1410日目・・・イジのサンゴク・・・纂語(後)句の「遺児・維持・意字・医事・異字・意地」・・・「一念発起」・・・以下、スベテ、ウイッキペデアからの参考、参照としての抜粋添付で、少々改作・・・

 ・・・盗作、改竄・・・???・・・ではありません・・・問う作句文・・・
ーーーーー
 一然(いちねん)
 1206年〜1289年7月
 高麗時代の・・・光来・考禮・項頼
         交羅易・行等意
 禅宗の・・・・・前奏・漸層
         全草・全叢・全宋
         全層・全総・全相
         前操・膳扱・然想
 仏僧・・・・・・物騒・仏葬
 俗姓は
 金・・・・・・・金武・筋・禁・軽
         琴・禽・錦・近
         勤・均・今
 幼名は・・・・・用命・用明・陽明
         要名
 見明・・・・・・賢明・懸命・件名
         県名
 または
 景明・・・・・・鶏鳴
 字は
 晦然・・・・・・改善・解繕
         甲斐全
         蝦夷全 
         晦=カイ(クヮイ)・
           つごもり・くらい
           くらます
           人に知られない
           みそか晦日・三十日
           月の末日
         晦朔・晦冥・晦渋
         韜晦(とうかい)→当会
         倒壊・唐解・凍解・東海
 慶州
 章山郡(慶山市)→「称賛・勝算・消散」軍
 の出身
 1283年
 忠烈王より国尊の称号
 円径冲照と号・・・・円形・燕系・遠景
           縁系・延計
           中称・中傷・中小
           抽象
 没後に
 普覚の諡号・・・・・不覚・俯角・富嶽
 普覚国尊
 一然
 と称される
 三国時代
 「三国遺事」の撰述の他
 「語録」
 「偈頌雑著」などの著作
       偈頌(ゲジュ)
       禅宗の宗教的内容表現の漢詩
       仏徳をたたえる詩
       多くは四句、
       教理や悟りの境地を表現
       七言絶句が多いが、
       五言絶句や四六文で
       構成されることもある
       起承転結
       七言絶句
       起句、承句、転句、結句
       の4つの句で構成される
ーー↓
 一然の経歴・履歴
 九歳
 海陽(光州広域市)の
 無量寺で出家
 二十二歳
 科挙の禅科に合格
 後、宝幢庵、妙門庵、無住庵で禅の修業
 1261年
 元宗に召されて
 開城で
 禅月堂を開き、
 牧牛和尚の法統を継承
 1264年
 元宗に願い出て都を離れ、
 吾魚寺・・・・・・・・・吾の魚(眞名)の字
 (慶尚北道浦項市)に移り、
 1268年
 朝廷の命で
 名僧百名とともに
 雲門寺・・・・・・・・・運文字
 (慶尚北道清道郡)で
 大蔵経
 落成会を行なった
 1276年
 勅命で
 雲門寺の住職
 1282年
 忠烈王に召しだされて
 開城に移り、
 広明寺に住む・・・「巧妙・功名・高名」字
 1283年
 国尊の称号
 母が高齢で一時辞職して
 郷里に戻り、
 翌年母の最期を看取った
 朝廷では一然のために
 麟角寺・・・・・・「輪郭・隣角」字
 (慶尚北道軍威郡)を修築
 復職した
 七十九歳の一然に田地とともに
 麟角寺が与えられた
 一然は麟角寺に永住
 1289年7月
 八十四歳で亡くなるまで
 禅問答を続けた・・・・禅問答は「弁証法」か?
            全問答・繕問答・然問答
 麟角寺には
 一然のための
 舎利塔と
 碑が残っており、
 碑文には
 一然の著作として
 「語録・二巻」
 「偈頌雑著・三巻」
 「曹洞五位・二巻」
 「祖図・二巻」
 「大蔵須知録・三巻」
 「諸乗法数・七7巻」
 「祖庭事苑・三十巻」
 「禅門拈頌事苑・三十巻」
 などの銘文が刻まれている
 しかしながらこの碑文には
 「三国遺事」のことは触れられていない・・・?
