1329日目・・・弾薬の供与・・・「くりすます・イヴぁのプレゼント」・・・デフレ脱却の後はインフレである・・・ナゼ、「高橋是清」は「高・橋・是・清」なのか?・・・コウキョウゼセイ・・・
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ウイッキペデアより参照、参考抜粋、少々改作添付・・・
高橋是清
1854年9月19日
嘉永七年閏七月二十七
〜
1936年
昭和十一年二月二十六日
仙台藩士
立憲政友会第四代総裁
第二十代内閣総理大臣
在任
1921年
大正十年十一月十三日
〜
1922年
大正十一年六月十二日
子爵
幼名は和喜次(わきじ)
幕府御用絵師
川村庄右衛門(四十七歳)手付きの
きん(十六歳)の子
「きん」は
江戸
芝中
門前町(東京都港区芝大門)に生れ
父は
芝白金の
代々の
魚屋の
三治郎
是清は生後
仙台藩の
足軽
高橋覚治の養子となった
↓
横浜のアメリカ人医師
ヘボンの私塾(明治学院大学)で学び、
1867年(慶応三年)
勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外留学
横浜に滞在のアメリカ人の貿易商、
ユージン・ヴァン・リードに
学費や渡航費を着服され、
ホームステイ先である彼の両親に騙され
年季奉公の契約書にサインし、
オークランドの
ブラウン家に売られ奴隷となる
1868年
明治元年
帰国
1873年
明治六年
森有礼の推薦で文部省に入省
十等出仕
共立学校(開成高校)の初代校長を一時務めた
教え子には
正岡子規
秋山真之(海軍中将)など
1884年
明治十七年
農商務省外局の
特許局、初代局長
1889年
明治二十二年
ペルーで銀鉱事業
失敗
1892年
明治二十五年
川田小一郎の推薦で
日本銀行に入行
日露戦争 (1904〜1905)
日銀副総裁
秘書
役深井英五を伴い、
戦費調達の為に
戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった
交渉の結果、
ジェイコブ・シフなどが
外債を引き受け、公債募集は成功
1905年
明治三十八年
貴族院議員に勅選
1911年
明治四十四年
日銀総裁
1913年
大正二年
第一次
山本内閣の大蔵大臣に就任
立憲政友会に入党
政友会の
原敬が組閣した際にも大蔵大臣
原の暗殺直後、
第二十代内閣総理大臣
立憲政友会の第四代総裁
閣内不統一で瓦解
総理大臣となった憲政会総裁の
加藤高明は、高橋を農商務相に任命
第15回衆議院議員総選挙に盛岡から出馬し
49票差で当選
政友会総裁を
田中義一に譲り引退
1927年
昭和二年
昭和金融恐慌
第一次
若槻内閣に代わって
組閣した田中に請われ
三度目の蔵相就任
日銀総裁となった
井上準之助と
支払猶予措置(モラトリアム)を行い
片面だけ印刷した急造の
200円札を大量に発行し、
銀行の店頭に積み上げ、
預金者を安心させて金融恐慌を沈静化
1931年
昭和六年
政友会総裁・犬養毅が組閣で
四度目の蔵相就任
金輸出再禁止(十二月十三日)
日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、
世界恐慌により混乱する
日本経済を
デフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)
五・一五事件
犬養暗殺
総理大臣を臨時兼任
続いて
斎藤実が組閣した際も五度目の大蔵大臣就任
1934年
昭和九年
岡田啓介首班の内閣にて六度目の大蔵大臣就任
リフレーション政策は成功していたが、
これに伴い
高率のインフレーションの発生が予見されたため、
これを抑えるべく
軍事予算の縮小を図った
軍部の恨みを買い、
二・二六事件で
赤坂の自宅
二階で反乱軍の
青年将校らに胸を
6発撃たれ、暗殺
享年82歳
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