1233日目・・・乾雲(カンウン)、坤龍(コンリュウ)、相響く・・・「関の孫六の作に、大小二口の稀代の業物がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅の柄に刀には村雲、脇差には上り竜の彫り物があるというところから、大を乾雲丸、小を坤竜丸と呼んでいる・・・乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品・・・二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝、乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかない・・・そして刀が哭く。

 ・・・離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐も三寸下がるという丑満のころになると、啾々としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出す・・・(林不忘原作・乾雲坤龍の巻)」
 「大陸=乾=北西」からの寒気団、「南シナ海=坤=南西」からの暖気団・・・日本列島の日本海側での衝突・・・「乾雲坤龍の説明」は、まるで「竜巻発生の気象予報」で、その結果の「惨状予告事象」である・・・
 「竜巻の発生」は積乱雲から垂れた尻尾と地上から這い登る頭が相互に呼応するように咬みあってその積乱雲をも回転させ地上のモノを破壊していった・・・「スーパーセル」・・・
 ブログ記事から抜粋すると・・・
 「気温が大きく変化するような境界を前線・・・寒気団(密度が濃い・重い)と、暖気団(密度が薄い・軽い)の境界が「前線」で、暖気が寒気の上に乗り上げたり、寒気団が暖気団に潜り込んで行く・・・熱い空気は上昇し、大地の圧力を下げ、冷たい空気は下降する。上昇した空気は、膨張して冷え、積乱雲を発生させ雨を降らせる・・・前線が移動し、寒冷前線温暖前線になり、動きの少ない停滞前線にもなり、前線面に別の前線が乗り上げた閉塞前線(三つ巴で3つの気団ぶつかった状態)になる」・・・である。
 「発生のメカニズム」は「学問」として「理解」出来るが、避けようが無い「自然災害」の「教訓」は「事後処理」である・・・事が起こった後、ドウするのかである・・・予報で「避難」したとしても「被害」は避けられない・・・生き残ったモノには「災害事後の救援援助の備え」でしかありえない・・・自然災害は諦めもつくが、「人災」は諦めるワケにはいかない・・・「人災」は避けられるべきモノだからである・・・「戦争」も「人災」である・・・もちろん、「原発事故」も・・・
 物価は上昇し、公共料金も値上げ、消費税でもムシリトル・・・そして「TPP」・・・江戸時代なら「打ちこわし」の予兆が始まる・・・
TVの「未来世紀ジパング・五輪のライバル“親日"トルコに異変!?」・・・あの暴動の裏には“アラブの春"を仕掛けた「革命輸出企業」がいた・・・ 世界に独裁国家、暴政国家に「革命指南」で「商売」をしている「革命屋」が「ユーゴスラビア」にいるとの「報道」で「土耳古」の暴動にも関係しているらしいとのコトだが・・・「パトリック・ハーラン(Patrick Harlan)=パックン」がゴク当たり前の「民主主義としてイイんじゃないの」の発言に、その「ノウハウ」は「独裁暴政側にも利用される恐れも有る」と言っていた奴がいた。当然「革命書籍」も儲けなくしては出版会社は潰れるのだ。亜米利加に「傭兵会社」の「戦争屋」が存在し、この「傭兵会社」はアフリカで「敵対国双方」から依頼されて「傭兵」を双方の国家へ派遣、「戦争現地で指導」をしていたコトを知らないらしい。同じ会社の「傭兵」が現地で敵対し殺し合いの指導をしてたのだ。ビジネスで・・・イラク戦争ではブッシュ政権イラクに「傭兵会社」と契約して「傭兵」を派遣していた。今現在も「兵站運送員」等との名称はどうであれ「アメリカ正規軍」支援の「民間企業」として「戦争請負人」として「殺し稼業」をしているのである。
 「日本国憲法」は
 「1946年11月3日(昭和二十一年十一月三日)」
 発布であった。
 「朝鮮戦争勃発」は
 「1950年6月25日」
 であった。
 「日本の独立」はサンフランシスコ平和条約
 「1951年9月8日調印、
  1952年4月28日発効」
 であった。
 「朝鮮戦争休戦」は
 「1953年7月27日」
 であった。
