1383日目・・・「何度、ナンド」も、「繰り返し、クリカエシ」、同じ事を「貼り付けたり」、「書き込んだり」している・・・ボケ防止にはなっているかな・・・

 「歴史上の人物の名前」がナゼ、怪しいと考えないんだか、不思議である・・・「姓名判断」を巷の「占い師」にマカセていたら「アカンぞなモシ」・・・歴史学者も、国語学者も、言語学者も・・・「アカンな、ぞ、モシ」・・・「アカンなどモシ」・・・
 「〜ぞなもし」「〜なもし」→「〜ですよ、ねぇ」
 ・・・「何=イ(人)+口+丁(ひのと・チョウ・テイ)」だが、人の「クチョウ=口丁、口調・クテイ=句体、句綴、句態、口訂」・・・しばらく人間との会話も無く、ニャンコのモモとブブとの会話があるのみだが・・・独り言もブツブツ・・・オオイ・・・
ーー
 土佐弁や広島弁などにも類似語彙・表現が見られるが、土佐弁より伊予弁の方が一般的に語調にソフトな表現が使用される傾向がある・・・「〜ぞなもし」「〜なもし」→「〜ですよ、ねぇ」・・・
 「‎伊予弁」に関連した「ぞなもし」・・・
 ・・・
 「ぞな、もし」という風に区切る説・・・?
 「これはチョコぞな、もし」・・・?
 「なもし」には敬意を表す助詞の役目がある・・・?
 ・・・「ぞなもし」とは「伊予あたりの方言」で、半ば疑問形の呼びかけ、問いかけの意味合いを含んだ表現・・・「ぞな」は「なぞ」なモシ・・・ダガヤ、ッ・・・
 「ではないですか」に近い・・・
 「ではないです、か」
 「ではない、ですか」
 「では、ないですか」
 「で、はないですか」
 「では、ない、で、すか」
 「ではな、い、です、か」
 「ではない、です、か」
 「ではないで、すか」・・・?
 「で、はな、い、です、か」・・・困ったァ〜、オッカサン、伊予、愛媛、愛知、ニッポン・・・パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム(Parsley,Sage,Rosemary and Thyme)・・・ サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)・・・サイモン&ガーファンクル・・・スカボロー・フェア(スカボレフェア?)・・・コンドル・・・卒業できない・・・
ーーーーー
 霊思何皇后
 父は何真
 母(舞陽君)は
 何真の後妻であり、
 何進は異母兄、
 何苗(朱苗)は異父兄
 妹が宦官
 張譲の子(養子?)
ーー
 霊帝の皇后であった
 宋氏が寵を失い、間もなく
 宦官の讒言により
 無実の罪を着せられ廃された
 何氏が皇后に立てられた・・・霊思何皇后
ーー
 何進(カシン)
 ?〜
 光熹元年
 (189年)八月二十九日旧暦)
 中国後漢末期の武将、政治家
 字は
 遂高
 南陽河南省南陽)宛の人
 霊帝
 皇后(霊思何皇后)
 何氏の異母兄
 父は
 何真
 継弟(義理の弟)は
 何苗(朱苗)
 孫に
 何晏
ーー
 何姫・・・・・・・・・・・ナンの秘密→姫=足
 春秋第三部
ーー↓
 「呉の孫氏」収録人物
  何氏(カシ)・・・・・・・ナニのウジ
 名と字(あざな)は不詳
 丹楊郡(タンヨウグン)・・・単葉群・探要訓
 句容県(コウヨウケン)・・・句用懸(件・兼)
 生没 ?〜?年
ーー
 他氏改姓。
 东汉灵帝大将军
 何进异父弟朱苗为车骑将军,
 改姓何。
 另有南方郝姓由于古代语音流传后
 来书
 写作何。
 西汉时有蜀郡
 何氏,东汉时有扶风何氏、南阳何氏,
 魏晋时有陈郡
 何氏,
 说明四川、安徽、陕西、河南
 均有
 何姓分布。
 何氏主页
ーー
 何氏渊源
 何氏宗族的起源根
 据古代历史文献的记载和历史传说,
 何源于韩,即何氏
 宗族的韩氏转化而来。
 早在西周初期,韩与郑、
 晋,应为
 周武王之支子,
 成王之叔,
 以功封于韩,
 为古韩国
 世界何氏宗亲总会网站
ーー
 广东何氏书画院揭牌仪式暨书画展在穗举
 宜春何氏召开宗亲联谊总会筹备工作会议
 华葛集团高层在海南考察
 何贵在渝
 在穗举行紫砂及书画作品拍卖同期进行来源
 世界何氏网上传
 本站广州讯(何涵报道)
 广东何氏书画院揭牌仪式暨
ーー
 公羊・・・・・(系統)句用?
 何氏
 釈例
 世界大百科事典第2版
 公羊何氏釈例・・・?
  ↓
 羊頭狗肉は「羊頭を掲げて狗肉を売る」
 出典は
 中国宋時代の
 禅書
 「無関門(ムカンモン)」
 店頭の看板には
 「羊頭(羊の頭)」を掲げ、
 実際には
 「狗肉(犬の肉)」を売る意味
 見せ掛けは立派だが実物は違う、の意味
 牛頭馬肉→洋頭馬脯(馬肉)→羊頭狗肉
 ↓
 晏嬰(アンエイ・?〜紀元前500年)
 春秋時代
 斉の政治家
 氏は晏
 諱は嬰
 字は仲
 諡は平
 莱の夷維の人
 父は晏弱(晏桓子)
 子は晏圉(アンギョ)
 霊公、荘公光、景公の三代に仕え、
 上を憚ることなく
 諫言を行った。
 名宰相として、
 晏平仲、晏子と尊称
 「史記・管晏列伝」
 晏嬰は身長が「6尺(周代の1尺は22.5cm)に満たず」
 社稷(国家)を第一に考えて上を恐れず諫言
 人民に絶大な人気を誇り、君主も彼を憚った
 質素を心がけ、肉が食卓に出ることが稀だった
 狐の毛皮を仕立てた一枚きりの服を、
 三十年も着ていた
 倹約さを示す故事成語
 「三十年一狐裘」
 「豚肩豆を掩わず」
ーー
 霊公の時、女性の間で男装をすることが流行
 霊公は禁令を出した
 流行は霊公の妃に男装をさせていたからひろまった
 晏嬰は
 「牛の頭を看板に使って
  馬の肉を売っているようなもの。
  宮廷で禁止すればすぐに流行は終わる」
 と諫言
 「牛頭馬肉」が、後に変化して
 「羊頭狗肉」になった

