1418日目・・・「天の川」・・・夕陽がニシのヤマに隠れていった夜は寒い・・・「ササイ」・・・「慙愧の念」・・・直接には観る事ができなかった・・・直接観察している「天の川」は、ボクには「女媧(ジョカ・Nüwa)」に観えるのだが・・・以前にも書き込んだが・・・「聞一多」って云う「中国人」がいたらしい・・・「聞・一・多」・・・フザケタ名前の人物だが、元々の本名も「家驊(馬+華)」でフザケタ名前だ・・・だが、鋭い視点を有する人物だった・・・1946年、暗殺された・・・

 ・・・以下のベースはウイッキペデア、及びブログ辞典です・・・
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 「女媧(ジョカ・Nüwa)」・・・この音読み「女媧(Nüwa)」は「ノワ」・・・大洪水の「方船(箱舟)のノワ」?・・・
 「媧=女+咼(ゆがむ・口が歪む・カ・カイ・冎+口)」・・・
 「冎」=「骨、削る」、「骨から肉を削る、そぐ・骨と肉とを分離する・解く」、
 「甲骨文、金文」では「骨(コツ)・腕(ワン)の骨の象形」・・・
 「咼(ゆがむ・カ・カイ」で「口が歪む」であるならば・・・「口の歪んだ形」であろう。どんな「形」なのか、「蝸牛(かたつむり・カギュウ・まいまい)」は「蝸=虫+咼」であるならば、「咼」は「渦巻きの形」である。そして「渦の形」は「鳴門海峡」の「うづ」である・・・「ウヅのメ」は「口の窄(すぼ)めた形」である・・・
 「女媧」は、古代中国神話の「土と縄で人類を創造」した女神である。そして「笙簧」の発明者で、雅楽では翼のような形の2層構造で、17本のうち15本の竹管の下部に付けられた金属製の「簧(した・コウ・オウ=リード)」を息で吹いたり、吸ったりして振動させて音を出す管楽器である。ツバサと言うよりも動物の二本の角のような形にも見える。そして「縄」の発明者である。
 「葛天」氏も「縄」の発明者とされ、「女媧」の兄であり、夫とされる「伏羲」の号との説と、「三皇の一人」とする説がある。
 「女媧」も「伏羲」も姿は「蛇身人首」で描かれ、姓は「鳳」。
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 「楚辞・天問」
 「女媧」以前に人間は存在せず、人間を作った創造神
 「風俗通(後漢)」
 「黄土」を捏ねて人間の貴人を創り
 数を増やすため
 「縄」で泥を跳ね上げ、その飛沫から平凡な人間となった
 「淮南子・説林訓」
 七十回蘇生し、農業神
 「淮南子・覧冥訓」
 古代、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂け、
 天が上空からズレてしまい、地も不安定になり
 火災や洪水が頻繁に起こり
 猛獣が人間を襲い食い人間は破滅的になった
 女媧は、
 「五色の石で天を補修」し、
 「大亀の足で四柱に代え、
  黒竜の体で土地を修復し、
  芦草の灰で洪水を抑えた」
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 これは
 「女媧」は
 中国少数民族
 「苗族」の神で、
 敵対する
 「羌族」の
 「水神」の
 「共工」との戦乱のハナシらしい・・・
ーー
 鳥取県
 国府
 の
 今木神社・・・今木(いまき)は渡来帰化
 石に線刻され、
 描かれたモノがあるらしい
 絵は胴が長い人間が描かれているらしい
 「鳥・虎」と読める漢字も
 「淮南子」では、
 「鳥」は無道・殺りくの神
 「虎」は兵戦の神
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 伏羲(フッキ・フクギ・FuHsi・FuXi」
 紀元前3350年〜紀元前3040年
 古代中国神話に登場する神、帝王
 別名
 「宓羲・包犠・庖犠・伏戯」
 「伏義・伏儀」とも表記
 「三皇」の一人
 姓は
 「鳳(凤)」姓
 蛇身人首の姿
 「伏羲」の号には、
 「縄」の発明者
 「葛天」氏も含まれる
 中華民族人文の始祖・・・とされているらしい・・・
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 「易経・繋辞下伝」
 「八卦」を画き・・・・・・占い六十四卦
 「結縄」の政に代え、・・・キープ
 「蜘蛛の巣」に倣って
 「鳥網・魚網」を発明・・・あみ=罒・羅・編
 魚釣りを教えた・・・・・・まな=眞名仮名=漢字
 房総半島の・・・・・・・・千葉
 九十九里浜に、・・・・・・九十九=つくも
 有結網として
 十種類の結び方や
 その連ね方の
 伝承が遺る・・・キープ=結縄(ケツジョウ)→インカ
 黄帝の史官
 蒼頡の漢字以前の文字の発明・・・漢字=鶏の足跡
 「白虎通義・班個」・・・・・・・班個=後漢書
 家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り
 鉄製を含む武器の製造を開発し、
 婚姻の制度を定めた・・・
 とある。
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 洪水神話
  ↓
 「聞一多」が・・・・「聞一多」ってダレ?
