1188日目・・・藤原定家が「明月記」に記載した「超新星爆発の解明・京大・2013.7.15 11:19」のニュースですか・・・「千年の時空を超え、新しい事実が分かったことにロマンを感じる」・・・「チームは超新星の残骸をスザク(すざく)で観測。爆発で飛散した鉄や硫黄、珪(ケイ)素などの元素が一方向に偏って広がっていることをスザク(すざく)を手段にして確認した」・・・「宇宙の膨張が加速しているとするノーベル物理学賞を受賞した研究成果の根拠の一つ」・・・「鉄(金+失)や硫黄(イオウ)、珪(ケイ・王+圭→桂)

 ・・・「藤原定家」は当時生まれていなかった・・・が、「明月記」には「過去の天文現象」として「非常に明るく見慣れない星があった」と記載・・・している?・・・
ー↓藤原定家・・・ボクの「家頁」です↓・・・ヒマならどうぞ・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/uta.htm
ーー↓
 ボクの問題はナゼ、「明月記(めいげつき)」と「記録」されたのか?である・・・夜間晴れ間の「満月」は明るいのはアタリマエである。「暗(クラ)く」なるのは「月食=太陽→地球→月」の位置関係になる時である。そして「満月(旧暦八月の十五夜の月)」は「名月」と一般的には言われるか、記録される・・・「有明の月」とは「陰暦十六日以後、夜が明けかけても、空に残っている月」であるが、「とはずがたり」の「十四歳で後深草院の寵姫となった二条の日記」で、「御室の仁和寺の門跡の「有明の月」という「阿闍梨(男)」との激しく切なき契り・・・に引ッ掛(掻)けたのカモ・・・?
 ・・・では、なく・・「山有朋(天保九年閏四月二十二日(1838年6月14日)〜大正十一年(1922年二月一日)・幼名は辰之助・狂介・奇兵隊」・・・「朋=月+月」、そして「森 有礼(森有禮・幼名は助五郎・通称、金之丞)・弘化四年七月十三日(1847年8月23日)〜明治二十二年(1889年二月十二日)」、暗殺・・・「明六社」会長・初代「文部大臣」・・・これは、「新暦(西暦)」と「旧暦」の「月の「関係」を「明らかにせよ」との示唆・・・である・・・「衛星の月」では無く、日記記載の「年月日の記録」の「月」である・・・当然、「その月の干支サイクル(六十干支・」である・・・そして「天文学者」が知りたかったのは「一年間の月の位置の記録」である・・・(60干支)÷12ヶ月=5・・・五年に一度、「同じ月の干支」が繰り返される・・・「30×2干支納音(ナッチン・ノウオン)」の循環の「納音」の漢字は「音(おと)」を「納(おさめる)」である・・・「占い」では本来「生年の二干支」だが「六十干支」の「甲子干支」と「乙丑干支」を「二個の干支」として「一まとめ」にしたモノに「名前」を付けたモノである・・・すなわち、「奇数干・奇数支」と「偶数干・偶数支」をまとめて「30のサイクル」に「三文字(二文字+五行の一文字)漢字の名前を付したモノ」で、「五行」を主軸に「±木=(+甲-乙)」、「±火=(+丙-丁)」、「±土=(+戊-己)」、「±金=(+庚-辛)」、「±水=(+壬-癸)」をまとめたモノである。・・・何時の時代から知らないがコレを「月日時間」にも当てて判断する「占い」もある・・・コレは「日本製」だろう・・・「有名人」の「履歴」を知りたい、あるいは本人の「非合理性=心理」としては「出世、不出世の勝敗」には「憑きモノ」である・・・から・・・
 時刻は「干支」が「十二支」の「十二刻」、「一刻」は「二時間」であるが、その日の「日干支」によって時刻の「」は異なってくる。
ーーーーーー↓納音名      ↓二干支
 海中・金(かいちゅう・きん) 「甲子・乙丑」
 爐中・火(ろちゅう・か)   「丙寅・丁卯」
 大林・木(たいりん・ぼく)  「戊辰・己巳」
 路傍・土(ろぼう・ど)    「庚午・辛未」
 釼鋒・金(じんぼう・きん)  「壬申・癸酉」
ーー↓
 山頭・火(さんとう・か)   「甲戌・乙亥」
 澗下・水(かんか・すい)   「丙子・丁丑」
 城頭・土(じょうとう・ど)  「戊寅・己卯」
 白鑞・金(はくろう・きん)  「庚辰・辛巳」
 楊柳・木(ようりゅう・ぼく) 「壬午・癸未」
ーー↓
 井泉・水(せいせん・すい)  「甲申・乙酉」
