1409日目・・・ムカシもイマも・・・美味しい、旨いと感じて、モウ一嘗めの飴玉、モウ一個のチョコレート、モウ一粒のカシュウナッツ、モウ一杯の珈琲、モウ一口の御飯・・・と思える時のモノが最高で、絵でも、音楽でも、文章でも、何でもカンでも、もう一回、もう一度と気持ちが望む時のモノは自分にとっては最高のモノなんだろう・・・二回、三回、四回・・・飽きるし、厭(嫌)になるし、どうでもいくなるけれど、時間が経つと、その初体験のモウ一回の再確認がしたくなる。嫌なことは一回の経験だけで、二度、三度の経験はご免だが、意図
ーー↓ーーウイッキペデアより抜粋添付、少々改作・・・
(倭国側から視た)
新羅の入寇
古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の
流民や帰化人による犯罪
新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等
「新羅の賊」=「新羅寇」
ーー
新羅国内混乱
811年〜935年
新羅の賊が
日本各地を侵入
新羅南部の沿海の流民、海賊
八世紀以来、
頻繁に対馬、北九州を襲った
ーー
平安中期まで日本では
「高麗」といえば
「渤海国(東丹国)」を指した
高麗成立以後、
十一世紀半ばまで
「新羅(の賊)」と称した
「三国史記・新羅本紀」
745年頃〜7500年代後半
新羅で飢饉、疫病が発生
九州北部、日本へ亡命し、
帰化した新羅の民が多数いた
天平宝字三年(753年)九月
天皇は太宰府に、
新羅帰化人に対して、
希望者には帰国の勅令
帰国を希望しなかった
新羅人131人を武蔵国に送還した
新羅下代から後三国時代につながる混乱期
新羅は
慶州を中心とする
王権は地方まで十分に及ばず、
唐とは友好関係だが
日本や渤海などとは断交
日本は、渤海とは友好的
新羅との仲は険悪
「三国史」
新羅建国時より
日本による
新羅への軍事的な侵攻が記述
食料・金銭・一部領土等を日本に割譲
新羅建国の王族は
「昔」氏が「倭人」とされる?・・・ナゼ「昔」
↓
脱解尼師今(ダッカイニシキン)?
↓
ぬぎ・とく・あま・し・いま
脱解尼師今→今師尼解脱←脱解尼師今
解き脱ぐ、尼の師の今
↓
新羅の
第四代の王(在位=57年〜80年)
姓は昔(ソク)、・・・?
名は脱解(タレ)・・・?
吐解尼師今(トカイニシキン)とも記録
↓
吐いて解く、尼の師の今
とかいにしきん
渡海、尼示(邁志・爾志・仁誌)
金(欽・錦・禁・筋・禽=とり)
↓
第二代の
南解次次雄(ナンカイジジユウ)の娘の
阿孝(アヒョ・アコウ)夫人の婿
新羅の
王族三姓(朴・昔・金)の「昔」氏始祖
昔
箱が流れ着いたときに
鵲(カササギ)が側にいたことから
↓ サギ=鷺
鵲の字を略して・・・鵲=昔+鳥→詐欺・詐偽
「昔(ソク)」を姓とし、・・・昔=廿+日
艸(廾+一)
廾=++
昔+鳥=隹=旧鳥
鵲(カササギ)=朝鮮カラス(鴉・雅・烏)
「カサ=加佐・笠・傘」→笠沙の岬(御前・みさき)
木花咲耶姫
木花之佐久夜毘売(古事記)
神阿多都比売
(カムアタツヒメ)
木花開耶姫(日本書記)
鹿葦津姫
葦津姫
(カヤツヒメ)
「瓊瓊杵尊=邇邇芸命」の妻
箱を開いて生まれ出てきたことから
「脱解」を名とした?
ダッカイ=奪回・脱会
「脱解」は「解脱(ゲダツ)」の逆で、
「解説(カイセツ)」の熟語に類似する・・・
「脱」=肉+兌
「説」=言+兌
↓
「兌(ダ・ダイ)」
易における八卦の一・☱
方角は西
沢や少女を表す
六十四卦の一、「兌為沢」
かえる・とりかえる
喜悦の徳・悦楽・恍惚
酉=西方
兌換=紙幣を正貨と引き換えること
発兌=書物などを印刷・発行
兌=「八+兄」・「兄」は 祝詞
自然界の「沢」
卦徳は「悦」
人では「少女」
属性は「金」
身体では「口」
易数は「二」
ーー
「三国史記」・・・1143年執筆開始、・・・?
↓ 干支「癸亥」年
↓ 日本
↓ 康治二年
↓ 皇紀1803年・・・・・・?
