1374日目・・・前回、「アイオナ」島にある中世ケルト教会の修道院、中世前期のキリスト教布教の中心地で、「563年」にアイルランドを逐われた「聖コルンバ」を調べたが・・・モジリ=魚が起こす波紋。また魚が水面付近で身を翻し、背ビレなど体の一部を見せること・・・ネッシーの波紋・・・

 「563年」?の連鎖は・・・「高孝瑜」・・・「空海の誕生日」を「六月十五日」とするのは、「頼瑜(1304年没)」の「真俗雑記」・・・「頼瑜」は「嘉禄二年(1226年)〜嘉元二年一月一日(1304年2月7日)」、鎌倉時代中期から後期の真言宗僧・俗姓は「土生川」氏、字は「俊音」、号は「俊音房」で、紀伊国「那賀郡」の出身。高野山「大伝法院」、「醍醐寺」で学び大伝法院学頭、実勝から灌頂を受け、「中性院」流を開く。「正応元年(1288)」、大伝法院と密厳院を紀伊「根来(ねごろ)寺(和歌山県)」にうつし、新義真言宗の基礎をつくった。享年七十九歳・・・著作に「大日経疏愚草(ダイニチキョウショグソウ)」などがある・・・
 「現存・古事記」に関係する人物の流れ・・・
 そして、頼瑜(ライユ)・・・
 信瑜(シンユ)・・・
 賢瑜(ケンユ)・・・
 春瑜(シュンユ)・・・
 「瑜=王+兪」が共通項の漢字として使用されているのだが意味はアルのか?・・・「瑜」とは、「美しい宝石」、「瑾瑜」という「美しい玉を意味する熟語で用いられる(説文解字・瑾瑜=美玉なり)」・・・
 人名に「瑜」がつく歴史上の人物
ーー↓
 「周瑜(175年〜210年)」
 中国後漢末期の武将
 字は公瑾(こうきん)
 渾名は美周郎
 揚州廬江郡舒県(安徽省廬江県)の人
 高祖父は周栄
 従祖父は周景
 従父は周忠
 父は周異
 子は周循・周胤・孫登
 妻は小喬
ーー↓↑
 「断金の交わり」とは
  周瑜
  孫策の友情・・・・「ソンサク」
 「易経」繋辞上の
 「二人心を同じくすれば、其の利(と)きこと、金を断つ」
  金(カネ)をも断ち切るほどかたい友情
  また、それによって結ばれた間柄のたとえ・・・
 「かね」なのか「キン」なのか?
 ・・・キン欠、ゲルピンの友情・・・?
ーー
 「孫瑜(177年〜215年)」
  中国後漢末期の武将
  孫静の次男
  字は仲異
  兄に孫翬
  弟に孫皎孫奐
  子に孫弥・孫熙・孫燿・孫曼・孫紘
  孫権周瑜の配下の将軍 
ーー
 「羊徽瑜(ヨウキユ・214年〜278年)」
   徽=しるし・キ・ケ・・・徽章(バッチ)
  司馬師の妻
  諡は献
  泰山県南城郡の人
  父は上党太守の
  羊衜
  母は
  蔡氏(蔡邕の娘)
  ↓ 「蔡(サイ)」・・・占いに用いたオオガメ
     春秋時代の列国の一
     周の武王が弟の
     蔡叔度を封じた国
     河南省上蔡県の西南
     前447年楚の恵王に滅ぼされた
    「蔡倫」は紙の発明者
    「蔡琰 (サイエン)」は
     字が文姫・後漢末期の学者、蔡邕の娘
     音律に精通、女流詩人
  ↓  河東の衛仲道に嫁いだ
  同母弟に
  羊祜・恵帝の皇后
  前趙の皇帝
  劉曜の皇后となる
  羊献容と同族
ーー
 「性瑜(セイユ・?〜?)」
 鎌倉時代の僧
 律宗
 大和(奈良県)西大寺
 叡尊真言と律を学び
 仁和寺
 醍醐寺真言をおさめる
 文永九年(1272)
 叡尊に灌頂を受ける
ーー
 「宣瑜(センユ)」
 鎌倉後期の西大寺流の律宗の僧
 第三代西大寺長老
 字は浄覚
 叡尊について顕密、戒律などを修めた
 弘安三(1280)年
 伊勢神宮の内宮に
 叡尊が建立したと伝える
 弘正寺に住し、
 瑜伽(ヨーガ・精神統一)など修行
ーー
 ・・・「渤海使帰化人」・・・
 「滋野・船代(船白)」・・・「日本後紀・平安遺文」・・・「船代」の子孫で平安時代の学者「滋野貞主(さだぬし)」が渤海使漢詩のやり取りをした・・・?
