1480日目・・・「現行の憲法解釈の基本的考え方は今回の閣議決定においても何ら変わることはあり得ない。海外派兵は、一般に許されないという従来の原則も全く変わらない」、「武力行使が許されるのは、自衛のための最小限度でなければならない。このような従来の憲法解釈の基本的考え方は何ら変わらない」・・・

 「許されない」、「最小限度でなければならない」・・・「生死を懸ける武力行使(戦争)」で「最小限度」などとはありえない。「限度」とは「相手の武力行使」に対応するモノである。「最大」も「最小」も相手次第である。「最小限度」とは相手が「武装解除」した場合のみだが、更衣兵、捕虜にしても抵抗する奴はいるだろう・・・「従来の(日本国)憲法解釈の基本的考え方は何ら変わらない」ないならば、「集団的自衛権閣議決定」はいらんだろう・・・
 相手の次第だが、「大陸中国共産党(?)政府」、大陸中国の「憲法」はダレのタメにあるんだか、「人民憲法」あっても「憲法で人民」を護らない・・・そもそも「人民」とはダレのコトなのか・・・
 ETVの「高校世界史」・・・「パンとサーカス(サーキット)」を提供し続けた「ローマ皇帝」、そして「ローマ法大全(Corpus Iuris Civilis)」を編集させた「ローマ皇帝」、その「法律」は「ローマ市民」を護ったのか・・・?
 歴史的に「男性社会(人間階級社会)」を護ってきた、そして護っているのは、どうやら「財産と権力」を握った「オンナ」達らしい・・・この「オンナ達の意識」は「オンナ一般の解放」を望んではいないのだ・・・?・・・「アマゾネス」は「階級社会」である・・・
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 テオドラ(Theodra)
 500年頃?〜548年6月28日
 東ローマ帝国
 皇帝ユスティニアヌス1世
 (在位527年〜565年)の皇后
 貧しい踊り子から皇后になった
 テオドラ
 サーカスの熊使いの娘
 東ローマ帝国
 首都
 コンスタンティノポリスで誕生
 結婚して官僚である夫とともに
 リビアへ赴任
 その地で離縁され、
 踊り子稼業をしながら
 アレクサンドリアなどを経由して
 コンスタンティノポリスへ戻り、
 そこで
 皇帝ユスティヌス1世の
 甥の
 ユスティニアヌスと出会い
 535年に
 テオドラと
 ユスティニアヌスは結婚
 本来、踊り子と元老院議員の結婚は
 法律で禁止されており、
 皇帝の後継者と
 踊り子との結婚には
 ユスティヌス1世の
 皇后エウフェミアや
 貴族が反対したが、
 ユスティニアヌス
 叔父
 ユスティヌス帝を動かして
 法律を改正させ、
 結婚した
 527年
 ユスティニアヌス
 叔父の跡を次いで皇帝に即位
 テオドラは皇后となった
 532年
 「ニカの乱」
 テオドラの対応(プロコピオスの『戦史』)
 反乱にうろたえて港に船を用意して
 逃亡しようとする
 ユスティニアヌスを制して
 テオドラは、
 ↓
 「もし今陛下が命を助かることをお望みなら、陛下よ、何の困難もありません。私達はお金を持っていますし、目の前には海があり、船もあります。しかしながらお考え下さい。そこまでして生き延びたところで、果たして死ぬよりかは良かったといえるものなのでしょうか。私は『帝衣は最高の死装束である』という古の言葉が正しいと思います」
 と話し
 ユスティニアヌス
 将軍ベリサリウスに命じて反乱を
 武力鎮圧
 聖ソフィア教会はこの
 「ニカの乱」で焼失したが、
 ユスティニアヌス
 反乱終結39日後にその復旧に着手した
 テオドラは
 ユスティニアヌスより
 17年はやく死去
  ↓
 ユスティニアヌス1世
 (Justinianus I・Iustinianus I)
 483年〜565年11月13日、14日?