 屋上・土(おくじょう・ど)  「丙戌・丁亥」
 霹靂・火(へきれき・か)   「戊子・己丑」
 松柏・木(しょうはく・ぼく) 「庚寅・辛卯」
 長流・水(ちょうりゅう・すい)「壬辰・癸巳」
ーー↓
 沙中・金(さちゅう・きん)  「甲午・乙未」
 山下・火(さんげ・か)    「丙申・丁酉」
 平地・木(へいち・ぼく)   「戊戌・己亥」
 壁上・土(へきじょう・ど)  「庚子・辛丑」
 金箔・金(きんぱく・きん)  「壬寅・癸卯」
ーー↓
 覆燈・火(ふくとう・か)   「甲辰・乙巳」
 天河・水(てんが・すい)   「丙午・丁未」
 大駅・土(たいえき・ど)   「戊申・己酉」
 釵釧・金(さいせん・きん)  「庚戌・辛亥」
 桑柘・木(そうしゃく・もく) 「壬子・癸丑」
ーー↓
 大溪・水(だいけい・すい)  「甲寅・乙卯」
 沙中・土(さちゅう・ど)   「丙辰・丁巳」
 天上・火(てんじょう・か)  「戊午・己未」
 柘榴・木(ざくろ・ぼく)   「庚申・辛酉」
 大海・水(たいかい・すい)  「壬戌・癸亥」
ーー
 「納音」の各々の漢字の意味は「字面と同義、同理」だが、「納音」は「音」を「納める」であるから「音そのモノの同音の異義」の示唆である。そもそも「納音(ナッチン)」の「納」とは「納豆(なっとう)・納得(ナットク)・納屋(なや)」の同音である。
ーー↓納音→能生オン・・・「オン」のスベテの漢字を納める
  大海・水(たいかい・すい)  「壬戌・癸亥」
 「大海・水=たいかい・すい)
       他意改  諏意→おほあま・みず
  大海人(海士・海女・海部・亜麻・尼・甘・天)
    水(壬癸)
    みず→視事(頭・図・豆・逗・厨)
    ↓
    みづ=御津・美津
    みつ
    ↓
    三津=密・蜜
       褌(ふんどし=憤怒詞)
    ↓
    水戸」
ーー↓
 ・・・「奉納」は「ホウノウ」、「納付」は「ノウフ」、「納税」は「ノウゼイ」と云う・・・「NO  taxes (タックス)」である・・・「タツ=断つ、絶つ」の「クス=楠・玖珠(屑・葛)・樟」の「九図」だろう・・・「九相図(九想図、くそうず)」・・・見たくないね・・・「この絵」は「近衛」だし・・・「人道不浄相図」は「小野小町の末路の絵」だし・・・「小野妹子」は「蘇因高→素因考」である・・・
ーー↓小野と云えば・・・サッカー(蹴鞠・蹴球)・・・
 「小野道風」とは・・・「花札の絵柄」・・・藤原定家が撰んだ「百人一首(加留多・歌留多)の和歌」・・・「花札」も「百人一首」も江戸時代のアソビである・・・「花札の絵柄」に小野道風が採用されたのは明治時代かららしい・・・
 「柳(やなぎ→埜名疑・夜名義・否納偽・梁義→邪納魏)と蛙(かえる→掛重留・可重瑠→変・代・換・替・買・帰・返・還・飼・孵)」を視て発奮、努力した人物?・・・
ーー↓梁義
 「梁塵秘抄
 治承年間(1180年前後)
 編者は後白河法皇
 歌謡集
 今様歌謡の集成
 別に口伝集十巻
 「梁塵」は、
 名人の歌で
 梁の塵も動いたという故事
ーー↓梁
 梁(502年〜557年)
 中国の南北朝時代
 江南に存在した王朝
 天監年間は、
 九品中正法の改定、
 梁律の頒布、
 租税軽減等の政策
ーー 
 梁
 中国の都市名・国名・王朝名
 大梁=開封の古名
 春秋時代の諸侯国の一
 戦国七雄の一
 魏が大梁に遷都後の国号
 梁 (南朝)
 蕭衍(武帝)建国の王朝(502年〜557年)
 後梁 (南朝)南北朝時代
 蕭詧(宣帝)建国の王朝(554年〜587年)
 隋末に
 梁師都の建国(617年〜628年)
 隋末に
 蕭銑が建国(618年〜621年)
 後梁
 五代十国時代
 朱全忠が建国(907年〜923年)
 梁
 中国古代天文学における星の名
 蛇(へび)つかい座のデルタ星
 梁(やな)=「簗」
  ↓
 魚を捕るしかけ=「梁 (漁具)」
 「梁漁」ができたり、
 「梁漁」で捕れた魚を出す食事処
ーー↓ 
 「梁塵秘抄」の名は
 「徒然草・第十四段」に記録
 「本朝書籍目録」に二十巻と記録
 ・・・「近代までは口伝集巻第十」が
 「群書類従」に収められたのみで、
 他の部分は失われたと考えられていた・・・?
