1476日目・・・イヤァ〜、壮絶でスゴイッ・・・サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会は29日、決勝トーナメント1回戦、2試合・・・オランダ(阿蘭陀)VSメキシコ(墨西哥)に「2—1」で逆転勝ち・・・コスタリカ(哥斯達利加)VSギリシャ(希臘)と「1—1」の後、延長、PK戦でコスタリカ(哥斯達利加)が「5—3」で制し、初の8強入り・・・優勝の達成結果・・・

 それにしても、「サッカー」はダレのモノなんだろう・・・ローマ帝国の剣闘士・・・ブラジル・ワールドカップの賞金総額が5億7600万ドル(約5886億4000万円)・・・優勝国には3500万ドル(約35億6000万円)、準優勝国には2500万ドル(約25億5000万円)が支払われる。3位には2200万ドル(約22億4000万円)、4位には2000万ドル(約20億4000万円)・・・敗退しても800万ドル(約8億1000万円)・・・賞金とは別に、同大会に出場する32カ国には準備金として150万ドル(約1億5000万円)が支給・・・地球的世界拝金帝国歓喜コロッセオ円形闘技場)と電波に乗るTV画面の前・・・貧困な人々の息抜きの「興行」でもないようだ・・・スパルタクスは泣いているかも・・・
ーー
 以下は「コスタリカ」の紹介記事
  ↓
 Republic of Costa Rica
 コスタリカ共和国
 1983年に
 永世非武装中立宣言を行ったが、
 非常時に軍隊を組織することは
 憲法で認めていること、
 米州相互援助条約(リオ条約)という
 集団安全保障体制があることと、
 「公安警察」が実質的に
 国防を担っており、
 ドミニカ内戦終了後に
 米州相互援助条約の下で
 警備隊を派遣しているなど、
 単なる
 政治的宣言でしかないと捉えられている。
  ↓↑
 ・・・だから、ドウだってんだ・・・「政治的宣言」であったとしても「反戦憲法」である・・・
 サッカーだけじゃなく、「コスタリカ」には「平和憲法」で世界にカッテほしい・・・
  ↓↑
 以下はスベテ「ウイッキペデア」の原文を参照、参考にしたモノ・・・
ーーーーー
 中米
 コスタリカ共和国(哥斯達利加)
 中央アメリカ南部に位置する共和制国家
 北にニカラグア
 南東にパナマと国境を隣接
 南は太平洋
 北はカリブ海に面している
 首都はサン・ホセ
 ↓
 1949年
 常備軍を廃止する憲法が成立
 憲法第12条
 常設的機関としての軍隊は禁止
 コスタリカ共和国憲法第12条
 同じに
 憲法によって
 非常時徴兵を規定
 「大陸間協定により、
  もしくは国防のためにのみ、
  軍隊を組織することができる」
 集団的自衛権の行使や
 自衛権の行使などの
 非常時には
 軍隊を組織し
 徴兵制を敷くことを認めている
ーー↓↑
 1953年
 大統領選挙
 フィゲーレスの国民解放党(PLN)が勝利
 フィゲーレス政権は
 「兵士の数だけ教師を」を合言葉に、
 軍事予算を教育予算に回し教育国家に転換
ーー↓↑
 1983年
 ルイス・アルベルト・モンへ大統領が
 「コスタリカ
  永世的、
  積極的、
  非武装的中立に関する
  大統領宣言」
 中央アメリカでは政治的に安定
 経済状態も良好な国家であった
 だが、
 1990年代以降
 麻薬の横行で
 治安の悪化と社会の不安定化
ーー↓↑
 2002年
 アペル・パチェーコが大統領に就任