 「日本国憲法」があっても「天佑」であった「戦争ビジネス」を「国家」でやって「国民(?)」は「喰っていた」のである。
 朝鮮戦争の現場でも「戦時物資輸送員=兵站傭兵」として「アメリカ政府」と「日本民間企業」の秘密契約として「日本人(?)」は派遣されたのだ。「朝鮮現地で作業事故死した日本人LST乗組員を米軍は、海兵隊員(mariner)と報告(外務省外交資料・遺体処理・1951年9月13日付)」・・・
 「アメリカ政府」は「国内軍事法、国際軍事法」では縛られない「人権」が安くて安全な「傭兵」を使っている?同じ事は敵国の「捕虜(敵国兵隊?・民間人?・スパイ?)」の扱いも「アメリカ本国」ではなく「グァンタナモ基地」である・・・戦場でしか生きられなくなった人間が「戦争ビジネス」で「生活費」を稼ぐのは当たり前である。世界が「儲ける」と言う「思想」で動いている限り当然、「ビジネス」なのである。このTV番組に出て発言していた「日本人」には自分の「ビジネスの立場」に無自覚な奴なんだろう。「トルコ暴動」をネタにして「喰っている」のお前もだろう・・・「土耳古」が「世界の中心になる」とは「資本主義経済のビジネスで地政学位置」にあることを「自覚」しているのに自らの「生活基盤」が戦争を含めた「ビジネスの枠内」にあることふっ跳ばしている・・・その枠内であったとしても「パックン」は「民主化ビジネス」と捉え返している・・・?・・・
ーー
 「漢字漢音」、「漢字呉音」、「漢字唐音」が「発生地点を中心」に「周辺地方」に波及していったらどうなるのか・・・?・・・「中心部の漢字発音が変化」すれば、また「波状的にその音声発音」が「文字」自体は変わらず、「音声発音」のみの「変化」が「周辺地方」に伝播していくだろう・・・
 情報伝達の電子機器が無かった当時も今も、あらゆる「情報伝達」は「コトバ」のヤリトリであるが、当時の時間的系列では「同一漢字文字」の「新しく変化した発声音」は地域状況もあるだろうが「発生中心部」から離れるほど受け入れられるのが遅くなったであろう。しかも「漢字」を読む「発声音声」は「旧い発音」に慣れ、それを最初に学んだ人間ほど「発音変化」には保守的になるだろう。人間が歳をそれなりにとれば新しいナガレについて行けず、違和感を感じるのはどの時代でも同じであるだろう。だから「旧い漢字音」は、時間経過しても、その「発生中心部」より「遠方地方」に残るであろう。そして波及した地方の「政治状況」である。日本では歴史的に「坊主の読経習得」に「呉音」を禁止して「漢音」を優先させた・・・勿論、旧い「漢字字形」も残るであろうが、「漢字」を通訳した「訓読み」の必要性は「表音字形」として、その地方独自に「文字変形」されていく・・・「片仮名・ひらがな」は「音」からのみ、その「日本語」の「意味」が解る。だが、あらゆる「文字」は「表意文字=絵」から始まった・・・「音声コトバ」は「絵文字」以前に獲得され、その「絵文字」に「音声コトバ」を与えたのである。それを「理解する共同体」が形成された。そして、それは他の共同体へと「波及」した。「漢字」は「表意文字=形」であり「表音文字=音」でもある。「文字」も「音声」も「他共同体」に普及したが、当初は対象物に対する「言語音」が異なっていた。「アップル」が「リンゴ」で、当然「文法上のコトバの順序」も異なっていた。「漢字文字の意味」を理解するには時間がかかったろうが、「漢字」は元々が「絵」である。「絵=字形」が理解されれば「音→絵←異音」だが、「絵=文字の意味内容」は同じモノとして理解されたであろう。「文字の理解度」・・・先進共同体の「文明」、「文化」の波及とは、その「文字字形」の「理解度」である。そして日本では漢字を勉強し、その知識を持った人間が「万葉仮名=借字」で「日本語」を記録したのだ。「音」だけではない。「漢字の意味」をも「選択」したのである。「ア・イ・ウ・エ・オ」の「一音」にも「日本語」の意味があり、その「意味」の「漢字」を選択した・・・不思議と思うのだが「万葉歌」を「漢字の意味」で読んだ「人間(学者・研究)」はいないらしい・・・?・・・和歌の「同音異義ことば」を懸ける技法が頻繁に駆使され作られているのに・・・コレって「日本文化」だろうに・・・
 そして「時代」は「中心部」から遠方の「後進地域」へ、いきなり「新情報機器」を持ち込んでいる。電線が普及していない「後進地方」ほど「電波機器=携帯電話」の普及度は速くなっているのは当然至極である・・・「文明・文化」の「地方」への拡散は、原則「交易での儲けの拡大」である・・・