 ・・・一然の著作ではない、と言うことである・・・
ーー
 「三国遺事」
 正史(三国史記)に漏れた
 様々の事実の
 「遺事」を取りまとめたモノ
 「三国遺事」
 一然の晩年の撰述
 王暦の年表末に記す
 中国王朝を
 南宋・・・1127年〜1279年
 までに留めて
 「大宋」と記しており、
 「元」を記していないことから、
 まだ宋が存立していた間に
 およその撰述を終え
 主要部分については
 雲門寺に住まう直前の
 七十歳頃課〜七十八歳までの間
 1275年〜1283年
 の著述である・・・
 国際的な情況
ーー↓↑
 モンゴルvs南宋戦争
 1235年〜1279年
 第1次オゴデイ治下のクチュの南征
 (1235年〜1241年)
 第2次モンケ治下のクビライの南征
 (1253年〜1259年)
 第3次で南宋滅亡
 (1268年〜1279年)
ーー↓↑ 
 金(アルチュフ)国・・・砂金の国
 (1115年〜1234年)
 「阿骨打(アクダ)」が建国
 首都は
 会寧
 中国の北半を支配した
 女真族の王朝
 金建国前の女真(ジョシン)
 中国東北地区(満州
 黒竜江省松花江の支流
 按出虎水(アルチュフ川)流域に居住
 遼支配下の服属種族
 国姓は
 完顔氏
 遼・北宋を滅ぼし、
 西夏を服属させ、
 中国南半の南宋と対峙
 1232年
 三峰山の戦いでモンゴルに大敗
 1234年
 開封を包囲、占領
 皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れる途中で
 モンゴルと
 南宋の連合軍に挟撃されて自殺
 後を受けた
 末帝も即位からわずか半日で
 モンゴル軍に殺害され
 金は滅亡
 都は初め会寧(上京会寧府・黒竜江省
 後、
 燕京(中都大興府・北京)
ーー↓↑ 
 十七世紀
 同じ女真族が「金」を名乗る王朝を建国
 「後金」と呼ばれ
 「後金」は後に
 「清」と改称し大帝国を築いた。
ーー↓↑
 「三国遺事」
 十三世紀末に
 高麗の高僧
 一然
 (1206年〜1289年)
 によって書かれた
 私撰の史書
 撰述の時期は1270年代後半〜1280年代中頃
 一然の没後に
 弟子の
 無極(宝鑑国師の混丘)が
 補筆・署名、刊行
ーー
 朝鮮半島における
 現存最古の史書である
 「三国史記・1145年完成)に次ぐ古文献
 「三国史記」が名だけを留め、
 収めなかった
 郷歌(きょうか、ヒャンガ)
 十四首伝える
ーー
 官撰の
 「三国史記」は
 儒学者である
 「金富軾」の編纂
 中国史書の書式(紀伝体)に忠実
 三国時代
 故事・伝承が数多く削り落とされ
 当時利用が可能であった
 中国の書籍を資料として利用
 卑弥呼の記載などがある
 特に
 新羅の立場から編集
 また自身の禅僧としての立場から
 仏教の普及に関わる事実とをあわせて収録
 「王暦」末尾の中国諸王朝について
 元を記さずに
 宋(南宋)で終えて大宋と記し、
 紀異篇の最初に
 檀君を記しているなど、
 一然が編纂にあたった
 当時の
 「元」の支配に反対し、
 民族の自主独立の姿勢も見せている・・・
 ]巻一:王暦・紀異
 巻二:紀異
 巻三:法興・塔像
 巻四:義解
 巻五:神呪・感通・避隠・孝善
 全五巻九篇
  ↓
 巻一の「王暦」は
 新羅高句麗百済駕洛国の王代と年表を記し、
 「紀異」は
 檀君朝鮮に始まる諸国の興亡と
 新羅各王の逸聞を記す
  ↓
 巻二は前巻の紀異に続けて、
 新羅の末代の
 金傅大王(敬順王)の
 後に
 百済後百済駕洛国について記す
  ↓
 巻三以降
 仏教史関係
 「法興」、「塔像」は
 新羅を中心とした仏教受容の事実、
 「義解」は高僧と律師の伝記、
 「神呪」は密教の神僧の事跡、
 「感通」は修行の末の神意の感応、
 「孝善」は仏法に則った孝行と応報の美談を記す
ーー
 版本
 李氏朝鮮
 中宗の
 正徳七年(1512年)刊行・正徳本
 十八世紀
 「安鼎福」が
 手写したものを、
 日本では
 大正十年(1921年)に
 京都帝国大学文学部叢書として
 縮少影印し、
 後に
 昭和三年(1928年)
 今西龍の校訂によって
 朝鮮史学会本として活字化
 同影印本は
 昭和七年(1932年)
 京城ソウル特別市)の
 古書刊行会より
 原寸大に再影印
 朝鮮史学会での
 活字本はその後も校訂が進められ、
 1973年発行の
 第3版が最良のテキスト
ーー↓
 文禄の役
 (1593年)
 持ち帰られたと思われるものが
 尾張徳川家
 東京の
 神田家とにそれぞれ伝わっている
 これらは
 王暦の巻頭の
 二葉ほか、複数の箇所で
 落丁・欠字
 他書によって補訂されたものが
 明治三十七年(1904年)
 東京文科大学史誌叢書として刊行
ーーーーー
 ・・・???・・・「補訂」とは「改竄」があった・・・?