 「滋野貞主(しげの の さだぬし)」
 延暦四年(785年)
  〜
 仁寿二年二月八日(852年3月2日)
 平安時代前期の公卿
 姓は宿禰のち朝臣
 尾張
 滋野家訳の子・・・・・?・・・イエワケ?
 官位は正四位下・参議
 大同二年(807年)
 文章生に及第
 弘仁二年(811年)
 少内記
 弘仁六年(815年)
 大内記に任官
 弘仁十一年(820年)
 外従五位下・兼因幡
 弘仁十二年(821年)
 従五位下
 図書頭に叙任・・・・?・・・図書館長は怪しい
 弘仁十四年(823年)
 皇太子・正良親王東宮学士
 天長六年(829年)
 従五位上に昇叙
 淳和朝で、漢詩集「経国集・二十巻」の編纂に参画
 古今の文書を分類した
 日本最古の
 百科事典
 「秘府略・千巻(現存二巻)を撰集
 天長十年(833年)
 正良親王の即位(仁明天皇)に伴い
 正五位上と二階級の加叙を受
 承和元年(834年)
 従四位下
 承和六年(839年)
 従四位上
 承和九年(842年)
 参議に任ぜられて公卿
 下総守・内蔵頭・宮内大輔
 相模守・兵部大輔・大和守
 弾正大弼・大蔵卿・讃岐守
 式部大輔
 勘解由長官と内外の多数の官職を歴任
 承和十一年(844年)
 私邸(城南宅)を寺として
 慈恩寺とした
 承和十二年(845年)
 「便宜十四事」を陳述
 嘉祥二年(849年)
 尾張守を兼ね
 宮内卿に遷任
 嘉祥三年(850年)
 文徳天皇の即位に伴い
 正四位下
 同年
 相模守を兼ねる
 仁寿二年(852年)二月八日死去
 口吻に毒瘡を病み、
 慈恩寺西書院で没
 享年六十八
 最終官位は
 参議正四位下宮内卿
 兼
 相摸守
 長女の
 縄子は
 仁明天皇の女御
 本康親王・時子内親王・柔子内親王の三皇子女を産む
 娘の奥子は
 文徳天皇
 惟彦親王・濃子内親王・勝子内親王の三皇子女を産んだ 
ーー
 760年
 天平宝字四年
 大興二十三年(渤海年号)
 陽侯史・・・(隋王朝帰化人の末裔)
    「ヤゴ(水蠆)」はトンボ(蜻蛉)の幼虫
     肉食性の水生昆虫
 玲璆
 淳仁天皇時代に「文王」に「送高南申使(続日本紀)」・・・
ーーー
 渤海(ぼっかい、698〜926年)
 満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方
 大祚栄により建国
 契丹(遼)によって滅亡
 粟末靺鞨
 高句麗に従属
 姓は
 大氏
  渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏
 「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。
  姓は
  大氏(新唐書)」
ーー
 『旧唐書』と『新唐書』では
 渤海靺鞨
 大祚栄に関する記述は異なる・・・?