 イズレの「儲け」も「価値の差額」から出る。市場での儲けは本来、「物」の「使用価値→交換価値←使用価値」の「交換価格」から生じる。その「交換物」を媒介するモノは「貨幣・紙幣・クレジットカード」である。本来は殆んど「使用価値の無い物」である。ただ、それを「価値」として支えているのは「人間社会の相互約束上の信用」と言う「約束事」のみである。もっと言えば「国家」の、「国家間」の「約束事」に支えられているように見えるが「数字」は「為替市場」、「証券市場」、「商品市場」の「自由な取引=博打」の「不安定な所」で決定されているのである・・・
 儲け・・・前提的に「相互に交換物」が必要で、尚且つ「相手の購買力」が無くては無理である。「安価」が条件だが今現在の「購買力」が無くても、その人間の「将来的労働力」を担保に「前借・借金」の「経済方法」をも「波及」させた・・・「大衆社会の文明文化」への地球規模の波及原則は「薄利多売」である・・・常に「厚利少売」を狙うのは「支配階級」と結託した「御用商人」である・・・そして「御用商人」が「カネの力」で「支配者」を操るようになった・・・「戦争」で儲ける「人間」が存在する。「人間同士のトラブル」で儲ける「人間」が存在する。「人間社会」にとって「余剰価値」を還元せず「使用価値の無い人間」が存在する・・・ダレなのか・・・「正当な金貸し」を標榜し、「資本の枠内」で儲けようとする「半沢の意識」を持つ「人間」である・・・
 「漢字の波及」・・・中国大陸→半島→九州→近畿→関東→東北→蝦夷・・・「方言」・・・ドッと明治維新後、各地方から北海道へ移民した人々とともに「多方言(異言語)」が流れ込んで、混乱もあったろうが、「漢字音の読みの変化」はそれほどなかったのに違いない。だが国家的規模の「明治民族」の形成には「明治標準語」の確率と普及は急務だった。
 幕末、「アイヌ語」に「無理に漢字音?」を当てた・・・「当て字」は逆に「漢字文字の音」の「読み」に影響を与え混乱したが・・・多分、当てた「漢字」には、「音」のみならず、その人物にとっては「意味のある漢字」であったのに違いない・・・「同音異義漢字」はクサルほどあった・・・アイヌ語の「蝦夷地名」に選択された「漢字」には、その「アイヌ語の意味」は勿論、彼の意図する「裏の意味」が込められていたハズ・・・である・・・?
ーーーーー
 枕草子
 (一二七段)・・・百二十七段・壱佰弐拾七段・壱弐七段・陌念漆段
          1+2+7=10=十=拾=壱拾=足
          1×2×7=14=十四=壱拾四=足肆

 あつげ・・・ア−つ−げ
      「厚・熱・暑・篤」意の「通」の「解」
       蛙(ア・かえる)通解
       亜(ア・あまねし)通解
       唖(ア・おし)通解・・・手話
       鴉(ア・からす)接げ・・・「韓・唐」州
       阿(ア・くま・よこしま)告げ
       Y(ア・ふたまた)通解・・・柘植・柘
         Y=ワイ
          「話・和・倭・羽・輪・環・把」意
           大和・倭人・奥羽・三輪・把握
 なる・・・納留・名留・拿留
      鳴る・生る・成る・為る
 もの・・・
 隨身の・・・ズイ−シン−の
       ツイ−シン−の
      「追伸・追申」之
       随所・随処・随神・隋道・隋書
      「隋・髄・瑞・蕊・蘂・事意」審之       
 長の・・・・おさの・チョウの
ーーーーーーー↓
       訳語之
       すぐり=主村・勝村
           選り・勝り・優り
       古代朝鮮語で村長の意
       古代の姓(かばね)の一
       多く渡来人系の氏族に与えられた
       漢帰化族の西文氏族の村主氏
       百済氏族の村主氏と二系統
ーーーーーーー↓古代の氏姓
       公・君(きみ)
       臣(おみ)
       連(むらじ)
       直( あたい)
       首(おびと)
       史(ふひと)
       村主(すぐり)
ーーーーーーー↓
       氏姓
       血筋や家系
       株根(かぶね)、株名(かぶな)など意味
       崇名(あがめな)より変化
       新羅の類似した制度
      「骨品制」より家系を表す
       骨を「かばね」と読んだもの・・・?
