1458日目・・・「地震雲」・・・ワカれば「実行・操作・計算」は簡単、ワカッていても時間と判断の確信、自信、技能、技術能力がなければ「実行」は簡単でない・・・「ワカ」のナゾ・・・断層亀裂時の電磁波発生の影響・・・?


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 以下、原文はスベテ、ウイッキペデアからの参考、参照・・・
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 地震雲・・・宏観異常現象の一種・・・
 気象現象として(科学的に)説明可能な雲・・・?
 巻雲、高積雲、層積雲、飛行機雲
 地震雲の形状
 通常の雲と異なる
 通常の雲と同一で発生メカニズムが異なるだけ
 その両方である
 地震雲の特徴
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 低い高度に発生
 風に流されない
 長時間形を変えず消えない
 一般的な例
  ↓
 断層型
 雲と空があるラインを境にくっきりと分かれるような雲
 断層状あるいは層状など
 筋状・帯状
 地面と平行に細長く伸びる雲
 すじ状、帯状、糸状、笏など
 洗濯板状
 洗濯板の凹凸状に細長い雲が平行に多数並ぶ
 肋骨状・波紋状
 波紋のように、同心円状に複数の弧が並ぶ
 魚の骨状
 放射状
 放射線状に広がる筋状・帯状の雲
 弓状
 弧の形、鎌状
 竜巻型・螺旋状
 地面に対して竜巻の漏斗形状
 稲穂型・鞘豆型・レンズ状
 細長く尾を引く、稲穂あるいは彗星のような形状
 短く尾を引くもの
 レンズ状に固まったもの
 色関連
 夕焼けや朝焼けなどのときに、赤、紫、黄色、金色
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 ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス
 (ラテン語=Titus Flavius Vespasianus)
 9年11月17日〜79年6月23日
 ローマ帝国皇帝
 ユリウス・クラウディウス朝断絶後の
 四皇帝内乱の時代(68年6月〜69年12月)
 に終止符を打ち、
 自らの血統に基づく
 フラウィウス朝を創始
 父は
 アシア属州
 徴税請負人フラウィウス・サビヌス、
 母は
 ウェスパシア・ポッラ・騎士階級(エクィテス)身分
 サビニ地方の
 レアテで誕生
 兄は
 ローマ長官の
 ティトゥス・フラウィウス・サビヌス
 弟は
 ウェスパシアヌス
 軍人
 子は
 ローマ皇帝
 ティトゥス
 と
 ドミティアヌス
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 36年よりトラキアに勤務
 37年にクァエストルに当選
 40年にプラエトルに当選
 フラウィア・ドミティアと結婚
 41年
 カリグラが暗殺され
 クラウディウスが帝位に就く
 ゲルマニアに異動
 49年より
 ブリタンニア遠征参加
 52年の暮れに
 執政官(コンスル)に補欠として当選
ーー
 62年に公職復帰
 アフリカ属州へ
 前執政官(プロコンスル)として赴任
 アフリカからローマ帰還
 ネロ帝の随行としてギリシアへ赴任
 66年
 ユダヤ戦争
 ウェスパシアヌスは軍司令官として同地に赴任
 息子ティトゥス
 ユダヤ人の反乱勢力を鎮圧
 68年
 ネロが帝位を追われ自殺
 内乱期
 ガルバ、
 オト、
 アウルス・ウィテッリウス
 と皇帝濫立
 ウェスパシアヌス
 ムキアヌスの支持を受け、
 シリア属州の軍団を支配
 69年
 カイサリアでエジプト属州の軍の支持を得、
 続いてユダヤ属州の支持を得る
 ウィテッリウスは
 ガリア、
 ラインラント(ライン川防衛線)ローマ軍の中で
 軍団を支配下
 ローマ帝国の食糧補給要地の
 エジプトを押さえる
 モエシア、パンノニアドナウ川防衛線)
 の支持を得、
 ウィテッリウスに対抗
 ウェスパシアヌスは部下
 プリムスをイタリアに侵攻させ
 ウィテッリウスの軍を撃破、
 クレモナ制圧し、ローマへ進攻
 ウェスパシアヌスの兄
 サビヌスが殺害される
 70年にローマに入り
 元老院の協力を得て政体を回復
 同時期に息子の
 ティトゥスイェルサレムを陥落させ、内乱は終結
 「ウェスパシアヌスによる平和」を宣言
 ローマ皇帝として帝位に就く
ーー
 初代元首アウグストゥス以来、
 ユリウス・クラウディウス王朝の皇帝たちに
 与えられていた同じ権限を
 ウェスパシアヌスは獲得
 「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」
 を元老院に制定
 従来元老院に(慣習的に)与えられていた
 皇帝弾劾権を否定
 政権交代は原則的に
 皇帝の死によってのみ行われるようになった
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 ネロの命令により、
 66年よりユダヤ戦争を担当
