1279日目・・・「182=壱八弐」ダン・・・長いねッ・・・ワケがあるんだろう・・・

 「1+8++2」は「11=十一・壱拾壱・壱壱=X+I」で、漢字なら「土・士」で、十二支」は「亥・猪」・・・
 「1×8×2=16=十六=一六=壱六=拾六=足陸=X+V+I」は「拾六(亠+八)」、「十二支」は「12+4=16」で「辰・龍」・・・「第十六代は仁徳天皇(大鷦鷯尊)」・・・「壱、足す(+)六は七」、「壱拾陸=ハジメを拾う陸(阜+土+儿+土)」、「淡路島」、だから・・・「数字を踏まえてヨメ」、ッて・・・
 ・・・「11」はそれ「自身の数」でしか割り切れない「素数」だし、「16」は「2・4・8」でしか割り切れない・・・人間社会での「割り切れないハナシ」はイクラでもアルし・・・割り切れないハナシは「余り」にも多い・・・そして、割り切れない「余りの数字」も「分数」で考えた・・・「余りの分け前」・・・「アマリにもの分け前」・・・
 「not see why ・not convinced ・not satisfied ・Be dissatisfied」・・・
 「the remnant・the rest・the remainder」・・・
 加減乗除の計算が
 「addition(加)、 subtraction(減)、multiplication(乗)、division(除)」・・・
 答えは
 「summation(和)、 difference (差)、product(積)、quotient(商)」・・・
 アマリとノコリは「除」にしかないのはアタリマエと言うモンなのか・・・
 「multiplication(m`ʌltəplɪkéɪʃən)」はボクの耳には「マルタフケーション」と聴こえる・・・「丸太付懸得書務」・・・
 「quotient(kwóʊʃənt)」は「コォシャント」・・・「考写務徒」・・・
 「数学」を勉強していた江戸時代の「和数学者」は「漢数字」を使用していたけれど「算盤・十露盤(ソロバン)」も利用していた。勿論、「商人(あきんど)」も、「両替商」も・・・儲けは「除」の計算と「商」の答えの「余り」がないと出てこない・・・
 そして、あまりにも「同音異字漢字」が多すぎる、である・・・
  素数 =2・3・5・7・11・13・17・19・23・29・・・・「1」とそれ自身以外に「約数 =訳数」を持たない「数字=趨字」・・・「既約数 =紀躍数・記趯数・基 約数 →旧約の数」・・・「 因数分解=音数文解」・・・「ある正の整数」に対して、「素因数分解」は「一通り」しか存在しないという「数」にもかかわらず、「無限に存在する数」・・・
 「indivisible・unconvincing・incomprehensible・unaccounted for」・・・
 割り切れないモノは捨てられるか、「四捨五入→死者悟入(誤入)」されるんだ・・・で、「四捨」は「乞食、ルンペン、ホームレス」、そして「企業家」に・・・いずれも「生きている間は孤立」じゃぁないョ・・・ダレかが「拾って」くれるのが「人間社会」・・・でも、「氷の上」に「捨て子」にはしないでクレッ・・・「拉致、誘拐」しないでクレッ・・・
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 枕草子
(一八二段)・・・百八十二段・壱佰八拾弐段・壱八弐段・壱陌捌足仁段
         1+8+2=11=十一=一一=壱壱=拾壱=足壱
         1×8×2=16=十六=一六=壱六=拾六=足陸

 ・・・以下の「」の中の「文字」をスベテ同音異字に替えて「ゴジュウ」に「音訓でヨン」でみる・・・面倒くさいから「ボク」はやめた・・・勝手に・・・どうぞ・・・元文の「」もあるので「・・・「XX」・・・」は二重になっているところの外は元々の原文の「」・・・
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 「宮」に始めて參りたるころ、
 物の「恥しき」こと「數知らず」、
 涙も落ちぬべければ、
