1192日目・・・何かを書き込もうとしてブログを開けてニュースなどを見て、寄り道して、イザ自分の書き込みサイトを開けたら、その「ナニか」がナンであったのか思い出せない・・・夢の記憶もそうであるけれど・・・ボケ・・・「随分たって今頃(←追伸文→)思い出した・・・昨夜見たTVドラマ(一本の折れたネジ釘の強度)のコトだった」・・・今朝の夢は忘れないようにとメモていたのだが、今、思い出したいことは「アスファルト舗装の蜃気楼の走水」のように消えて、切っ掛けも出てこない・・・夢の方は「大規模な火山爆発」・・・金髪の

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 渡辺 崋山
 (寛政五年九月十六日(1793年十月二十日)
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  天保十二年十月十一日(1841年11月23日)
 武士、画家
 三河国田原藩(愛知県田原市東部)の藩士で、家老
 通称は登(のぼり・のぼる)」と「揮毫」
 諱は定静(さだやす)
 号は、はじめ華山で、三十五歳ころに崋山と改め
 号は他にも全楽堂・寓画堂 
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 「慎機論」の
 「慎・愼」
 「ちか・つつしみ・つつしむ・のり・まこと・みつ・よし・シン・ジン」・・・「つつしむ・念を入れる・欠けめなく気を配る」・・・「シン・つつしむ・手落ちのないように気を配る」
 「慎重・戒慎・謹慎」
 「名のり」は「ちか・のり・まこと・ みつ・よし」
 音読みは、「シン」
 訓読みは、「しず・しずか・ちか・つつし・のり・まことみつ・よし」
 意味は、「慎む・注意深いなどの意・思慮深い」
 「欠けめなく気を配る・つつしみ・つつしみ深いこと・念入りな心」
 「注意して気を配る・したがう・まこと・思う」
 「説文解字・巻十」には「謹しむなり」とある。
 「謹」も「愼むなり」
 「手落ちのないように気を配る」
 「不慎」の意味は「不注意である・ちょっとうっかりする」
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 「粛慎(シュクシン・みしはせ・あしはせ」
 満州(中国東北地方及びロシア・沿海地方)に住んでいた
 「ツングース系狩猟民族」
 また、後にこの民族が住んでいた地域の名称
 ・・・ナゼ、「粛慎(シュクシン」が「みしはせ・あしはせ」の「訓読み」の「音」なんだろ・・・?・・・「視氏(詞)葉施」、「足(亜詞)葉施」・・・古代中国でも
 「粛慎」という呼び名は
 「周代・春秋戦国時代」の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が
 「粛慎人」の自称を
 「音訳した呼び名」としたらしい・・・
 「息慎(ソクシン・Xīshèn)」
 「稷慎(ショクシン・Jìshèn)」とも表記
 ・・・「稷(ショク)」は五穀の一つの「粟(あわ)」の別称である・・・そして
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 「稷」が現在の何にあたるかについては
 三説ある・・・らしい・・・ブログ辞典の記事には
 「爾雅(ジガ)」、
 「礼記(ライキ)」などの「経書の注釈」では、
 唐までは粟とされてきた。
 ところが
 唐代の
 本草家(薬草学者)が
 「穄(うるきび)」という説をたて、流布し、
 さらに
 代に
 「程瑶田」が
 「高梁(コーリヤン)」説を主張。
 「五穀の筆頭におかれ、太古農事をつかさどった官、
  周の始祖の別名となった
  后稷、
  社稷として
  土地神にならぶ
  穀物神とされる稷の用法からも
  粟とするのが妥当」であろう・・・とある。
 「后稷(コウショク)」は、伝説上の
  周王朝
 「姫」姓の祖先・中国の農業の神
 「史記・周本紀」は
 「帝嚳の元妃(正妃)」であった
 「姜原」が、野に出て
 「巨人の足跡」を踏んで妊娠、出産した子供
 最初、産んだ赤ん坊を母の「姜原」は
 道(ドウ)に捨て
 林(リン)に捨て
 氷(ヒョウ)の上に捨てたが
 飛鳥が
 赤子(エイジ=嬰児=みどりご)を暖めた
 拾いなおしてその赤ん坊を育て、
 「弃」と名づけた
 「弃(キ)=云+廾(キュウ・ク)
      =亠(なべぶた・音の略字)
       +
       弁(わきまえる・はなしべ・ベン)」は
 「棄(すてる・捨てる・キ)」と同じ意味の異字・・・である・・・「廾」は両手で捧げ持つ、また「拱」に通じて「こまぬく」の意を表す。 偏旁の意符としては「両手でもつ」、「捧げること」を示す・・・事が起きたときに、何もしないで傍観している。また、何もできないでいる。手をこまぬく。「こまぬく」とは、両手の指を胸の前で組んで挨拶する中国の敬礼の一で、「腕組み」をするということ・・・「姜原」は捨てた「嬰児→英字→英語」を「こまねいて傍観」してたんだろう・・・
ーー↓粛慎=息慎=稷慎
 「中国の周代の文献」、
 「日本書紀」にも「粛慎の記述文字」がある。
 後代の
 「挹婁・勿吉・靺鞨・女真満州族)」と同系の民族・・・「満州族王朝)」が問題になるのは「江戸時代の幕末・明治」以降である・・・
ーーー↓ボクの「家頁」・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/utax3.htm
ーーー↓百人一首清少納言「62番目」
 62(清少納言・生死没?)・六拾弐(陸拾弐)
 夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
 ↓
 よをこめて とりのそらねは はかるとも
 ↓
 与将古女出 斗理之素羅音葉 葉穫る斗模

