでないと注意喚起・・・
 2014.09.16 16:54 エンタメ - MSN産経ニュース
デング熱の国内感染に関連し、新宿観光振興協会は16日、新宿御苑(東京都新宿区)で10月13日夜に開催予定だった「森の薪能」を中止すると発表した・・・
 2014.09.16 15:06 ライフ - MSN産経ニュース
 厚生労働省は16日、新たに東京都内に住む男女8人のデング熱の感染が確認され、国内感染の可能性がある患者が124人になったと発表した・・・
 デング熱のブログ記事 
 ・・・「10月頃ごろまで活動するといわれているよ。家では幼虫ようちゅうの発生を防ふせぐため、鉢植はちうえの皿など水たまりを放置ほうちしないことだね」・・・

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 小林秀雄本居宣長
 「古事記」に感じる古人の語り
 2014.9.17 09:29 (3/3ページ)
  昭和の評論家、小林秀雄の最後の大作『本居宣長』。晩年の11年半を執筆に費やした代表作の一つとして名高いが、難解で読まれることが少ないことでも知られる。以前から気がかりだったこの大著に挑んでみた。(磨井慎吾)
 ・・・
 では、方法に惑わされずに人間・宣長を知るにはどうすればいいか。《彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語(モノイヒ)のさま」であった》。宣長古事記に没入したのと同じように、現代人の賢(さか)しらな理屈を捨てて宣長の心に寄り添い、彼が考えたように考えてみること。そうすれば、「古人の語りかけてくるのが直かに感じられる」。もとより理屈の付かない話ではあるが、小林の文章に従ってその思索を追体験するうちに、何となく「わかった!」という気持ちになってくるのが不思議である。
 若いころから小林を敬愛していた評論家の福田恆存(つねあり)は昭和55年秋、この大著を2週間かけて味読した。そのあいだに何も予定を入れず、この本を読むためだけの時間だった。そして、「これを読みたるは我独り也(なり)と思はせる本」という書き込みを残した(現物が神奈川近代文学館にある)。そう考えると、切れ切れの時間で読むというのは、もったいなかった。福田のように十分な時間を用意して、うまい酒に酔うように小林の語りに浸ること。それが、この本の最良の読み方かもしれない。
 「プロフィル」小林秀雄(こばやし・ひでお)
 明治35年、東京生まれ。東京帝大仏文科を卒業し、昭和4年に評論「様々なる意匠」でデビュー。
 以後、文学のみならず美術、音楽など多方面にわたる評論活動を行い、評論自体を文学作品として自立させたことで「近代批評の確立者」と評される。58年死去。
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 ・・・ボクが小林秀雄の評論を読んだのはオフクロが小学生の頃に買ってくれた子供向けの「美術(?)」と言う本の中に記されていた「七の侍」の「映画製作」の「隨筆(随筆)風の評論」だった・・・