 70年9月
 息子のティトゥスがイエルサレムを陥落
 74年の春
 フラウィウス・シルウァが
 マサダの要塞を陥落
 ユダヤ戦争の終結
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 74年
 有料公衆便所を設置
 「Pecunia non olet(金は臭わない)」は
 金銭に貴賎がないことを示す有名な文句
 現在もヨーロッパの公衆トイレは、
 「ウェスパシアヌス」の名前で呼ばれている
  ↓
 設置した公衆便所は
 用を足した利用者から
 料金を徴収するのではなく、
 集めた尿を有料で販売
 当時、
 羊毛から
 油分を洗い流すために、人間の尿が使われていた
 75年
 コロッセウム(コロッセオ)建設開始
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 ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス
 (Titus Flavius Vespasianus)
 39年12月30日〜81年9月13日
 皇帝在位
 79年〜81年
 フラウィウス朝
 第2代皇帝
 父は
 ウェスパシアヌス皇帝
 母は
 フラウィア・ドミティラ
 弟は
 ドミティアヌス
 39年
 ローマで誕生
 61年〜63年
 トリブヌス・ミリトゥムに就任
 父ウェスパシアヌスとともに
 ブリタンニアへ赴任
 64年
 ローマに帰還し
 アレキナ・テルトゥラと結婚したが
 死別
 65年
 マルキア・フルニッラと再婚
 妻の生家は帝位後継者、
 ローマ皇帝ネロの
 対抗勢力に属す
 元老院議員ピソによる
 ネロの暗殺疑惑事件 (en:Pisonian conspiracy)が発生
 この事件で妻とは離縁
 67年
 父ウェスパシアヌスユダヤ人の反乱鎮圧のため
 パレスチナに赴任
 クァエストル(財務官)となっていた
 ティトゥスは、同地で軍の一指揮官として勤務
 68年
 ネロが自死
 ガルバがローマ皇帝に就任
 ガルバが殺害され、
 オトが自死
 皇帝即位と西方の情勢が混乱
 ティトゥスはローマ帰還の途中で
 父の下へ引き返し、ユダヤ戦争の鎮圧に専念
 一年に
 皇帝が
 四人も代わる「四皇帝の年」に
 ティトゥス
 シリア総督
 ムキアヌスと共同して
 父
 ウェスパシアヌスを支えた
 69年
 父ウェスパシアヌスがローマへ皇帝宣言のため赴くと、
 エルサレム攻略の司令官
 70年
 エルサレムを占領
 73年まで抵抗を続けたマサダの要塞を除き
 ユダヤ人の反乱を平定する(ユダヤ戦争)
 ユダヤ王家の一族に連なる
 ベレニケと恋愛
 ローマに帰還して凱旋式
 後、
 父ウェスパシアヌスと共同統治
 親衛隊長官
 及び
 執政官職を数回務めた
 ↓
 79年
 ティトゥス
 執政官七年目に、
 死亡した父の後を継いで
 ローマ皇帝に就任し
 政情不安要因の
 ユダヤ人の恋人
 ベレニケを妻としなかった
 剣闘士試合を頻繁に開催
 先帝ウェスパシアヌス批判の喜劇が上演されても
 一切咎めなかった
 元老院との関係で、
 反逆罪の罪状を使わないと宣言
  ↓
 在位中に
 ヴェスヴィオ火山が噴火
 ポンペイが壊滅し
 ローマが
 3日間延焼、大火災が発生
 81年
 熱病で死亡
 治世2年間
 スエトニウスの記録によれば
 死因は
 マラリア、あるいは
 弟の
 ドミティアヌスによって毒殺されたと・・・
  ↓
 年表
 61〜63年
 ゲルマニアブリタンニアで軍団司令官
 67〜70年
 第15軍団アポリナリスの司令官
 ユダヤ戦争参加
 同戦争について最高指揮官
 70年9月
 エルサレム攻略
 71年6月
 ローマ帰還
 79年6月24日
 皇帝即位
 79年8月24日
 ヴェスヴィオス山噴火
 ポンペイヘルクラネウム埋没
 80年
 ローマ大火
 80年6月
 コロセウムの奉献式挙行
 81年9月13日
 サビニ丘陵へ向う途中、死亡(42歳)
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 ユリウス・クラウディウス
 アウグストゥス(前27〜後14年)
 ティベリウス1世(14〜37年)
 カリグラ(37〜41年)
 クラウディウス(41〜54年)
 ネロ(54〜68年)
 ↓
 四皇帝の年
 ガルバ(68〜69年)
 オト(68年)
 ウィテリウス(69年)
  ↓
 フラウィウス朝
 ウェスパシアヌス(69〜79年)
 ティトゥス(79〜81年)
 ドミティアヌス(81〜96年)
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 コンスタンティヌス朝
 コンスタンティヌス1世(306〜337)
 コンスタンティヌス2世(共同皇帝・337〜340年)
 コンスタンティウス2世(337〜361年)
 コンスタンス1世(共同皇帝・337〜350年)
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