 大統領は、
 アフガニスタン攻撃に続いて
 2003年3月の
 イラク戦争開始時に
 米ブッシュ政権を支持する声明に署名
  ↓↑
 常備軍を廃止したコスタリカ
 平和憲法の精神や国際法に違反していると、
 当時コスタリカ大学の学生が
 最高裁憲法法廷に提訴
 2004年12月
 最高裁が大統領声明を無効とし、
 支援国のリストから外れるように命じた
 しかし
 政府は支援を停止することはしなかった
 カルデロンとロドリゲスの二人の
 元大統領が汚職で逮捕
ーー↓↑
 2006年
 アリアス大統領が大統領
ーー↓↑
 2010年2月7日
 大統領選挙で
 国民解放党(PLN)の
 ラウラ・チンチージャ前副大統領が当選
 女性大統領となった
ーー↓↑
 コスタリカ共和国
 大統領を元首とする共和制国家
 行政権は大統領に属す
 大統領の任期4年
 再選は禁止
 (8年以上の期間後、再選可能)
 立法権一院制の議会
 任期は4年
 国会議員も
 連続再選禁止
 投票権は18歳から
 大統領選挙は
 得票率が40%以下の場合は
 決選投票
 司法権最高裁判所
 現行憲法
 1949年憲法
ーーーーー
 「本能寺の変」後の日本と国際情勢・・・
  ↓
 1596年10月
 サン=フェリペ号事件
 日本の土佐国
 スペインのガレオン船
 サン=フェリペ号漂着
 豊臣秀吉
 キリスト教徒への迫害
 「日本二十六聖人殉教」
 1597年2月5日
 慶長元年十二月十九日
 豊臣秀吉の命令によって
 長崎で磔の刑に処された
 26人のカトリック信者
  ↓
 切っ掛け・・・
ーー↓↑
 サン=フェリペ号事件の史料
 「長宗我部元親記(1632年)」
 「土佐物語」
 「甫庵太閤記
 「天正事録」
 など・・・
ーー↓↑
 サン=フェリペ号事件
 スペイン側の資料
 サン=フェリペ号船長
 マティアス・デ・ランデーチョの
 航海日誌は日本で没収されたため現存しない
 後、
 ランデーチョが
 「サン=フェリペ号遭難報告書」を記録
 「フィリピン総督府記録」
 「宣教師による記録」
 など存在
ーー↓↑
 1587年
 豊臣秀吉
 バテレン追放令を発布
 限定的で禁止されたのは布教活動
 キリスト教の信仰は禁止されなかった
ーー↓↑
 1596年(文禄五年)7月
 フィリピンのマニラを出航した
 スペインのガレオン船
 サン=フェリペ号が
 メキシコを目指して太平洋横断に出帆
 船長は
 マティアス・デ・ランデーチョ
 船員以外に当時の航海の通例として
 七名の司祭
 フランシスコ会
 フェリペ・デ・ヘスース
 ファン・ポーブレ
 四名のアウグスティノ会員
 一名のドミニコ会
 が乗船
 サン=フェリペ号は
 東シナ海で台風に襲われ、
 10月19日(文禄五年九月二十八日)
 四国土佐沖に漂着
 長宗我部元親の指示で
 船は浦戸湾内へ曳航
 湾内の砂州座礁
 船員たちは
 長浜(高知市長浜)の町に宿泊
 船の修繕許可と身柄の保全を求め
 秀吉の元に
 使者の
 ファン・ポーブレなどを差し向け、
 船長、ランデーチョは長浜に待機
 使者は秀吉に会うことを許されず、
 奉行の1人
 増田長盛が浦戸に派遣された
 船員たちは町内に幽閉
 増田らは
 「スペイン人たちは海賊であり、
  ペルー、
  メキシコ(ノビスパニア)、
  フィリピンを武力制圧したように
  日本でもそれを行うため、
  測量に来たに違いない。
  このことは都にいる