   ↓   1899年11月24日
       清光緒二十五年十月二十二日
         〜
       1946年(民国三十五年)7月15日
       中国の詩人・古典論家
       名は
       家驊・・・カカ?驊(あかげ・カ)
       亦多・・・ヤクタ?亦(また・エキ・ヤク)
       字は友三
       号は友山
       後に清華大学に入学
       1922年
       アメリカ留学
       1946年
       昆明で国民党の
   ↓   特務機関によって暗殺
 雲南省を中心に
 採集した説話・・・
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 伏羲と女媧
 父が閉じ込めていた
 「雷公」を解放し、
 彼等の父と戦った時、
 「雷公」が洪水を起こして攻めたため
 伏羲と女媧の兄妹の
 二人を残して人類が滅亡
 兄妹は「雷公」からもらった種を植えて、
 生った
 巨大な瓢箪の中に
 避難し、結婚した
 「聞一多」は、
 「伏羲」が「庖羲」とも書かれているに注目し、
 「伏羲」とは
 「方舟」を指しており、
 「女媧」がこれに乗って
 洪水の難を逃れたのではと推論・・・?
 ・・・同類の人間はいるもんだな・・・
ーー↓↑
 フギ
 愛新覚羅(あいしんかくら)
 溥儀(ふぎ)
 満洲語発音は
 「アイシンギョロ」
 1906年2月7日
  〜
 1967年10月17日
 清朝
 第十二代皇帝
 (在位は
  1908年12月2日
   〜
  1912年2月12日)
 後、
 満洲国皇帝
 (在位は
  1934年3月1日
   〜
  1945年8月18日)
 1964年〜
 中華人民共和国
 中国人民政治協商会議全国委員
 字は
 「浩然」、「耀之」
 廟号は
 憲宗(1967年非公式)
 恭宗(2004年非公式)
 辛亥革命後の呼称
 廃帝と国民党政府から呼ばれ
 遜帝(遜=ゆずる)とも
 末代皇帝(末帝)と呼ばれる
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 年表
 1906年
 醇親王載灃の子として北京に生まれる
 1908年
 第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
 1912年
 辛亥革命により退位
 1917年
 張勲復辟により清朝皇帝に復位
 10日あまりで再び退位
 1919年
 イギリス人のレジナルド・ジョンストンを
 帝師として招聘
 1922年
 正妻の婉容、側室の文繍と結婚
 1924年
 クーデターにより紫禁城から退去
 ジョンストンが帝師を退任
 1925年
 イギリスやオランダ公使館へ
 庇護を要請するが拒否され、
 天津日本租界内張園に移転
 1931年
 文繍と離婚
 満洲事変勃発後、
 大日本帝国陸軍からの
 満洲国元首への就任要請を受諾
 日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
 1932年
 満洲国の建国に伴い
 満洲国執政に就任
 1934年
 満洲国皇帝(康徳帝)に即位
 1935年
 初の外国訪問として日本を公式訪問
 1937年
 譚玉齢を側室とする
 1940年
 日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
 1942年
 側室の譚玉齢が死去
 1943年
 李玉琴を側室とする
 1945年
 満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、
 その後日本への亡命途中に、
 侵略してきたソ連軍の捕虜になる
 1946年
 極東国際軍事裁判
 ソ連の証人として出廷させられる
 正妻の婉容死去
 1950年
 中華人民共和国に身柄を移され
 撫順戦犯管理所に収容される
 1959年
 模範囚として釈放
 その後
 北京植物園を経て
 政協
 第4期
 全国政治
 協商会議
 文史研究委員会専門委員会に勤務
 1962年
 李淑賢と再婚
 1964年
 中国
 共産党
 政治
 協商会議全国委員に選出
 1967年10月17日
 北京で死去
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 ・・・ラストエンペラー・・・

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