 「夜」「々」まゐりて、
 「三尺」の「御几帳」の「後」に侍ふに、
 「繪」など取り出でて見せさせ給ふだに、
 「手」もえさし出す「まじうわり」なし。
 これはとあり、
 かれは「かかり」「など」の「給は」するに、
 「高杯」にまゐりたるおほとの「油」なれば、
 「髮」の「すぢ」なども、
 「なか」なか「晝」よりは「顯證」に見えて「まばゆ」けれど、
 「念じ」て見などす。いと「つめ」「たき」ころなれば、
 さし出させ給へる「御手」の「わづか」に見ゆるが、
 いみじう「匂ひ」たる「薄紅梅」なるは、
 「限」なく「めでたし」と、
 見知らぬ「さとび」「心地」には、
 いかがはかかる人こそ世におはしましけれど、
 「驚か」「る」るまでぞ「まもり」「まゐら」する。
 「曉」には「疾く」など「急が」るる。
 「葛城の神も暫し」など仰せらるるを、
 「いかで」すぢかひても「御覽ぜん」とて「臥し」たれば、
 「御格子」もまゐらず。
 「女官」まゐりて、
 「これはなたせ給へ」といふを、
 女房聞きてはなつを、
 「待て」など仰せらるれば、
 「笑ひ」て「かへり」「ぬ」。
 物など問はせ給ひの給はするに、
 「久し」うなりぬれば、
 「おりま「ほしう」なりぬらん、さ早」とて、
 「「よさり」は「疾く」」と仰せらるる。
 「ゐざり」「歸る」や「遲き」とあけちらしたるに、
 「雪」「ふり」にけり。
 今日は「「晝つかた」參れ、
 雪にくもりてあらはにもある「まじ」」など、
 たびたび召せば、
 この「局」「主人」も、
 「さのみや「籠」り「居」給ふらんとする。
  いとあへなきまで御前許されたるは、
  思しめすやうこそ「あらめ」。
  思ふに「違ふ」は「にくき」ものぞ」と、
 唯いそがしに急がせば、
 「我」にもあらぬ心地すれば、
 參るもいとぞ「苦しき」。
 「火燒屋」のうへに降り「積み」たるも「珍し」う「をかし」。
 「御前」「近く」は、
 例の「炭櫃」の火こちたくおこして、
 それにはわざと人も居ず。
 宮は「沈」の「御火桶」の「梨繪」したるに向ひておはします。
 「上臈」御まかなひし給ひけるままに近くさぶらふ。
 「次」の「間」に「長炭櫃」に間なく居たる人人、
 「唐衣」「著」「垂れ」たるほどなり。
 「安らか」なるを見るも「羨しく」、
 「御文」とりつぎ、
 立ち居ふるまふさまなど、
 「つつ」「ましげ」ならず、
 物いひゑみわらふ。
ーー↓
 いつの世にか、
 さやうに「交ひ」ならんと思ふさへぞつつましき。
 あうよりて、
 「三四」「人」「集ひ」て繪など見るもあり。
ーー↓
 「暫時」ありて、
 さき高うおふ「聲」すれば、
 「「殿參」らせ給ふなり」とて、
 「散り」たる物ども取りやりなどするに、
 「奧」に引き入りて、
 さすがに「ゆかしき」「なめり」と、
 「御几帳」のほころびより「僅」に見入れたり。
 「大納言殿」の參らせ給ふなりけり。
 「御直衣」「指貫」の「紫」の「色」、
 「雪」に「はえ」てをかし。
 柱のもとに居給ひて、
 「昨日今日「物忌」にて侍れど、
  雪のいたく降りて侍らば、
  「おぼつか」なさに」などのたまふ。
 「「道」もなしと思ひけるに、
  いかでか」とぞ「御答」あなる。
 うち笑ひ給ひて、
 「あはれともや御覽ずるとて」などの給ふ「御有樣」は、
 これよりは「何事」か「まさ」「らん」。
 「物語」にいみじう口にまかせて言ひたる事ども、
 違はざめりとおぼゆ。
 宮は「白き」「御衣」どもに、
 「紅」の「唐綾」「二つ」、
 白き「唐綾」と奉りたる、
 「御髮」の「かからせ」給へるなど、
 「繪」に「書き」たるをこそ、
 「かかる」ことは見るに、
 「現」にはまだ知らぬを、
 「夢」の心地ぞする。
 女房と物いひ「戲れ」などし給ふを、
 答いささか恥しとも思ひたらず聞えかへし、
 「空言」などの給ひかくるを、
 爭ひ論じなど聞ゆるは、
 目も「あや」に、
 あさましきまで、
 あいあく面ぞ赤むや。
 「御菓子」まゐりなどして、
 御前にも參らせ給ふ。
 「御几帳の後なるは誰ぞ」と問ひ給ふなるべし。
 さぞと申すにこそあらめ、