中国
南宋=紹興十三年
金 =皇統三年
西夏=大慶四年
西遼=康国十年
〜
1145年完成、全50巻
干支「乙丑」年
日本
天養二年、久安元年
皇紀1805年
↓ 中国
↓ 南宋=紹興十五年
↓ 金 =皇統五年
↓ 西夏=人慶二年
↓ 死去
↓ 9月10日
↓ (久安元年八月二十二日)
↓ 藤原璋子、鳥羽天皇の中宮(1101年〜)
↓ 10月21日
↓ (久安元年十月四日)
↓ 源光信、平安時代の武将(1093年?〜)
には
新羅への数千人規模の
倭人渡来の記述・・・
ーーー
広開土王碑・・・好太王の息子の
長寿王が
414年旧暦九月二十九日
(甲寅年九月廿九日乙酉)に建てた
百殘
新羅
舊是
屬民
由來
朝貢
而
倭
以
ー↓ー
耒卯年・・・辛卯(391年)?→乙卯
耒=農地を耕すため
土をかき起こし
草を刈る農具である鋤、柄
「説文解字」では
「木」で雑草を表す
「丯」をすく象る
康熙字典214部首
6画の10番目、未集の10番目
耒=木の耕具→木=甲乙の耕具
卯=陰支ならば「乙」
耒=すき・ルイ・ライ
「耕・耗・籍」
耘・耕・耗・耙・耜・耨
乙卯=辛卯の干支から
順旋で24番目→391+24=415
逆旋で36番目→391−36=355
↓
干支「乙卯」=415年
日本
允恭天皇四年
中国
東晋=義熙十一年
後秦=弘始十七年
西秦=永康四年
北魏=神瑞二年
白亜栗斯・劉虎=建平元年
北涼=玄始四年
西涼=建初十一年
夏 =鳳翔三年
北燕=太平七年
朝鮮
高句麗=長寿王三年
百済=腆支王十一年
新羅=実聖王十四年
干支「乙卯」=355年
日本
仁徳天皇四十三年
百済王族の酒君(さけのきみ)が?
献上した鷹を天皇が
百舌野(もずの)で遣って
雉(キジ)を捕り
鷹甘部(たかかいべ)をおいた
仁徳天皇四十一年
紀角(きのつの)が百済派遣されたとき
紀角に無礼をし、
捕らえられて日本におくられた
後、罪をゆるされ
四十三年に鷹の飼育を命じられ
これが
「鷹甘(たかかい)部」のはじまり・・・?
ナゼ、「鷹(たか)+甘(かい)」なんだか・・・
甘=あまい・あまえる・あまやかす
うまい・あまんずる・カン
味があまい・「甘味」
おいしい・うまい
甘美・甘露
満足する・気に入る・
甘言・甘受・甘心
あま・・・甘辛・甘酒
甘茶でカッポレ、かっぽれ・・・
「甘寧(カンネイ)」は字は「興覇(コウハ)
先祖は南陽郡の人・巴郡に移住し
計掾(会計報告係)に推挙され、蜀郡の丞
官を棄て、武装徒党の無頼漢の頭となり
後に「孫権」に仕えた軍人・戦術家
215年(建安二十年)の冬に卒去
劉備に協力した蛮将沙摩柯の矢を受け戦死
小説の三国志演義
ー↓ーーーー↓日本書記・原文
卌三年秋九月庚子朔、依網屯倉阿弭古、
捕異鳥、獻於天皇曰、臣毎張網捕鳥、
未曾得是鳥之類。故奇而獻之。
天皇召酒君、示鳥曰、是何鳥矣。
酒君對言、此鳥之類、多在百濟。
得馴而能從人。亦捷飛之掠諸鳥。
百濟俗號此鳥曰
倶知。
是今時
鷹也。
乃授酒君令養馴。未幾時而得馴。
酒君則
以韋緡著其足、
以小鈴著其尾、居腕上、獻于天皇。
是日、
幸
百舌鳥野而遊獵。
時
雌雉多起。
乃放鷹令捕。
忽獲數十雉。
是月、
甫定
鷹甘部。
故時人
號其養鷹之處、
曰
鷹甘邑也。
(日本書紀)
↓
神功皇后摂政
五十七年
〜
仁徳天皇八十七年一月十六日
第十六代天皇
在位
仁徳天皇元年一月三日
〜
仁徳天皇八十七年一月十六日)
大雀命(おほさざきのみこと)
(古事記)
大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)
大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)
(日本書記)
難波天皇
(万葉集)
大雀天皇と難波高津宮天皇の記載
(播磨国風土記)
五百城入彦皇子(景行天皇の子
成務天皇の弟)の孫
(日本書記)
大雀の母
中日売の父が、
五百木入日子(成務天皇)の弟の子
品它真若?・・・品陀和気天皇(応神天皇)
品陀和気命
五百木入日子(景行天皇の子
成務天皇の弟)の孫なら
曾孫
垂仁→景行
↓
倭建
成務
1)五百木入日子
↓
2)仲哀・神功皇后
↓
3)応神
↓
4)仁徳
↓
品陀和気命(応神天皇)、
軽島の明の宮の天皇が
品它真若(ほむだのまわか)王の娘
高木之入日売(たかぎのいりひめ)の命
↓
中日売(なかつひめ)の命(仁徳の母)
↓
弟日売(おとひめ)の命