ーーーーーーー↓
       骨品制は王都のみで導入
       王都内部での氏族の序列制度
       就任可能な官職や
       結婚の自由
       利用可能な服職
       乗り物
       贅沢品
       家屋
       が骨品制によって決められた
       上位の骨品を持つ者だけが高級官僚になれる
       新羅百済高句麗を滅ぼしたときに、
       新羅に移住した
       百済高句麗の王族や貴族は
       等級を下げられて骨品を与えられた
       新羅の政治制度の骨格制度
       王族
       真骨(ジンゴル・シンコツ・まほね)
       日本語にも「真骨頂(シンコッチョウ)」
       父母共に王族に属する者
       聖骨(ソンゴル・セイコツ・ショウコツ)
          ひじりのほね
       新羅時代の事実上の貴族は「真骨」のみ
       その下に
       六頭品、五頭品、四頭品、平民の
       順番で序列が決められていた
ーーーーーーー↓
     新羅の官位制度
     「三国史記新羅本紀」官名
     「大輔」・・・最高位
      第三代
      儒理尼師今の九年(32年)
      下表の十七階級の官位(京位)が制定
      枠外の官位
      第二十三代
      法興王の十八年(531年)
     「上大等(上臣)」・・・宰相
      三国統一に功績のあった
     「金庾信」を遇するもの
      第二十九代
      武烈王
     (金春秋=キム・チュンチュ)
          キンシュンシュウ
          キンシュンジュウ
          こんのはるあき
          きむのはるあき
      七年(660年百済を滅ぼす)
     「伊伐飡(角干)」の更に上に
     「大角干(大舒発翰)」
      武烈王の息子の
      第三十代
      文武王
     (金法敏=キム・ホウビン)
          こんののりとし
      八年(668年高句麗を滅ぼす)
     「太大角干(太大舒発翰)」
      という位が設けられた
ーーーーーーー↓
      新羅王が新たに即位すると、
      最高官位の
      上大等
     (古くは大輔、舒弗邯)が任命
      三国統一の後にも
      上大等任命の慣習は続くが、
     「真徳女王(シントコジョオウ)」の代
      651年
      国家機密掌握の執事部が設けられ、
      その
      長官の
     「中侍」が政治体制の要となった
ーーーーーー↓
     京位
     首都金城に居住する
     六部の身分体系
     外位
     地方に移り住んだものの別途の身分体系
     百済高句麗を滅ぼした後、
     両国の遺民を取り込み
     唐に対抗していくため、
     京位・外位の
     二本立ての身分制度を再編
     673年
     百済から帰属してきた者のうち、
     百済
     二等官の
     達率で
     金城に移住した者に対しては
     京位十等の
     大奈麻(ダイナマ)に当て、
         おほなま
     地方に留まった者には
     外位四等の
     貴干を当てた
     674年
     外位を廃止して、
     京位に一本化
     唐との戦闘を終えて
     684年に
     報徳国を滅ぼして
     半島内の混乱を収拾
     686年
     高句麗人に対しても
     官位(京位)を授けた
     高句麗
     三等官の
    「主簿」に対して
    「京位七等」の
    「一吉飡」を当てた・・・
    「飡受」=「さんじゅ」
    「飡(サン・ソン)」は
    「飲む、喰らう」と訓む
    ・・・これなら「冫(氷)」+「食」である
    「氷(こおり)」を「食らう」であるが
    「音」を採れば
    「桑折・小折・郡」である・・・
    「郡=君+阝」は地域区分であるが、
    「郡」の文字と発音(訓)からは理解できそうだ
    「訖(おわる・キツ・コチ)=言+乞」も理解ありだ
    「迄(まで・およぶ・キツ・コチ)」
    「乾(かわく・いぬい・カン・ケン)」
    「吃(どもる・キツ・コチ)」に類似の漢字だが
     会話での言い出しの音が容易に発音できない
     ある音が何度も繰り返されたりするコトである
       ↓
     乞食→こつじき・こじき古事記
     日本書記・巻第三十
     高天原廣野姬天皇
     持統天皇
     少名
     鸕野讚良皇女
     天命開別天皇第二女也
     母曰
     遠智娘
     更名
     美濃津子娘
     ここに記されている人名・年月日・事件などに
    「?」をもたない「書記」読みはダメであろう・・・
ーーーーーー↓伊伐飡/角干(ソポル-チ-ハンキ)
     伊伐飡(イバツサン)
     角干(カクカン)
     第十六代
     訖解尼師今(キッカイニシキン)
           おわりげにしこん?