 晋との戦いで敗北
 霊公が逃亡しようとしたので、
 「まだ戦えるのにどうして逃げるのですか」
 と諌言
 逃亡の際、霊公の袖を晏嬰が引きちぎってしまい、
 霊公がその無礼に怒って剣に手をかけたが、
 晏嬰は
 「私を斬り捨てる勇気を持って敵と戦って下さい」
 と言うが
 霊公は
 「お前を斬り捨てる勇気がないから逃げるのだ」
 と首都
 臨淄へ逃げ帰った

 荘公の時
 紀元前551年
 晋の卿(大臣)の
 欒盈(ランエイ)が
 士匄(范匄)との権力争いに敗け
 斉へ亡命
 荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、
 晏嬰は反対した
 荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、
 晏嬰は職を辞して田舎にひきこもりた
 荘公は、
 宰相
 崔杼の妻と密通
 怒った崔杼は
 紀元前548年5月
 自邸に荘公をおびき寄せ、私兵をもって殺した
 これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。
 荘公を悼む様子を見せれば
 崔杼によって殺され、
 崔杼に阿(おもね)れば
 不忠の臣としての悪名を受ける
 晏嬰は
 「君主が
  社稷(国家)のために死んだのならば私も死のう。
  君主が
  社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
  しかし
  君主の私事のためならば
  近臣(直臣)以外はお供する理由はない」
 と言って、型通りの哭礼だけを行って帰った。
 崔杼の配下は晏嬰を捕え殺そうとしたが、
 崔杼は
 人民に人気がある
 晏嬰を殺すのはまずいと考え、これを止めさせた。
 その後、
 崔杼は
 慶封と共に
 景公を擁立
 反対派を圧迫するために皆を集めて
 「崔・慶に組しない者は殺す」
 と宣言した。
 しかし晏嬰はこれに従わず
 「君主に忠誠を尽くし、
  社稷のためになる者に従う」
 と言い返した。
 崔杼と慶封は政権を握るが、
 崔杼は
 紀元前546年に
 慶封により殺され、
 慶封も
 翌紀元前545年
 陳無宇や
 鮑氏(鮑叔の子孫)
 高氏
 欒氏に攻められて滅びた。
 この時
 晏嬰は彼らの戦いを
 私闘として
 景公を守った。