 「立ち」ておはするを、
 「外」へにやあらんと思ふに、
 いと近う居給ひて、
 物などの給ふ。
 まだ參らざりしとき聞きおき給ひける事などの給ふ。
 「「實」にさありし」などの給ふに、
 御几帳「隔て」て、
 よそに見やり奉るだに恥しかりつるを、
 いとあさましう、
 さし向ひ聞えたる心地、
 「う」「つつ」とも覺えず。
 「行」「幸」など見るに、
 「車」のかたにいささか見おこせ給ふは、
 「下簾」ひきつくろひ、
 「透影」もやと「扇」をさし「隱す」。
 「猶」いと我心ながらも、
 おほけなくいかで立ち出でにしぞと、
 「汗」「あえて」いみじきに、
 何事をか聞えん。
 「かしこき」「かげ」と捧げたる扇をさへ取り給へるに、
 「振り」「かく」べき「髮」の「あや」「しさ」さへ思ふに、
 すべて「誠」にさる「氣色」やつきてこそ見ゆらめ、
 疾く立ち給へなど思へど、
 扇を手まさぐりにして、
 「繪は誰が書きたるぞ」などの給ひて、
 「頓」にも立ち給はねば、
 「袖」を「押し」あてて、
 「うつ」「ぶし」居たるも、
 「唐衣」に「しろい」物うつりて、
 「まだら」にならんかし。
 久しう居給ひたりつるを、
 「論」「なう」苦しと思ふらんと心得させ給へるにや、
 「これ見給へ、
  これは誰が書きたるぞ」と聞えさせ給ふを、
 嬉しと思ふに、
 「賜ひて見侍らん」と申し給へば、
 「猶ここへ」との給はすれば、
 「人をとらへてたて侍らぬなり」との給ふ。
 いと「いま」「めかし」う、
 身のほど年には合はず、
 「かた」「はら」「いたし」。
 人の「草」「假」字書きたる「草紙」、
 「取り」出でて「御覽」ず。
 「誰がにかあらん、
  かれに見せさせ給へ。
  それぞ世にある人の手は見知りて侍らん」と「怪しき」事どもを、
 「唯」答させんとのたまふ。
 「一所」だにあるに、
 「又」「さき」「うち」おはせて、
 同じ直衣の人參らせ給ひて、
 これは今少し「花やぎ」、
 「猿樂」ことなどうちし、
 「譽め」笑ひ興じ、
 我も、
 なにがしがとある事、
 かかる事など、
 「殿上」人のうへなど申すを聞けば、
 猶いと「變化」の物、
 「天人」などのおり來るにやと覺えてしを、
 侍ひ「馴れ」、
 日ごろ「過ぐ」れば、
 いとさしもなきわざにこそありけれ。
 かく見る人々も、
 家のうち出で初めけん程は、
 さこそは覺えけめど、
 かく「爲」もて「行く」に、
 おのづから「面」「馴れ」ぬべし。
 物など仰せられて、
 「我をば思ふや」と問はせ給ふ。
 御いらへに、
 「いかにかは」と啓するに合せて、
 「臺盤」「所」の「かた」に、
 「鼻」を「たかく」「ひ」たれば、
 「あな心う、
  「虚言」するなりけり。
  よしよし」とていらせ給ひぬ。
 いかでか「虚言」にはあらん。
 よろしうだに思ひ聞えさすべき事かは。
 「鼻」こそは「虚言」しけれとおぼゆ。
 さても誰か「かく」「にく」「き」「わざ」しつらんと、
 大かた「心」「づき」なしと覺ゆれば、
 わが「さる」「折」「も」、
 「おし」「ひしぎ」「かへし」てあるを、
 ましてにくしと思へど、
 「まだう」「ひ」「うひ」しければ、
 ともかくも「啓」し「なほ」「さ」「で」、
 「明け」「ぬれば」おりたる「すな」「はち」、
 「淺緑」なる「薄樣」に、
 「艶」なる「文」をもてきたり。
 見れば、
ーー↓
   いかにして
   いかに知らまし
   いつはりを
   そらに
   ただすの
   「神」
   なかりせば
ーー↓
 となん、
 御「けし」「き」はとあるに、
 めでたくも口をしくも思ひ亂るるに、
 なほ「昨夜」の人ぞ「たづね」聞かま「ほしき」。
ーー↓
   うすきこそ
   それにも
   よらね
   はなゆゑに
   「うき」身の程を
   知るぞ
   「わび」「し」「き」
ーー↓
 猶こればかりは啓しなほさせ給へ、
 「職」の神もおのづからいと「畏し」とて、
 參らせて後も、
 うたて、
 「折」「しも」「など」て「さ」「はた」ありけん、
 いとをかし。
ーーーーー
 意図、可笑し・・・