 1911年(明治四十四年)
 佐佐木信綱らによって
 巻第二
 巻第一と
 口伝集
 巻第一の断片、
 口伝集の
 巻第十一から第十四」が発見・・・?
 「梁塵秘抄」の中の歌は明治以降のモノ・・・偽作・・・?
 「梁塵秘抄
 本編十巻、口伝集十巻だった・・・現存するのはわずかな部分・・・「口伝集の巻第十一以降」については謎がある・・・?
 本編は、巻第一の断簡と、巻第二のみ
 歌数は
 巻第一が二十一首
 巻第二が五百四十五首
 あわせて
 五百六十六首
 重複がある
 巻第一の最初には
 「長唄十首、古柳三十四首、今様二百六十五首」とある
 完本であれば
 巻第一には
 三百九首が収められていたことになる・・・?
 歌の形態は様々・・・
ーー↓ 
 遊びをせんとや生れけむ、
 戯れせんとや生れけん、
 遊ぶ子供の声きけば、
 我が身さえこそ
 動がるれ。
ーー
 舞え舞え蝸牛、
 舞はぬものならば、
 馬の子や
 牛の子に
 蹴させてん、
 踏破せてん、
 真に美しく舞うたらば、
 華の園まで遊ばせん。
ーー
 東屋(あづまや)の
 妻とも
 終(つい)に
 成らざりけるもの故に、
 何とて
 むねを
 合せ初めけむ。
ーー
 仏は常にいませども、
 現(うつつ)ならぬぞ
 あわれなる、
 人の
 音せぬ暁に、
 ほのかに
 夢に見え給ふ。
ーー
 口伝集
 現存するのは
 巻第一のほんのわずかと、
 巻第十、
 巻第十一から第十四のみ
 巻第十一から巻第十四には、実際の歌い方が書かれている。しかし歌い方の伝承は絶え、現在解読は困難である。
 佐佐木信綱によれば、
 後白河法皇自らの撰によるものではないという。
 のちに一つにされ
 「口伝集巻第十一」以下の題名を付けられたと考えられている。
 もしこれが
 「梁塵秘抄」に加われば、
 総数は
 二十巻以上となり、
 「本朝書籍目録」の記述に矛盾する。
  ・・・「佐佐木信綱」自身が怪しい人物である・・・?・・・モウ、こうなるとボクの「妄想」はドウシヨウモナイ・・・ナッ・・・
ーー↓
 佐佐木 信綱(ささき のぶつな)
 1872年7月8日
 (明治五年六月三日)
    〜
 1963年
 (昭和三十八年十二月二日)
 歌人・国文学者
 正六位勲六等文学博士
 三重県鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)で
 歌人
 佐々木弘綱の長男として誕生
 1882年(明治十五年)上京
 1884年(明治十七年)
 東京帝国大学文学部古典講習科に進む
 1890年(明治二十三年)
 父と共編で
 「日本歌学全書・全12册」刊行を開始
 1896年(明治二十九年)
 森鴎外
 「めざまし草」に歌を発表
 歌誌
 「いささ川」を創刊
 落合直文与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、
 新体詩
 「この花」刊行
 歌誌
 「心の花」を発行する短歌結社
 「竹柏会」を主宰
 木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮など
 多くの歌人を育成
 国語学者新村出、翻訳家の片山広子、国文学者の久松潜一
 信綱のもとで和歌を学んでいる。
 「思草」をはじめ数々の歌集を刊行
 1934年(昭和九年)帝国学士院会員
 1937年(昭和十二年)
 文化勲章を受章、帝国芸術院会員
 御歌所寄人として、
 歌会始撰者
 貞明皇后ら皇族に和歌を指導
 古典文学の研究や
 註釈、復刻にも力を尽くし、
 更級日記
 藤原定家写本の
 綴じ違えの発見などに業績を残した
 岩波文庫
 『新訓 万葉集
 『新古今和歌集』等の編者
 万葉集の諸写本を結集した
 「校本萬葉集」の編集にも尽力
 苗字は本来「佐々木」と記したが、
 信綱が訪中の折、
 中国には「々」の字が存在しないことを知り