三人の王女の父が
「品它真若王」で
↓
彼は
「五百木之入日子命」が、
尾張連の祖先の
建伊那陀(たけいなだ)の宿禰の娘、
志理都紀斗売(しりつきとめ)を娶って
生ませた子
↓
(古事記)
↓
仁徳天皇は
↓
応神天皇の第四皇子
母は
品陀真若王の女
仲姫命(なかつひめのみこと)
皇后(前)は
葛城襲津彦の女
磐之媛命(いわのひめのみこと)
(石之日売命)
皇后(後)は
応神天皇の皇女
八田皇女(やたのひめみこ・矢田皇女)
↓
妃は
諸県君牛諸井の女
日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)
子供
大草香皇子
(大日下王・波多毘能大郎子)
草香幡梭姫皇女
(橘姫皇女・若日下部命・波多毘能女郎子)
(雄略天皇の皇后)
↓
仁徳天皇は
「倭の五王(宋書)」中の
讃(さん)
または
珍(ちん)・・・?
↓
中国
東晋=永和十一年
前涼=和平二年
建興四十三年?→仁徳「卌三」年
(西晋の元号継続)
前燕=元璽四年
前秦=皇始五年、
寿光元年代=建国十八年
朝鮮
高句麗=故国原王二十五年
百済=近肖古王十年
新羅=訖解王四十六年
誕生
慕容宝
五胡十六国時代の
後燕の第二代皇帝(〜398年)
死去
張祚
五胡十六国時代の
前涼の第七代君主(生年不詳)
苻健
五胡十六国時代の
前秦の初代皇帝(317年〜)
ー↓ー
來
渡海
破
百殘
加羅
新羅
以
為
臣民」
ーー↓
「宋書」
「倭の五王」・・・「讃、珍、済、興、武」
倭の王
使持節都督、
倭・新羅・任那
加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事
「安東大将軍」
倭国王
「安東」=「朝鮮の領域+倭国の領域」
の諸軍事の大将軍の倭国王・・・
ーー
大化の新羅の賊
兵庫県
朝来市の
赤淵神社の伝承(神社略記)
大化元年(645年)
表米宿禰命(ひょうまいすくね)が
丹後・白糸の浜に来襲した
新羅の賊を討伐
沈没しかけた船を、
大海龍王が、
鮑(鰒・アワビ)の大群を用いて救った
鮑鰒=ホウフク=報復・抱腹・法服
赤淵神社は
日下部氏が奉祭・・・?
ーー
天智二年(663年)八月
倭国は百済救援で
朝鮮半島で
唐・新羅連合軍と
白村江の戦い
敗北
ーー
天智天皇七年(668年)
新羅の僧沙門
道行が
草薙剣を盗んで・・・?
新羅に逃げるが
中路で暴風雨で迷い戻る
668年以降
日本は遣新羅使を派遣
天武天皇の即位から
780年まで、
派遣日本使が
30回以上送られている
672年
壬申の乱
大海人皇子(天武天皇)
在位=673年〜686年
親新羅政策
次代の
鸕野讃良(持統天皇)
在位=690年〜697年)
親新羅政策をとったが、
新羅が日本へ朝貢する関係を強いた
ーー
帰化人
日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣
持統天皇元年(687年)
帰化の新羅人
十四人を下野国へ
新羅の僧侶及び百姓の男女
二十二人を武蔵国に土地と食料を給付
帰化人の総数には
日本から
新羅に帰化していた倭人も含まれる
天皇により新羅人の帰国が奨励
半島に帰還するものに対しては食料が配布
歴史的に残留した新羅からの帰化人は
百数十名と少なく、
多くは
漢民族・・・・?であった
ーー
持統天皇九年(689年)
帰化した新羅人を
下毛野に移し
持統天皇十年(690年)
新羅の
韓奈末許満
等十二人を
武蔵国や、下毛野国に居住させた
霊亀元年(715年)
尾張国人の
席田君
邇近
及び
新羅人七十四人が
美濃国を本貫地とし、
席田郡に移された
天平五年(733年)
集落はその後断絶・・・
ーー
「王城国」
新羅が
735年(天平七年)
日本へ入京
新羅使が、
国号を「王城国」と改称したと告知
朝廷は無断で
国号を改称したことを責め、
使者を追い返した
ーー
阿倍継麻呂
736年(天平八年)
遣新羅大使の
阿倍継麻呂が新羅へ渡った
外交使節としての礼遇を受けられず
朝廷は伊勢神宮など諸社に
新羅の無礼を報告し
調伏のための奉幣
以後、新羅使を
大宰府に止めて帰国させ、
入京を許さなかった
阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、
遣新羅使の帰国後、
平城京では
天然痘とみられる疫病が流行った・・・
ーー
金泰廉
752年(天平勝宝四年)
新羅王子