 景公に信任されて宰相の地位に上り、
 田氏一門の
 司馬
 穰苴を推薦

 紀元前540年
 晋へ使節に行った時
 晋の
 名臣
 羊舌肸(叔向)と会い、
 「田氏(陳無宇・田乞親子)は
 民に人気を取っているので、
 斉は田氏に取って代わられるかもしれない」
 と言った。
 約150年後に実現
ーー
 使節として
 楚へ行った際に、
 楚の城門に来た
 晏嬰が
 小男なのを見て、
 楚の案内係は
 大門の横の
 狭い潜り戸に
 晏嬰を案内した。
 晏嬰は
 「他国の使節を、
  犬を入れる門で迎えるなら、
  それは犬の国だ。
  楚国は今日使節として来た私を、
  この戸から入らせてよいのか」
 と言った。
 案内係は、大門を開いて晏嬰を入らせた。
 王との会見で、
 王は貧相な晏嬰を見て
 「いったい、斉には人がいないのか」
 と言った。
 晏嬰は答え
 「(斉の)臨淄は街路300余り、
  人々が袖を広げれば日も遮られ、
  人々が汗をふるうと雨となり、
  肩と肩、踵と踵がぶつかるほどに人がいます。
  人がいないことがありましょうか」
 王
 「では何故、貴殿のような者を使節によこしたのか」
 晏嬰
 「斉が使節を任ずるには適性により、
  賢王のもとには賢者を、
  不肖の王侯には不肖の者を使節に遣わします。
  自分は最も不肖なる者ゆえ、
  楚国に使節として使わされました」
 と答えた。
 会見のさなか、役人が縛られた者を連れてきた。
 王は「それは何者か」と聞いた。
 役人は「斉人です」と答えた。
 王はまた「何をしたのか」と聞いた。
 役人は「泥棒です」と答えた。
 王は晏嬰に向かい
 「斉の者は盗みが性分なのかね」
 と聞いた。
 晏嬰は、
 「江南に橘という樹があります。
  これを江北に植えると橘と為らずして、
  棘のある枳と為ります。
  これは土と水のためです。
  斉人は斉に居りては盗せず、
  その良民が楚に来たれば盗みをいたします。
  何故でしょうか?
  楚の風土のせいでございましょう」
 霊王
 「聖人に戯れんとして、却って自ら恥をかいたか」
 と苦笑いした(南橘北枳の語源)

 その後も折に触れ、景公に対して諫言を行った。
 紀元前500年
 晏嬰は妻に対して家法を変えぬようにと遺言して死去
 晏嬰が危篤に陥った時、
 景公は海辺に遊びに行っていた。
 そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、
 馬車に飛び乗って臨淄に向かった。
 景公は馬車の速度が遅いと、
 御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。
 それでも遅いので、
 ついには
 自分の
 足で走った。
 晏嬰の邸に着くと、家に入り、
 遺体にすがって泣いた。
 近臣が、
 「非礼でございます」と言ったが、
 景公は
 「むかし夫子(晏嬰)に従って
  公阜に遊んだ時、
  一日に
  三度わしを責めた。
  いま誰が
  寡人(わたし)を責めようか」
 と言い泣き続けた。
 死後、
 「平」を諡され、
 「晏平仲」と呼ばれるが、後世の人々は
 「晏子」と尊称した。・・・?
 ・・・「子」の漢字は「尊称」・・・
ーー
 何(なに・なん・カ)
 ↓
 何氏家谱、
 何氏家谱网、
 何氏族谱、
 何氏族谱网、
 何家谱源流、
 何姓文物古迹、
 何姓人物、
 何氏论坛、
 何姓起名交流、
 何氏起源、
 何姓名人、
 何姓图腾
 何氏公羊春秋十論
 坿
 春秋
 天子
 二伯
 方伯卒
 正附
 庸
 尊卑
ーーーーー
 何皇后(カコウゴウ・?〜189年)
 後漢
 霊帝の皇后
 少帝弁の生母
 皇太后・・・・・コウタイゴウ
 諱は不明
 諡は思・・・・・?
 諡号として
 夫の諡を重ねて
 霊思皇后・・・・?
 レイシコウゴウ・?・・・霊視(例詞)交合