 以後、「佐佐木」と改めた
 ・・・たらしい・・・「御用帳尻合わせ学者」・・・?・・・ゴメン・・・
ーー↓
 「カエルの努力」である・・・この逸話は江戸時代中期の浄瑠璃小野道風青柳硯(おののとうふうあおやぎすずり・宝暦四年〈1754年初演)」・・・寛延三年(1750年)九月の随筆「梅園叢書・(三浦梅園著)」にこの話が記されている・・・らしいが、「梅園叢書」の刊行は安政二年(1855年)のこと・・・出版元も帳尻あわせが大変だったろう・・・
 第二次世界大戦以前の
 国定教科書にこの逸話が載せられた・・・
 ・・・「努力とガンバレ」は「アベ」だろう・・・博打の花札、オイチョカブ・・・でナニがノコルのか・・・
ーー
 0=ブタ(又はドボン)
 1=ピン(又はチンケ・イッカチ・インケツ)
 2=ニゾウ(又はニタコ)
 3=サンタ(又はサンタコ)
 4=ヨツヤ(又はシスケ・シホウ・シケ
       ヨンタ・シス・シスン・シニ)
 5=ゴケ
 6=六法(又はロッポ)
 7=シチケン(又はナキ)
 8=オイチョ(又はヤイチョ・ハッポウ・チョウベ)
 9=カブ
 「おいちょかぶ」
 8と9(オイチョ+カブ)の組み合わせ
 「8」の「オイチョ」は
 ポルトガル葡萄牙)語の
 「8(oito)=オイト」に由来
 「9」の「カブ」の語源は不明らしいが
 ポルトガル語
 「9(nine=ナイン)」は「nove=ノーヴィ」
「CUB(カブ)」→英語で熊など猛獣の子供を意味
 「cub」・・・熊・獅子・などの
        肉食動物の子供・幼獣
        cub fox=子狐・不作法な子供
             見習い・新米
 少年野球チーム名「cubs」・・・お茶目な「ゴンきつね」は愛知県知多郡半田町(愛知県半田市)岩滑(やなべ)出身の・・・「新美南吉」の児童文学作品、初出は「赤い鳥(1932年1月号)」。童話集「花のき村と盗人たち」に死後、収載された・・・「合意知懸・知多具夢・半伝帖・岩滑(やなべ=夜名部・夜鍋)」の「南吉」のオワリである・・・
 「牝キツネ」は「バカす(化す)」・「馬鹿棲」・「莫迦素」は「釈迦・仏(佛)」であるサンスクリット語の「mahailaka(摩訶羅=無知)」、あるいは「maha(摩訶=おおきい、偉大な)」であるらしいが、「馬家」は中国にいた「馬という姓」の一族が、博打で散財したという「白居易白氏文集」にある詩の一節であるらしい・・・
 兎に角、「キツネの嫁入り」は「皇女和宮」であった・・・
ーー↓皇女和宮・・・天津羽衣
 弘化三年閏五月十日
 (1846年7月3日)未刻(午後二時頃誕生)
    〜
 明治十年
 (1877年)九月二日)
 仁孝天皇の第八皇女
 文久元年(1861年)十月二十日
 和宮一行は「御所」を出立
 文久元年(1861年)十一月十五日
 江戸城内の
 「水屋敷」に入った
 文久二年(1862年)二月十一日
 第十四代将軍・徳川家茂と婚礼、結婚・・・
ーー↓
 「ブンブク(文武句)茶釜」の「タヌキ(狸)」・・・一般的には「分福茶釜・文福茶釜」と記されているらしい・・・
 ・・・「牝タヌキ」は北海道の札幌ススキ野の狸小路に出没したらしい・・・「天津羽衣」だが、小さいころによく「ラジヲ」で聴いた・・・
      ↓
 1928年3月7日〜1982年9月13日
 三重県の生れ
 両親が共に浪曲師の
 山田芳夫と
 天中軒女雲月
 十二歳で
 天中軒智子の名で横浜宝塚劇場で浪曲師として初舞台
 1941年9月テイチクに専属し
 浪曲「親なし小鳥」を
 天津羽衣嬢でレコードデビュー
 戦後、東映映画
 「母の罪」で女優としてデビュー
 1956年11月テイチクより、
 山田とも子の芸名で
 「ストトン忠臣蔵」で歌手デビュー
 1960年5月
 「お吉物語」ヒット
 後は浪曲に歌謡曲を織り交ぜた、
 歌謡浪曲"羽衣節"で一世を風靡
 1971年渡米公演