金泰廉ら
700余名の新羅使が来日、朝貢
使節団は、奈良の大仏の
塗金用に大量の金を持ち込んだと推定・・・
ーー
長安での席次
753年(天平勝宝五年)
長安の大明宮で開催された
唐の朝賀で
遣唐使
大伴古麻呂が
新羅の使者と席次を争い
意を通す
唐は日本側の
新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ
新羅を下位においた
遣新羅大使は、新羅で
景徳王に謁することが出来なかった
ーー
藤原仲麻呂
天平宝字二年(758年)
唐で
安禄山の乱
藤原仲麻呂は
大宰府をはじめ諸国の
防備を厳にすることを命じる
天平宝字三年(759年)
新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、
仲麻呂は新羅征伐の準備
軍船394隻
兵士4万700人の動員、遠征計画
遠征は後の
孝謙上皇と仲麻呂との不和により
不発
ーー
藤原仲麻呂(恵美押勝)が
渤海の要請により新羅討伐計画の
大儀名分
「新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼」
ーー
御調朝貢
八世紀末
新羅国内が混乱
宝亀十年(779年)
新羅は日本への服属を象徴する
御調(みつき)を携え使者を派遣
新羅の混乱により多数の
難民が日本列島へ亡命
大量に帰化を申請する事態が発生する
日本側は、帰化を許可
ーー
遣新羅使停止
780年
遣新羅使は停止
以後は
遣唐使の安否を
問い合わせる使者が数度送られたのみ
民間交易は続けられ
唐・日本・新羅商人により、
三国の情報は比較的詳細に交換
有名な新羅商人の
張宝高
ーー
弘仁の新羅の賊
弘仁二年(811年)十二月六日
新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、
内、一艘が
下県郡の佐須浦に着岸
船に十人ほど乗っており、
他の二艘は闇夜に流れ、行方不明
翌十二月七日未明
灯火をともし、相連なった
二十余艘の船が島の西の海中に姿を現す
船が賊船である事が判明した
先に着岸した者のうち
五人を殺害
残る五人は逃走し、
うち四人を後日補足
島の兵庫を衛り、軍士に動員
毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告
大宰府は、事の真偽を問う為に
新羅語の通訳と
軍毅等を対馬島へ派遣し、
旧例に准じて要害の警備につくすべき事を
大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知
ーー
弘仁四年(813年)二月二十九日
肥前の五島・小近島(小値賀島)に、
新羅人110人が
五艘の船に乗り上陸
新羅の賊は
島民100余人を殺害
島民は新羅人
9人を打ち殺し
101人を捕虜にした
この日は、
基肆団の
校尉
貞弓らの去る日であった・・・
四月七日
新羅人
一清
清漢巴
らが日本から新羅へ帰国
と大宰府より報告
新羅人らを訊問し、
帰国を願う者は許可し、
帰化を願う者は、
慣例により処置せよと指示
対策
通訳を対馬に置き、
商人や漂流者、帰化・難民に
なりすまして毎年のように
来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、
承和二年(835年)
防人を330人に増強
承和五年(838年)
796年以来絶えていた
弩師(どし)を復活させ、
壱岐に配備した
弩師=大弓の射撃を教える教官
ーー
弘仁新羅の乱
弘仁十一年(820年)二月十三日
遠江・駿河両国に移配した
新羅人在留民700人が党をなして
反乱し、
人民を殺害して
奥舎を焼いた
両国では兵士を動員して攻撃
制圧する事ができなかった
賊は
伊豆国の穀物を盗み、
船に乗って海上に出た
相模・武蔵等
七国の援兵が動員、追討
結果、全員が降服
帰化人には
口分田と当面の生活費が与えられたが、
博多などに土着して
本国と違法な交易を目論んでおり、
それを見透かされ
東国に移されたことを逆恨みした・・・?
ーー
山春永らの対馬侵攻計画
貞観八年(866年)
肥前
基肆郡
擬大領(郡司候補)
山春永(やまのはるなが)
藤津郡領
葛津貞津
高来郡擬大領大刀主
彼杵郡住人
永岡藤津らが、
新羅人と共謀し、
対馬を攻撃しようとした計画が発覚
ーーーーー
・・・???・・・