 『旧唐書』では
 渤海靺鞨の
 大祚栄は出自は
 高句麗の別種
 渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也
 『新唐書』では
 粟末靺鞨の出 
 「渤海靺鞨の大祚榮、
  本は高麗の別種なり」
ーー
 『大金国史』には
 女直(女真)は
 粛慎の遺種であり、
 渤海の別種
 (又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也)
 渤海風俗
 高句麗契丹と同じ
 (風俗瑟高麗及契丹
  風俗は高麗契丹に重なり同じ)
 渤海の名
 遼東半島山東半島の内側にあり
 黄河が注ぎ込む湾状の海域
 初代国王
 大祚栄が、渤海沿岸(河北省南部)の
 渤海郡の王(渤海郡王)に封ぜられた
 ーーーーー
 563年
 欽明天皇二十四年
 皇紀1223年
 中国
   ・陳=天嘉四年
   ・後梁天保二年
   ・北斉=河清二年
   ・北周=保定三年
 朝鮮
   ・高句麗=平原王七年
   ・百済=威徳王十年
   ・新羅=真興王二十四年(開国十三年)
 欽明天皇
 和風諡号
 天国排開広庭天皇
 (あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
 別名
 志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇
 (しきしまのすめらみこと)
 この代に、
 百済より仏教が公伝
 任那が滅亡
 562年(欽明天皇二十三年)
 新羅に討伐軍
 退却
 高句麗にも軍を送った
 「日本書紀
 継体天皇廿五年
 『百済本記』を引用した記事に
 「百濟本記爲文 其文云
  大歳辛亥三月
  軍進至于安羅
  營乞乇城 是月
  高麗弑其王安
  又聞
  日本天皇及太子皇子
  倶崩薨
  由此而言
  辛亥之歳
  當
  廿五年矣」
ーー
 楊爽(ヨウソウ・563年〜587年)
 隋の皇族・衛昭王
 文帝楊堅の異母弟
 字は師仁
 小字は明達
 楊忠の子
 北周のとき、父の軍功により、
 赤子でありながら
 同安郡公に封
 六歳のときに楊忠が死去
 楊忠の正妻の呂氏に養育
 十七歳
 内史上士
 580年
 楊堅北周の政権を掌握
 楊爽は大将軍・秦州総管
 赴任する前に、
 蒲州刺史に転じ、位は柱国
 581年
 隋が建国
 衛王に立てられ
 雍州牧に転じ、左右将軍を兼ねた
 右領軍大将軍に転じ、并州総管を兼ねた
 582年
 上柱国に進み、涼州総管に転じ、
 行軍元帥
 七万の兵で突厥に備え平涼に進出
 583年
 北伐し、元帥
 河間王楊弘・豆盧勣・竇栄定・高熲・虞慶則らの
 諸将が道を別にして進攻し、みな楊爽の節度を受けた
 楊爽みずからも
 李充節ら四将を率いて
 朔州に進出し、
 沙鉢略可汗と白道で遭遇し、撃破
 沙鉢略可汗は逃走
 文帝は楊爽に梁安県の1000戸を食邑として与えた
 586年
 再び元帥
 十五万の兵を率いて、
 合川に進出し、突厥軍が逃走
 587年
 納言
 楊爽が病床に伏
 文帝は巫者の
 薛栄宗を派遣し
 多くの鬼が病の原因であると見立てた
 楊爽が側近たちに鬼を祓わせると、数日後に
 薛栄宗は鬼物に襲われ、階下に逃げて倒れ死去
 その夜のうちに楊爽も死去
 享年は25
 太尉
 冀州刺史の位を追贈
 子の
 楊集が後を嗣ぐ
 楊集
 字は文会
 初封は遂安王
 衛王を嗣ぐ
 楊素の告発を受けて流刑
 伝記資料
 「隋書・巻四十四・列伝第九」
 「北史・巻七十一・列伝第五十九」
ーー
 「高孝瑜(537年〜563年)」
 中国の北斉の皇族
 河南康舒王
 高澄の長男
 母は宋氏
 字は正徳
 河南郡公
