1516日目・・・「イラン」が濃縮「ウラン」を「希釈(キシャク)」・・・?・・・溶液の濃度を溶媒を加えて薄めること・・・「廃仏毀釈(キシャク)」は明治維新後に成立した新政府が慶応四年三月十三日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治策(ウィキペデア)・・・「希釈(キシャク)」と「毀釈」ですか・・・「キ+釈」・・・「希(もとめる・のぞむ・ねがう)」と「毀(こわす・こぼつ・そしる)」の「釈(とく・とける)=釆+睪」ですか・・・

 ブログ字典などによれば、
 「釈」の旧字体は「釋」
 「解説する、解き明かす、ばらばらに解きほぐす、捨てる、散らす、消える、水に溶く、解き放つ、嫌疑が晴れる、脱ぐ、廃する、許す」
 という意味
 釈迦や仏教に関する言葉に使用
 「釈」は「解くなり(説文解字・巻二)」
 「釆に從ふ。釆取は其れ物を分別するなり。睪聲」
 と「睪声の形声(字形・説文解字)」
 「釆+睪の会意」で、
 「動物の死骸(睪)を解体する(釆)する字」
 とする説・・・「睪→尺」が「死骸」・・・「睪=罒(網・モウ)+幸」・・・「睾」は「睾丸」の「睾」で・・・「睪」が分解字形から「死骸」とは思えないけれど、「睾」は「ノ+罒+幸」である。「大衆」の漢字もあるから「ノ+罒=血」で、「罒」は「ノ」の無い「皿」で「骸骨・頭蓋骨」で「屍骸」なのカモ・・・最近、男性の「無精子病」が多いらしい・・・既婚女性の悩みだろう・・・「罒(網・モウ)」の「幸」なのか、「四=肆」の「幸」なのか、「罒=横目」の幸なのか、兎に角、「睾」は「血の幸」だろう・・・
 「音読み」は、
 セキ(漢音)、シャク(呉音)、
 「訓読み」は、
 とく、とける、すてる、おく、ゆるす
 「釋」は旧字体
 「醳」は、「史記」などで「釈の意味」で使用
 熟語
 釈疑・釈教・釈義・釈言・釈菜・釈子・釈然・釈尊・釈天・釈典・釈奠・釈放・釈明・釈文・釈門・釈老
 ・・・「うらん」、「いらん」・・・キシャク・・・
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 ウィキペデアによれば・・・
  ↓
 「廃仏毀釈」は
 僧尼など出家者や寺院が受けていた
 特権を廃することを指す。
 「廃仏(ハイブツ)」は
 仏(像)を廃し(破壊)し、
 「毀釈(キシャク)」は、
 釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味
 僧侶などが釈迦を指す時は、
 釈尊(しゃくそん)、
 釈迦尊
 釈迦仏、
 釈迦如来などと呼ぶ
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 キリシタン大名
 廃仏毀釈
 小西行長などキリシタン大名が支配した地域では、キリスト教を信仰するため神社・仏閣などが焼き払われた。(現、山都町愛藤寺城周辺 熊本県指定重要文化財の「木造大日如来座像」は、この時の焼失から免れたもの) 周辺にある小高い山に「天主山」という名を付けて、麓から拝んでいたという。
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 神仏分離令や大教宣布
 神道と仏教の分離が目的
 仏教排斥を意図したものではなかった
 廃仏毀釈運動(廃仏運動)
 神仏習合の廃止、
 仏像の神体としての使用禁止、
 神社から仏教的要素の払拭など
 祭神の決定、
 寺院の廃合、
 僧侶の神職への転向、
 仏像・仏具の破壊、仏事の禁止
 1871年(明治四年)正月五日付
 太政官布告
 寺社領上知令が布告
 境内を除き寺や神社の領地を国が接収
 一向宗が強い
 三河や越前ではこれらの処置に反発する
 一向一揆が見られたが
 明治四年(1871年)頃には終息
 大阪住吉神社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、
 1873年(明治六年)に破壊
 奈良興福寺の食堂は
 1875年(明治八年)に破壊
 出羽三山については、
 1874年(明治七年)以降に廃仏毀釈が始まる
 千葉県の
 鋸山の
 五百羅漢像の全ての仏像が破壊
 伊勢国三重県)では、
 激しい廃仏毀釈があり、
 神宮との関係が深かった
 慶光院など100ヶ所以上が廃寺
 国宝の
 興福寺五重塔は、
 明治の廃仏毀釈の法難に遭い、
 25円で売りに出され、薪にされようとしていた
 内山永久寺は破壊しつくされた
 安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、
 「耳なし芳一」の舞台としても知られる
 阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る
 廃仏毀釈
 徹底された
 薩摩藩では、
 寺院1616寺が廃され、
 還俗した僧侶は
 2966人にのぼった。
 そのうちの3分の1は軍属となったため、
 寺領から没収された財産や人員が強兵に回された
 美濃国岐阜県)の
 苗木藩では、
 領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊
 藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、
 現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆ど
 尾張国(愛知県)では
 津島神社の神宮寺であった
 宝寿院が、仏教に関わる物品を
 神社から買い取ることで存続
 地域差
 国学の普及の度合いの差による
 平田篤胤派の国学や水戸学による
 神仏習合への不純視が、仏教の排斥
 国家神道の発端ともなった
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 平等寺
 聖徳太子の開基
 慶円の中興
 「平等寺」以前の
 大三輪寺遍照院の存在から
 空海開基説の存在も述べている(大三輪町史)
 平等寺が前述資料に明確に現れてくるのは
 鎌倉時代以降であり、
 初見は
 「弥勒如来感応抄草」の1236年(嘉禎二年)
 慶円によって、
 三輪神社の傍らに
 真言灌頂の道場が建立され、
 その道場が「三輪別所」であった
 当時、
 「平等寺」が存在して
 「三輪別所」と呼称された
 最古の例
 鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、
 三輪明神別当寺の地位にたっていた
 興福寺平等寺に御用銭を課しており
 興福寺の末寺でもあった
 醍醐寺との関係も保持
 江戸時代
 興福寺の支配を離れ、
 真言宗の寺院となりつつも、修験道も伝えていた
 1868年(明治元年
 神仏分離太政官布告
 1870年(明治三年)には、
 平等寺は三輪神社の神官が管理
 堂舎は破壊され、
 平等寺は廃止
 主たる仏像は
 翠松寺に移された
 1977年(昭和五十二)
 曹洞宗の寺院、
 「三輪山平等寺」として再興
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 ・・・???・・・いらん、うらん・・・