 母はシリーズの
 「九段の母」、「原爆の母」、「瞼の母」など
 脳梗塞で五十四歳で死去
 「岸壁の母」の「二葉 百合子(ふたば ゆりこ・本名大村 百合子)」とコンガラガチャっているカモ・・・
 「朝起き三文 宵には五両」さんの頁、 「おはよう浪曲2007年(平成19年)放送リスト」・・・「浪曲・皇女和宮」・・・2007年(平成19年)9月9日(日)・「皇女和宮(後)口演:天津羽衣9月2日(日)皇女和宮(前)口演:天津羽衣」とあったから、記憶としては間違いなさそうだ・・・
ーーー↓「カブ」のツヅキです
 バカラ(英語はBaccarat・伊語はBaccarà)はカジノゲームの一種で、トランプでの賭けである。「バカラ」とは、イタリア語でゼロの意味とあった・・・賭け金を巻き上げられてスッテンテン・・・バカラ(馬鹿等・莫迦等)」→バカ←「カバラ(河馬等=河図等・蒲裸=因幡の白兎・椛等=樺等=木花之佐久夜媛)」・・・?・・・
 ブログ記事を視たら「ホンダ・カブ」は出前のすし屋でも乗れる「バイク」の象徴意で付けたらしい・・・バカでものれる・・・って・・・ボクも小学校6年生の時に同級生のF君の親父所有の自転車バイクをF君、K君等と「代わり番こ」に炭鉱住宅の道を乗り回したコトがある・・・「軍用通信機用発電エンジン流用の 「カブ」エンジン取り付けキット・・・「ホンダ・カブ」は元々1952年(昭和二十七年)から1958年(昭和三十三年)まで生産された自転車補助エンジンキットの愛称で、「女性も乗れるようなモノ」であったらしい・・・それに、米軍軽飛行機の「パイパー カブ」の名称でもあったらしいコトが「A&Q」のブログ記事にあった・・・         
 「cub」→「cube」の「立方体・正六面体・立方形のもの
            さいころ(骰子・賽子)
            賽(さい)・ダイス(dice)
            敷石・木れんがなど」と、
 「株・歌舞・蕪・下部・掛部」の「賭け」の意味だろう・・・
 ・・・江戸時代には「かう」とも呼ばれたならば、「買う・乞う・子生・請う」の「交・考・項・行」・・・「コウ」の同音漢字のスベテだろう・・・
ーー↓小野道風
 「とうふう」は「有職読み
 「源氏物語」では、道風の書を評して
 「今風で美しく目にまばゆく見える・源氏物語・絵合の巻」
 「空海筆の額を批判・古今著聞集」
 「美福門(額字)は田広し、
  朱雀門(額字)は米雀門、
  大極殿(額字)は火極殿」と批判した
  これって・・・「文字の批判」か?、「額縁の批判」?
  六十五歳ぐらいから目が悪くなり、
  六十七歳ぐらいの頃には
  言語が不自由
  その頃の道風の文字を
 「道風のふるい筆」といっている・・・「振るい」?・・・「馬事東風」・・・「博打」に嵌(は・填)まったら他人の忠告、諌めはなんのその・・・勝負は時のウンだって?・・・「万字当風」・・・「クレイィジィ」・・・繰れ意異字・・・は「漢字馬鹿」で、「痴漢」・・・漢和辞典もスゴイねッ・・・「痴漢」の説明に「婦女子に悪ふざけをする男・オンナ(音名)とコドモ(拠賭摸)に悪戯するオトコ(音拠)」だから・・・「大修館漢和辞典」・・・ネコはニャァかミャァ・・・尾張名古屋弁・・・本居宣長・・・拠怒母である・・・「観様・妙様」も「福書」もナンのソノ・・・「婦人科・小児科」・・・挙句の果てには「魚町」、「鈴屋大人(すずのやのうし)」、淡きり「ウイロ(外郎)」じゃなく、小児「あめ(飴)薬」製造販売で大儲け・・・ゴメン・・・彼本人への「人格批判」ではありません・・・
ーー↓小野道風
 切手・・・京の四季(京都府)
 傘を差している
 小野道風
 柳に跳びつこうとする
 四肢を広げた形
 (*・*=アスタリスク・アステリスク・asterisk
  約物の一つ、
  六本の放射線
  原語は小さい星・古代ギリシア語の字形
  日本語でも星号・星印・スター・アスタ?