 550年
 北斉建国
 河南郡王
 中書令・司州牧を歴任
 高歓に養育
 高湛と同年で仲良
 560年
 楊愔らの処断にあたって、
 孝瑜はその計画に加担
 高湛(武成帝)が即位すると、高い礼遇を受けた
 文学を愛し、読書は早く、十行をいちどに読んだ
 孝瑜は「趙郡王高叡の父高琛は非命に斃れました。趙郡王と親しくしてはいけません」と武成帝に言った。
 高叡と和士開は孝瑜を憎んだ
 爾朱御の娘で名を
 摩女、太后に仕えていた女性であったが、
 孝瑜は彼女(摩女)と密通
 武成帝の激怒に触れ
 孝瑜は車に乗せられ、毒を飲まされ
 西華門で苦しみだし、水に身を投げて絶命
 後、太尉・録尚書事の位を追贈
 子の
 高弘節が彼を嗣いだ
 孝瑜の母の宋氏は、
 北魏の吏部尚書宋弁の孫
 もとは
 東魏の潁川王元斌の妃
 宋氏は高澄と再婚して孝瑜を産み、
 太妃となった
 孝瑜の妃の盧氏は、盧正山の娘
 武成帝の
 胡皇后の内姉
 孝瑜が死去した後、
 宋太妃は盧妃の讒訴で武成帝に殺された
ーー
 史寧(シネイ・?〜563年)
 中国の北魏から北周にかけての軍人
 字は永和
 本貫は建康郡表氏県
ーー
 徐世譜(ジョセイフ・509年〜563年)
     ヨセフ(Joseph)だろ・・・?
 南朝梁から陳にかけての軍人
 字は興宗
 本貫は巴東郡魚復県
 554年(承聖三年)
 西魏軍が江陵に侵攻
 世譜は馬頭岸に駐屯して、
 龍洲に拠った
 元帝により
 侍中・使持節・都督江南諸軍事
 鎮南将軍・護軍将軍の位を受けた
 江陵が陥落すると、世譜は東に下って侯瑱を頼った
 555年(紹泰元年)
 侍中・左衛将軍
 陳霸先が王琳と戦うにあたって、
 水戦の準備は世譜に任せられた
 558年(永定二年)
 護軍将軍の位
 559年(永定三年)
 陳の文帝が即位
 安右将軍
 561年(天嘉二年)
 使持節・散騎常侍・都督宣城郡諸軍事
 安西将軍・宣城郡太守として出向
 召還されて安前将軍・右禄大夫
 病のために失明
 563年(天嘉四年)五月に死去
 享年は五十五
 諡は桓侯
 伝記資料
 「陳書・巻十三・列伝第七」
 「南史・巻六十七・列伝第五十七」
ーー
 欧陽頠(歐陽頠・498年〜563年)
 南朝梁から陳にかけての軍人
 字は靖世
 本貫は長沙郡臨湘県
ーー
 侯莫陳崇(こうばくちん すう・?〜563年)
 中国の西魏の軍人
 字は尚楽
 本貫は代郡武川県。
ーーー
  渤海

 668 高句麗平壌城陥落、鴨緑江以北の半分以上の城は抗戦  
 669 高安勝は4000戸余りを率いて新羅に亡命
   剣牟岑と亡命政府樹立
 670 高句麗新羅連合軍が鴨緑江を渡り、唐軍を撃破
 677 安東都護府を再び新城(遼寧省撫順)に移す
   宝蔵王、唐から帰還し、
   小高句麗を建設後、復興運動を図る
 686 唐は宝蔵王の孫・高宝元を朝鮮郡王に奉じ、
   高句麗流民達の反発を融和しようとした
 698 大祚栄が東牟山に移り、
   振国を建てる・高王
 699 唐は宝蔵王の子
   高徳武を安東都督に任命
   高句麗の旧住民は渤海に吸収
 713 国号を渤海に改める
 719 高王が死亡し、子の
   大武芸が即位する
 732 渤海が張文休と水軍を送り、
   唐の登州を攻撃
   他方、陸路で馬都山を攻撃・武王
 733 唐の要請で新羅渤海の南側を攻撃
   退却・旧国から顕州に遷都
 737 武王が崩御、子の
   大欽茂が即位
 739 岨要徳を日本に使臣として送る(2次)
   彼の職責は若忽州都督
   若忽州は
   木底週・玄莵州とともに
   62州を設置する前の高句麗式名称・文王
 756 安禄山の乱を避け、顕州から上京に遷都
 759 この期間に日本は