  3名の
  ポルトガル人ほか数名に聞いた」
 という秀吉の書状を告げた
 増田らの一行は
 積荷と船員の所持品をすべて没収し、
 航海日誌などの書類をすべて取り上げ
 破棄
 ランデーチョは
 都で秀吉に直接抗議しようと決めて
 12月
 都では交渉の仲介を頼もうとしたが
 フランシスコ会など
 スペイン系の宣教師たちが捕らえられていた
ーー↓↑
 秀吉は12月8日に再び禁教令公布
 イエズス会の後に来日した
 フランシスコ会の宣教活動が
 禁教令に対して挑発的
 京都奉行の
 石田三成に命じて、
 京都に住む
 フランシスコ会員と
 キリスト教徒全員を捕縛して
 磔の刑に処するよう命じた
 「アルカンタラ派」
 フランシスコ会
 7名と信徒14名
 イエズス会関係者
 3名の合計24名が捕縛
 24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で
 秀吉の命令で耳と鼻を削げ、とされ
 左の耳たぶを切り落とされ引き回され
 1597年1月10日
 長崎で処刑せよという命令
 大坂を出発、歩いて長崎へ向かう
 道中で
 イエズス会員の世話を依頼され付き添っていた
 ペトロ助四郎と
 フランシスコ会員の世話をしていた
 伊勢の大工
 フランシスコも捕縛された
 長崎の西坂の丘の上で処刑決定
 2月5日
 4000人超の群衆が西坂の丘に集まり
 槍で両脇を刺し貫かれて絶命
 午前10時頃・・・
ーー
 後、
 サン=フェリペ号の修繕が許され、
 1597年4月に浦戸を出航
 5月にマニラに到着
 9月
 スペイン使節としてマニラから
 ドン・ルイス・ナバレテらが
 秀吉の元へ送られ、
 サン=フェリペ号の積荷の返還と
 二十六聖人殉教での
 宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、
 果たせなかった
 宣教師ルイス・フロイスもこの
 「漂着した船舶は、
  その土地の領主の所有に帰するという
  古来の習慣が日本にあったため」
 積荷が没収されたと記録
 時代の海事法(廻船式目)
 廻船式目とは
 鎌倉時代
 海上の慣習を文章化した上で
 鎌倉幕府の裁可を得たもので、
 後に
 長宗我部元親がこれを発見し、
 豊臣秀吉
 「海路諸法度(1592年)の元になった
 廻船式目
 第一条で難破船の積荷の扱い
 難破船に
 生存者がいない場合は
 その資産を漂着地の
 神社仏閣の造営費にあててもかまわない
 「海路諸法度」
 漂着船がでて積荷を入手したものは
 船主から請求があったら
 ただちに積荷を返さなければならないと記録
 サン=フェリペ号の場合、
 廻船式目でも海路諸法度でも
 積荷の権利は
 スペイン人船員たちに保障されている
  ↓
 二十六聖人殉教
 「積荷を没収された腹いせに、
  スペイン人船員
 (航海長デ・オランディアの言葉?) 
  が、
  『スペインは領土征服の
   第一歩として
   宣教師を送り込む』といったことが
  秀吉を激怒させ、
  二十六聖人殉教を引き起こした」
 このような「発言」は
 1598年に
 長崎でイエズス会員たちが行った
 「サン=フェリペ号事件」の顛末
 および
 「二十六聖人殉教」の
 原因調査のための査問会で、
 「証人の言葉」として
 出たとされるもので、
 日本側の記録には
 一切残されておらず、
 その真偽は定かではない・・・?