 東ローマ帝国
 ユスティニアヌス王朝の
 第2代皇帝(在位527年〜565年)
 ユスティニアヌス1世=ペトルス・サッバティウス
 ダルダニア州
 タウレシウム(マケドニア共和国スコピエ近傍)
 で
 農民
 サッバティウスの子として誕生
 ラテン語を話す家族
 トラキア系ローマ人
 または
 イリュリア系ローマ人・・・
 叔父の
 「ユスティヌス1世」の養子となった
 母の
 ウィギランティアは
 「ユスティヌス1世」の姉
 ・・・同じような名前で混乱する・・・
 「ユスティヌス1世(叔父)」
   ↓↑養子
 「ユスティニアヌス1世(甥)
 (ペトルス・サッバティウス)」
  ↓
 532年
 「ニカの乱」
 東ローマ帝国
 首都コンスタンティノープルで起きた、
 皇帝ユスティニアヌス1世に対する反乱
 「ニカ」とは
 ギリシャ語で
 「勝利」を意味する言葉で、
 反乱を起こした市民の掛け声
 古代ローマの帝政期からの
 権力者から無償で与えられる
 「パン(=食糧)」と
 「サーカス(=娯楽)」によって、
 ローマ市民を「政治的盲目」にした・・・
 「パンと見世物」、
 「パンとサーカス(サーキット)」の
 ガス抜き、人気取り政治・・・
 「パンとサーカス」は、
 ビザンティン時代になっても継続
  ↓
 チャリオットを使った
 戦車レース(サーキットでのレース)
 競技者を応援する集団を形成
 構成員はそれぞれの党派を表す 
 「青・赤・緑・白」の色を身に着けていた
 この競技で
 ビザンティン時代
 影響力を持っていた党派は、
 元老院階級や
 有力貴族を支持母体とし、
 皇帝ユスティニアヌス1世
 自身の応援者は「青」
 自由市民が支持する「緑」
 社会的に
 位置する階級や
 地域によってまとまっていた
 党派は、
 政治党派や私兵団という側面ももっており、
 戦車レースの間に
 政治的な要求を連呼することで
 皇帝の政策を左右しようとした
 ユスティニアヌスの治世
 重税による不満から
 戦車レースの終了後に暴動が発生
 首都の
 正規軍と
 近衛兵だけでは秩序を保つことができず、
 鎮圧には
 党派の協力を必要とした
  ↓↑
 一部の有力貴族は帝位の簒奪の謀略
 長期の戦役、大規模な建築事業は、
 貴族にも重税を強いた
 531年
 「青」と「緑」の構成員が、
 レース後の暴動の最中に行った殺人で逮捕
 彼らは絞首刑されたが、
 532年1月10日
 「青」の1人と「緑」の1人が監獄から脱走
 彼らに味方する
 群集が占拠した教会の聖域に逃げ込んだ
 事を荒立てたくなかった
 ユスティニアヌス
 死刑を懲役刑に減刑
 (「青」と「緑」は完全な赦免を要求していた)、
 1月13日
 戦車レースを開催の宣言
 ↓
 レース開始後から
 群集が終始ユスティニアヌス
 罵詈雑言を浴びせかけ、不穏な状況なり
 最終
 22レース目
 「青」や「緑」という連呼が
 一つの
 「ニカ(勝利または征服)」という連呼に変わり、
 群集は暴徒と化して宮殿を襲撃
 皇帝の政策に反対であった一部の
 元老院議員は皇帝打倒の好機ととらえ暴徒と結託
 徴税権を持つ
 クァエストル(財務長官)であった
 カッパドキア
 ヨハネ
 と
 法務長官
 トリボニアヌスの更迭を要求
 さらに
 アナスタシウス1世の甥の
 ヒパティウスを新皇帝として擁立した・・・
 暴動の発生から続く5日間後
 ユスティニアヌス
 退位し帝都から脱出しようとしたが
 妻の
 テオドラの
 「帝衣は最高の死装束である」
 という言葉で説得され、
 1月18日
 皇帝は
 ベリサリウス
 と
 ムンダス
 の2人の将軍に反乱の鎮圧命令
 ベリサリウスは
 3000名程の兵士で
 暴徒を競技場に追いみ
 3万余人を殺害、反乱鎮圧
 ローマ皇帝
 専制君主化が一層進められ、
 元老院議員でも
 皇帝に平伏するよう
 宮廷儀礼が改められた・・・
 ・・・アベちゃん、似ているよなッ・・・
 ↓
 「ローマ法大全」
 ユスティニアヌスは、
 「ローマ法大全(Corpus Iuris Civilis)」を
 財務官
 トリボニアヌスを主査に任じ、編纂させた
 2世紀以降の
 帝国諸法を成文化した勅法彙纂の
 最初の草案は
 529年5月7日に
 発布
 最終版は
 534年に発布
 533年
 過去の法学説を編纂した
 「学説彙纂」が出され、
 主要な法律を解説した教科書である
 「法学提要」、
 新法を編纂した
 「新勅法」が
 「ローマ法大全」を補足
 他の大全とは対照的に、
 「新勅法」は
 東ローマ帝国内の
 一般語である
 ギリシア語で書かれている・・・
 12世紀に西ヨーロッパへ伝わり、
 多くの
 ヨーロッパ諸国の法典の基礎となった
 これはドイツ、東ヨーロッパにも伝わり
 日本の「六法全書」にも影響した・・・
 ・・・「明治憲法」・・・伊藤博文・・・
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 ・・・
 崇源院
 天正元年
 1573
  〜
 寛永三年九月十五日
 1626年11月3日
 江(ごう)・小督(おごう)・江与(えよ)
 位階は従一位
 浅井長政
 三女
 母は
 織田信秀の娘
 市(織田信長の妹)
 浅井三姉妹の一人
 長姉の淀殿(茶々)
 次姉・常高院(初)の京極高次正室
 最初の婚姻相手は
 佐治一成
 秀吉によって離縁させられ
 2度目の婚姻相手は
 秀吉の
 甥の
 豊臣秀勝・・・朝鮮出兵文禄の役)に従軍し、
 ↓      在陣中の
        同年九月に朝鮮国の
 ↓      巨済島において病死
 娘の
 完子が生まれたが死別
 3度目の婚姻相手は
 江戸幕府
 第二代将軍
 徳川秀忠
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