   「渤海」を「高麗」と呼称
 762 唐で王を渤海郡王から渤海国王に奉ずる
 771 壹萬福を日本の使臣に送る(7次)
   この時、持参した国書にて
   天孫を自称し、両国を舅婿の関係に規定
 776 史都蒙を日本に使臣として送る(9次)
   この時、彼が
   南海府
   吐号浦から出向したとされ、初めて五京の名が出た
 777 貞恵公主(737〜777)が死亡
   780年11月に葬式
 780 東京から上京に遷都
 790 新羅
   伯魚を渤海に使臣として派遣
 792 貞孝公主(757〜792)が死亡
   同年11月に葬式
 793 文王が死亡
   弟の
   大元義が即位
 793 大元義が一年で死去
   大宏臨の子
   大華璵が即位・大元義
 793 即位後に東京から上京に遷都・成王
 794 成王が崩御
   文王の子
   大嵩が即位・康王
 795 呂定琳を日本に使臣として送る(14次)
   この時の国書にて
   康王が
   「命を取り留め、王位についた」と言及
 798 日本から6年に一度づつ使臣を派遣しろと通報
   大昌泰を日本へ使臣として送る(14次)
   この時の国書で、
   康王が
   「教化に従う真面目な心は
    高氏からその足跡をたどることが出来る」と表記
 818 簡王が一年で崩御
   従夫であり、
   大野勃の四世孫の
   大仁秀が即位・宣王
   818〜820 新羅方面と遼東方面を攻略
 828 日本が渤海新羅との私的な貿易を禁止
 832 唐の使臣
   王宗禹が帰国し、
   左右新軍、左右三軍、二十司を置いた事実を
   絵に書いて報告・大葬震
 834 過去に許王府の参軍・騎都衛であった
   趙文休の母・李氏が碑像を作る
   唐の使臣
   張建章が渤海に到着、翌年帰国
 841 賀福延を日本に使臣として送る(24次)
   この時送った
   中台省牒写本が日本に残っている
   この中で、渤海と日本を遼陽と日域に対比
 849 王文矩(20次)が日本から帰国した時に
   もらって来た国書にても
   渤海と日本を遼陽と日域に対比
 845〜 渤海人、
    唐の賓貢科(外国人向け科挙)に及第し始める
 859 渤海の使臣
   烏孝槇(26次)が日本に
   長慶宣明暦を伝え、
   日本で1684年まで使われる・大虔晃
 861 渤海の使臣
   李居世(27次)が日本に
   不頂尊勝陀羅尼経を伝える
   石山寺に残る
 872 烏孝度が唐の賓貢科に及第
   この時、
   新羅
   李同より上に名が出る・大玄錫
 897 唐の賀正使として行った王子
   大封裔が新羅よりも上席を要求したが、
   唐が許さず・大皆
 906 烏光賛が唐の賓貢科に及第する
 908 日本の大江朝江が
   渤海使臣(33次)に渡した文書にて、
   渤海の使臣を「遼水の客」と表現
 911 渤海新羅などの国々と
   秘密裏に連携を結ぶ
 918 王建が高麗を建国
 925 将軍
   申徳など500名が高麗に行く
   この時から渤海人の高麗亡命が始まる
 926 渤海契丹に滅ぼされる
 926 後渤海国建国
   契丹東丹国を建設  
 935 後渤海国の王子
   大光顕が主力を率いて高麗に投降、滅亡
   農民達は旧来の地に残り、
   後に
   女真に吸収
   定安国建国
 985 定安国、五ヶ月の戦闘の末、契丹に滅ぼされる
 996〜1116
ーーー
 岷山の隠士
 国枝史郎
 青空文庫
  ↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43773_19492.html
ーーー