 父は
 何真
 母(舞陽君)は
 何真の後妻で名は不詳
 何進
 皇后(思)の異母兄
 何苗(朱苗)は
 皇后(思)の異父兄
 皇后の妹は
 宦官
 張譲の子(養子?)の妻
ーー
 南陽郡宛(河南省南陽市)の
 屠殺家の出自
 賄賂を用い
 宦官の伝手で後宮に入る
 ↓
 同郷の宦官の
 郭勝であるという
 「後漢書
ー↓
 霊帝の寵愛を受け、
 男子(少帝弁)を生む
 気が強く、
 後宮
 和を度々乱した・・・ワをミダス

 霊帝の皇后であった
 宋氏が寵を失い、
 間もなく
 宦官の讒言により
 ↓
 「霊思何皇后紀の注・風俗通」
 戸籍調査の役人へ賄賂を渡しており、
 宦官ではない・・・
 ↓
 無実の罪を着せられ廃された
 何氏が皇后に立てられた
 (180年)
 父に
 車騎将軍と
 爵位を追贈
 母に
 舞陽君を贈った・・・ブヨウクン

 霊帝の寵妃であった
 王美人が
 ↓
 扶風平陵の人で、
 父は
 執金吾に・・・・・?
 取り立てられた
 宦官の
 王甫が調略により死に追いやった
 皇族の夫人と縁戚であったため、
 報復を恐れた
 王甫が
 霊思何皇后に
 讒言をして無実の罪を着せ、
 自害に追い込ませ
 一族は
 三族皆殺しの刑に処せられた
 無辜の死であったため、
 愛惜しない者はなかった
 ↓
 霊思何皇后は
 劉協(献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、
 王美人を毒殺
 霊帝は激怒し、
 何氏は廃されそうになるが、
 宦官の取りなしにより免れた

 189年
 霊帝崩御
 少帝弁が即位
 何氏(霊思何皇后)は
 摂政皇太后となった
 政敵であった
 董太后との争いに勝ち、
 ↓
 董・・・・董(ただす・トウ)
      見張る・監督し管理する
       「威をもってこれを董す・董狐の筆」
      権勢を恐れず、ありのままに歴史に書き記すこと
      董(トウ)
      漢姓の一
      袁紹
      董昭を参軍事とした
      公孫瓚の勢力が盛んで、
      鉅鹿太守の
      李邵をはじめ、
      郡内の大半が
      公孫瓚に味方
      董昭は計略を用いてこれを鎮めた
      魏郡でも反乱が起き、
      太守が殺害され時、
      董昭は、袁紹の命令で魏郡太守の
      事務を引き継ぎ、
      謀略を用いて反乱を鎮圧
   「董=董+灬=ただす・トウ」の類字は「勲」
      勲(かおる・クン)・・・薫の君
      薫製・燻製・・・訓所為
ーー↓
 董太后      
 趙国の人で、
 祖父は
 五官中郎将
 河間の人
 霊帝の生母で、
 桓帝の未亡人である
 竇太后が死去した後、
 朝政に関与するようになり、
 一族の
 董重を取り立てて
 官職に就けるとともに、
 一部の宦官と結託して権勢を振るった
 劉協を養育していた
 ↓
 董太后を洛陽から追放(のち謀殺?)
 何太后の政権を支える
 大将軍の
 何進と宦官(十常侍)とが争い、
 何進
 袁紹たちと共に
 十常侍の殺害を計画
 宦官とも結託していたため、
 弟の何苗と共に何進の計画に反対
 何進十常侍は政争の末に共に滅び、
 何苗も殺害
 洛陽に入った
 董卓が権限を手中にした
ーー
 董卓は董太后と同族である
 ↓
 趙国の人で、
 祖父は
 五官中郎将
 河間の人
 霊帝の生母で、
 桓帝の未亡人である
 竇太后が死去した後、
 朝政に関与するようになり、
 一族の
 董重を取り立てて
 官職に就けるとともに、
 一部の宦官と結託して権勢を振るった
 劉協を養育していた
 ↓
 董太后の報復として
 何氏を排除しようとした
 董卓
 何太后を脅迫
 少帝の廃位を実行
 董太后が養育していた
 劉協を皇位に就かせ
 何太后
 董太后に対する振る舞いが
 孝の道に叛く行いだと問責し、
 永安宮に幽閉して、後に殺害
 何太后
 霊帝の陵に合葬されたが、
 董卓
 霊帝の陵の
 副葬品をことごとく奪った
 (董卓伝)・・・?・・・「ただす、卓」である
ーー↓
 何太后
 小説「三国志演義」では
 董卓の命令を受けた
 李儒に毒酒を勧められるが、
 毒による自害を拒否したため、
 幽閉された塔の上から
 李儒に突き落とされることになっている
ーーー