 当時の海上慣習にも
 生存者のある難破船の積荷を
 勝手に没収できる慣習はない
 スペイン側がその「理由」を
 「秀吉が
  スペインに武力侵攻の意図あり」
 と考えていた
 二十六聖人殉教は
 サン=フェリペ号事件が
 直接的に引き起こしたというものではなく、
 都周辺での活動を自粛していた
 イエズス会に対して、
 新進の
 スペイン系修道会
 フランシスコ会
 アウグスティノ会が活発に活動をし
 秀吉は
 明国の冊封使の対応に忙殺され
 呂宋国(フィリピン)との
 外交関係にビジョンがなかった・・・
ーーーーー
 バテレン追放令(伴天連追放令
 天正十五年六月十九日
 1587年7月24日
 筑前
 箱崎(福岡県福岡市東区)で
 豊臣秀吉が発令した
 キリスト教宣教と
 南蛮貿易に関する
 禁制文書
 バテレン(padre・パァデレ)とは、
 ポルトガル語で「神父」の意味
 「松浦家文書・六月十九日付」の
 「五か条の文書」を指す
 1933年(昭和八年)
 伊勢神宮の神宮文庫から発見された
 「御朱印師職古格・六月十八日」付の
 「11か条の覚書」とも含めることがある・・・
 「11か条の覚書」と
 「五か条の追放令」とには相違点がある・・・
  ↓
 豊臣秀吉
 キリスト教布教を容認
 1586年(天正十四年)3月16日
 大坂城イエズス会宣教師
 ガスパール・コエリョを引見
 5月4日
 イエズス会に布教の許可証を発給
 1587年7月24日
 天正十五年六月十九日
 筑前箱崎
 ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)
 ドミンゴスモンテイロ
 イエズス会日本地区の責任者
 コエリョに対して
 宣教師の
 退去と
 貿易の自由を
 宣告する文書を手渡し
 キリスト教宣教の制限を表明
 ↓
 領民などを集団で信徒にすること
 神社仏閣などの打ちこわしの禁止
 宣教師の20日以内の国外退去
 同時に、
 法令が南蛮貿易を妨げるものでなく、
 布教に関係しない
 外国人商人の渡来に関しては
 なんら規制を設けないことが示された
 強制的にキリスト教への改宗をさせることは
 禁止
 個人が自分の意思で
 キリスト教を信仰することは規制していない
 領地を持つ大名が
 キリスト教信者になるのも認可制で
 禁止ではない
 下層の民については
 信仰の自由を保障する・・・
ーー↓↑
 追放令
 キリスト教が拡大し、反乱を起こすことを恐れた
 神道・仏教への迫害を好まなかった
 ポルトガル人が
 日本人を奴隷として売買していた
 秀吉が
 有馬の女性を連れてくるように命令したが
 女性たちが
 キリシタンであることを理由に拒否した
ーー↓↑
 イエズス会宣教師
 ルイス・フロイス
 秀吉の言い分は
 「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」
 直接的な切っ掛けの事件
 九州征伐に向かった秀吉の目の前で、
 日本イエズス会準管区長
 ガスパルコエリョが、
 スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した
 同時期に
 イエズス会東インド管区巡察師
 日本に来ていた
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
 コエリョの軽率な行動を厳しく非難
 キリスト教の拡大については、
 6月
 18日
 「11か条の覚書・御朱印師職古格」
 では
 キリシタン
 「八宗九宗(第九条)」と規定して
 体制下の宗教と見なしていた
 19日の
 「追放令」では
 キリスト教
 「邪法を授ける」もの
 として規定
ーー
 九州の
 有馬氏や
 大村氏など大名が
 領民を強制的に
 キリスト教に改宗させたり、
 神社仏閣を破壊
 秀吉は
 コエリョ
 「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」
 と質問
 コエリョ
 「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである
 (ルイス・フロイスの日本史 4)」と回答
  ↓↑
 「11か条の覚書」に
 日本人を
 南蛮に売り渡すことを禁止する一文があり、
 「バテレン追放令」には
 そのような文言は無い
  ↓↑
 秀吉の女性問題
 フロイス日本史
 「女を連れていこうとした
  施薬院全宗が怒って、
  秀吉にキリシタンを讒言した」
 の記録であり・・・?