    (在位310年〜356年)
     明治の
     伊藤博文の名乗りは
     越智宿禰博文であった
     越智の「宿禰」の「博文」である
    「宿禰」は「古事記・日本書記」では
    「竹内(武内・建内)宿禰」である。
     武内 宿禰
     景行天皇十四年(84年)
       〜
     仁徳天皇五十五年(367年)四月?
     景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇
     五代の天皇
     棟梁之臣・大臣として、国政を補佐
     建内宿禰とも表記
     父は孝元天皇の皇孫、
     屋主忍男武雄心命
     (孝元天皇の皇子、
     比古布都押之信命・古事記
     母は木国造(紀伊国造)の女
     影媛
     紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの祖
     神号は
     高良玉垂命
     であった。
     その活躍の記録は
     第十二代景行天皇の時に北陸・東国を視察
     蝦夷の征討を進言
     第十三代成務天皇と同年同日の生まれ
     成務三年に大臣
     第十四代仲哀天皇
     神功皇后朝鮮出兵を決定づけ、
     忍熊皇子らの反乱鎮圧
     第十五代応神天皇
     帰化人を率いて韓人池を造る
     異母弟の
     甘美内宿禰から謀反の讒言されるが
     探湯(くがたち)で無罪
     特筆は
     仲哀天皇の死と神巧皇后の新羅征伐である
     仁徳天皇五十年の「書紀」の記録が最期
     伊藤博文の事跡と重なる?
     按重根に暗殺された時
    「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と言った・・・?
     JF・ヶネディ程に謎がある・・・
    「孝霊天皇
    (孝安天皇五十一年〜孝霊天皇七十六年二月八日)
     第七代天皇
    (在位孝霊天皇元年一月十二日〜同七十六年二月八日)
     大日本根子彦太瓊尊(日本書記)
    (おおやまとねこひこふとにのみこと)
     大倭根子日子賦斗邇命(古事記
      の
     息子
     伊予皇子
     三男
     小千王子が祖先
     河野通有の子孫
     淡路ヶ峠城主の
     林淡路守通起
     が先祖と吹聴
     博文は幼名を利助
     父は
     林十蔵(重蔵)で
     水井武兵衛の養子
     武兵衛が安政元年(1854年)に
     周防国佐波郡相畑村の
     足軽
     伊藤弥右衛門の養子となって、
     伊藤直右衛門と改名し
     十蔵、博文父子も足軽となった
     母は
     秋山長左衛門の長女・琴子
    「捨て子だった」の説・・・?
ーーーー↓ブログからの抜粋記事です
 「三国史記新羅本紀」
 「訖解尼師今」・・・錦斤
 「奈解王の孫」
  父は「于老」の「角干」
  母は命元夫人・「助賁王の娘」
 「于老」は累進して「舒弗邯」となる
 「訖解」は
  嗣子がなかった
 「基臨」が薨じた後、
  朝議で彼を奉じて擁立された
 「三年春三月、倭国王遣使、為子求婚、以阿飡急利女送之」
   ↓
  三年(321年)春三月、
 「倭国王が遣使を以て王子の結婚相手を求めてきたので、
  阿飡の急利の娘を送った」
 「四年秋七月、旱蝗。民飢。發使救恤之」
    ↓
 「四年(313年)秋七月、
  旱魃、蝗が発生。民は飢餓。使者を発して救済」
 「五年春正月、拜阿飡急利為伊飡。
  二月、重修宮闕、不雨乃止」
    ↓
 「五年(314年)春正月、阿飡の急利に伊飡を拝命。
  二月、王宮を大々的に修築していたが、
  雨が降らないので止めた」
ーーー
  西晋の末期
  313年
  高句麗が勢いに乗って楽浪郡を滅ぼした
  315年に西晋が滅亡
  高句麗玄菟郡を滅ぼし
  中華王朝の半島支配体制が終了
 「二十八年春二月、遣使聘百濟。三月、雨雹。夏四月、隕霜」
    ↓
 「二十八年(337年)春二月、遣使が百済を表敬訪問
  三月、雨と雹。夏四月、霜が降る」
 「三十五年春二月、倭国遣使請婚、辭以女既出嫁。
  夏四月、暴風、抜宮南大樹」
    ↓
 「三十五(344年)年春二月、倭国が遣使を以て
  婚姻の相手を求めてきたが、
  娘はすでに嫁に出したので辞退した。
  夏四月、暴風で宮殿の南の大樹が抜かれた」