 よに あふさかの せきは ゆるさし
 ↓
 与似 阿婦作掛之 施記葉 諭留作詞

 『清少納言』は「清原元輔」の女(娘)で、「橘則光」に嫁いだが離婚し、「正暦年間(990〜994)」に「一條天皇」の「中宮藤原定子』」に仕えた。代表的な「枕草子」は彼女の随筆であった。『藤原定子』の死後(1000)には宮廷出仕をやめ、晩年には出家して「尼」となった。
 当然、この和歌の示唆は「鳥(後鳥羽上皇)」が「鳴こう(泣こう・帰京の嘆願)」とも「尼将軍(北条政子)」は許るさじである。

 『清少納言(セイショウノウゴン)』・・・制勝之有権
 「清原元輔(セイゲンゲンヘンホ)」・・・制限源捕
 「橘則光(キツソクコウ)」・・・・・・・記柘即考
 「中宮・定子(テイシ)」・・・・・・・・定史・鵜史・綴史・帝史
      ↓
      ウ+一+ト+人
      鵜史(鵜野讃良)

 「鵜野讃良」は「持統天皇(広野姫)」であった。「鵜呑みに出来ない」とはコノコトである。
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 枕草子
 (八五段)・・・八十五段・八拾五段・捌足伍段
         8+5=13=十三=壱拾参=足参
         8×5=40=四十=四拾=肆足

 御佛名の
 あした、
 地獄繪の
 御屏風
 とりわたして、宮に御覽ぜさせ奉りたまふ。
 いみじう
 ゆゆしき
 事
 かぎりなし。
 「これ
  見よ
  かし」と仰せらるれど、
 「更に
  見侍
  らじ」とて、
 ゆゆしさに
 うへやに
 隱れ
 ふしぬ。
 雨
 いたく
 降りて
 徒然
 なりとて、
 殿上人
 うへの
 御局に
 召して
 御あそび
 あり。
 道方の
 少納言
 琵琶
 いと
 めでたし。
 濟政の
 君
 筝の琴、
 行成
 笛、
 經房の
 中將
 笙の
 笛など、
 いと
 おもろう
 ひと
 わたり
 遊びて、
 琵琶
 ひき
 やみ
 たる
 ほどに、
 大納言殿の、
 「琵琶の
  聲は
  やめて
  物語する
  こと
  遲し」と
 いふ事を
 誦じ
 給ひしに、
 隱れ
 ふし
 たり
 しも
 起き
 出でて、
 「罪は
  おそろし
  けれど、
  なほ
  物の
  めで
  たき
  は
  え
  止む
  ま
  じ」
 とて
 笑
 は
 る。

 御聲
 などの
 勝れ
 たる
 には
 あらねど、
 折の
 こと
 さらに
 作り
 いで
 たる
 やう
 なりし
 なり。
ーーーーー
 ・・・、「罪はおそろしけれど、なほ物のめでたきはえ止むまじ」・・・