 「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」
 というのは誤り
  ↓↑
 追放令後にイエズス会宣教師たちは
 平戸に集結し、以後公然の布教活動を控えた
 秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、
 長崎の公館と教会堂を接収
 秀吉がキリスト教に対して態度を硬化
 サン=フェリペ号事件以後のこと・・・
  ↓↑
 徳川家康の禁教令は
 1614年(慶長十九年)
  ↓↑
 「バテレン追放令」の原文
 「松浦家文書」
 6月19日付の追放令
 秀吉の側近の主侍医
 施薬院全宗(徳運軒)による原文
 一、日本ハ神國たる処
   きりしたん國より邪法を授候儀
   太以不可然候事
 一、其國郡之者を近付門徒になし
   神社佛閣を打破之由 前代未聞候
   國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。
   天下よりの御法度を相守、
   諸事可得其意処
   下々として猥義曲事事
 一、伴天聯其知恵之法を以心さし次第に
   檀那を持候と被思召候へは
   如右日域之佛法を相破事曲事候条
   伴天聯儀日本之地ニハおかされ間敷候間
   今日より廿日之間に用意仕可帰國候
   其中に下々伴天聯に
   不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ
   曲事たるへき事
 一、黒船之儀ハ
   商買之事候間格別候之条
   年月を經諸事賣買いたすへき事
 一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ
   商人之儀は不及申、
   いつれにてもきりしたん國より
   往還くるしからす候条
   可成其意事
   已上
   天正十五年六月十九日 朱印
   ↓↑
 「きりしたん禁令」
 「施薬院・全宗」という
 秀吉側近の法印という
 最高位の医師によって記録
ーーーーー
 ・・・「哥(歌)斯達利加」・・・
 歌、
 斯(シ・かく)
   話し手が身近なこととして
   事態をとらえていう
   このように・こう
   具体的な内容を省略していう
   このように・こう
   ‎斯くやあらん
   斯くも
   このように・これほどにも
   「斯波(シバ)」氏は織田家の主筋
   「波斯(ハシ)」は「ペルシャ・イラン」
 達(タチ・ダツ・タツ・とおる・とどく)
  達(たち)・複数であることを表す
        友達・俺達・君達
  達人=名人
  達(たっし)
    江戸時代に
    上役人から下役に出された命令
  先達
  配達・未達・至達・示達
  達成
  公達
  伊達(だて・いたて・いたち)
     伊達家→仙台宮城・宇和島愛媛
     暦応二年(1339年)の文書
    「いたてのかもんのすけ為景」
     慶長十八年(1613年)
     支倉常長ローマ教皇に渡した
     伊達政宗の書簡の記録には
    「Idate Masamune
     支倉常長の幼名は
     與市
     初名は
     六右衛門長経
     洗礼名は
     ドン・フィリッポ・フランシスコ
     文禄・慶長の役に従軍
     足軽・鉄砲組頭として
     朝鮮に渡海
 利(リ・とし)
 加(カ・くわえる)
 ・・・慶長十八年(1613年)の「コスタリカ」の情況は・・・ヌエバエスパーニャ副王領・・・中央アメリカ「コスタ・リカ(Costa Rica=Rich Coast=豊かな海岸)」の南国境までの範囲、メキシコ、アメリカ合衆国南西部のほぼ全部(アメリカ合衆国カリフォルニア州ネバダ州、ユタ州コロラド州ワイオミング州アリゾナ州ニューメキシコ州テキサス州のすべてまたは一部を含む)、そしてフロリダ州・・・
 1519年〜1821年
 ヌエバエスパーニャ副王領
 (スペイン語=Virreinato de Nueva España)
 北アメリカ大陸カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領地を指す名称
 江戸時代の日本では、
 「ノビスパン(濃毘数般)」、
 「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」
 などと呼ばれた・・・
 「伊達」とは
 仙台東北から墨西哥(メキシコ)を経由し、西班牙(スペイン)から伊太利亜バチカン・vaticinare=預言)に到達した・・・との「暗示の按字」であるカナ・・・
 「伊都に達した」
 「伊太利亜に達した者」
 ・・・「達」=「幸」+「辶」・・・