 「三十六年春正月、拜康世為伊伐飡。二月、倭王移書絶交」
    ↓
 「三十六年(345年)春正月、康世に伊伐飡を拝命。
  二月、倭王が国書を送り届け、国交断絶を伝えてきた」
 「三十七年、倭兵猝至風島、抄掠邊戸。又進圍金城急攻。
  王欲出兵相戰、
  伊伐
  康世曰
 「賊遠至、其鋒不可當、不若緩之待其師老」
  王然之、閉門不出。
  賊食盡将退。命康世率勁騎、追撃走之」
    ↓
 「三十七年(346年)、
  倭兵が突如として
  風島に来襲、辺境の民家で掠奪を侵した。
  また、進軍して
  金城を包囲し、激しく攻撃して来た。
  王は出兵して合戦することを望んだが、
  伊伐飡の
  康世が
 「賊は遠方より到来しており、
  その先鋒と当たるべきではありません。
  これを油断させて緊張を緩めさせ、
  賊軍の疲労を待てば良いのです」
  王はこれに同意し、門を閉ざして出撃せず。
  賊は食糧が尽きて退却した。
  康世に命じて強靭な騎兵を率いて、
  賊軍を追撃させ、これを敗走させた」
 「四十七年夏四月、王薨」
    ↓
 「四十七年(356年)夏四月、王が薨じた」

ーーーーーーー↓
      上古代日本のカバネ
      「ヒコ(彦、比古、日子)」
      「ヒメ(比売、日女、媛)」
      「ネ(根、禰)」
      「ミミおよびミ(耳、見、美)」
      「タマ(玉、多模)」
      「ヌシ(主)」
      「モリ(守)」
      「トベ(戸部、戸畔)」など
       カバネは名称の語尾に付く
ーーーーー↓
     ヤマト王権が確立
     カバネ制度
     王権との関係・地位を示す称号
     制度化したのは
     成務天皇
     国造(くにのみやつこ)
     県主(あがたのぬし)
     ワケ(和気、別)
     稲置(いなぎ)などが定められた
     允恭天皇の時代に
     臣連制が導入
     公・君(きみ)
     臣(おみ)
     連(むらじ)
     直(あたい)
     首(おびと)
     史(ふひと)
     村主(すぐり)などが定められた
     この改革により以前の
     ワケ(和気、別)はキミ(君、公)姓
     国造・県主はアタイ(直)姓
     臣連制の中で最も有力な者に
     大臣(おおおみ)
     大連(おおむらじ)の姓が与えられた
     その他のカバネとしては、
     百済滅亡後に帰化した
     百済王族に与えられた
     王(こにきし)などがある
ーーーーー↓
    ヤマト王権から明治維新まで命脈を保った姓
    藤原朝臣永敏(大村益次郎
    藤原朝臣利通(大久保利通
    菅原朝臣重信(大隈重信
    源朝臣有朋(山縣有朋‎)
    越智宿禰博文(伊藤博文
    真偽は?
    天皇及び朝廷に仕えるため
    氏・姓が復古的に用意されたという意味合いが強い
    明治政府は、
    1870年(明治三年)
    平民苗字許容令
    1872年(明治五年)の
    壬申戸籍編纂の
    二段階によって
   「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の
    一元化を成し遂げ、
    旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した
   「壬申戸籍」以後、
    旧来の姓は、それと
    一体化していた
    旧来の氏と共に、
    法的根拠をもって一本化され
   「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に
    氏姓制度としいて日本国民全員に確立したのは
    1875年(明治八年)
    平民苗字必称義務令によってである
ーーーーーーーー↓
    「酸塊(すぐり)はスグリ科の植物
    「酸塊」は「サンカイ」であるならば
    「サン・カ・イ」のスベテの同音異字を調べよ、である
ーー↓枕草子
 狩衣。・・・
 衲の・・・
 袈裟。・・・
 出居の・・・
 少將。・・・
 いみじく・・・
 肥え・・・
 たる・・・
 人の・・・
 髮・・・
 おほ・・・
 かる。・・・
 琴の・・・
 袋。・・・
 六・・・
 七・・・
 月の・・・
 修法の・・・
 阿闍梨。・・・
 日中の・・・
 時・・・
 など・・・
 行ふ。・・・
 又・・・
 おなじ・・・
 ころの・・・
 銅の・・・
 鍛冶。・・・
ーーーーー
 ・・・