  Ж・ж=ジェ・ジはロシア弟八文字、字形?
  水の漢文字の形?)
 の
 カエルの挙動を眺めている
 背景の書に
 「玉泉帖」が描かれている
 「玉泉帖」とは
 「白氏文集」の
 詩を道風が書いた
 「巻子本(かんすぼん・けんすぼん・巻物、掛軸)」で、
 巻首が
 「泉南澗花奇怪」の
 句で始まる
 楷行、草行、「真行草(真・行・草)」、
 書体の類型書きを取り混ぜ、
 各文字を大小肥痩に変化させた書
ーー  
 「小野道風の誕生伝説」
 ・・・南北朝時代の書の「麒麟抄」・・・「塩尻(天野信景著)」などに「記録」、「文化十二年に尾張藩の学者、秦鼎の撰文・小野朝臣遺跡碑(十八世紀末)」には、「春日井市」で道風生誕が信じられていた・・・?・・・オワリの「秦鼎」とは何者か?・・・
ーー↓
 秦鼎(はた かなえ)・・・・掛名重・青銅の三本足の器
              仮名重・政道の纂本則の記
 宝暦十一年(1761年)
  〜
 天保二年(1831年))
 美濃の人
 字は士鉉
 通称、嘉奈衞
 号は滄浪・小翁・夢仙
 父は苅谷藩の儒者
 秦峨眉
 父に従い家学を承け、
 細井平洲に学ぶ
 尾張藩
 藩校
 明倫堂の教授
ーー↓
 唐風・当風・党風・東風で、「問う符(譜=楽譜)得」である・・・
ーー↓
 「豆腐」・・・マメが腐った・・・「豆腐」はニガリ(苦汁)で造る六面立方体。「おから=雪花菜(きらず)=お空」は糟(かす・粕・滓・渣=残留物・残渣物)、能舞台、所作板の艶だし乾拭き、手抜き(おから)工事の「豆腐渣工程(トウフジャーコンチョン)」は「2008年の四川大地震で倒壊した公共建築物」、記憶力を増進のホスファチジルコリン(レシチン)を含有。糸引き納豆は細菌発酵、「バイタミンK」を含有・・・「売他民K」であるか・・・「納豆」の語句初見は、
ーー↓「藤原明衡
 (永祚元年・989?
   〜
  治暦二年十月十八日・1066年11月8日)
  字は耆莱(きらい)・安蘭(あんらん)」で、
 寛弘一(1004)年大学に入学
 学閥で不遇
 長元五(1032)年
 文章得業生対策に及第し
 左衛門権少尉
 後に
 出雲守
 式部少輔
 漢詩文にすぐれ、
 後朱雀(ごすざく天皇の時
 「本朝文粋(ほんちようもんずい)」を編み、
 後冷泉(ごれいぜい)天皇の代に
 「文章博士
  兼
 「大学頭」
 「対策制度の因習を苦々しく思い、後輩に対策(文章得業生になる試験)の答えを教え二度罰せられた」・・・「蛍雪時代」である・・・
 「本朝文粋・本朝秀句」を編修
 「明衡往来(雲州消息)」、「新猿楽記」などを著作
ーー↓「納豆」の初見
 「新猿楽記(腐水葱香疾大根舂塩辛納豆)」
ーー↓であるらしい。
 腐(くさる・フ)
 水(みず・スイ)
 葱(ねぎ・ソウ・a leek〈わけぎ〉・ a onion
      リーク(leak)は秘密漏洩、暴露である
      元NSA職員のウェイン・マッドスン
      ウィキリークス
      CIAリーク事件(CIA leak case)
 香(かおり・コウ)
 疾(やまい・シツ)
 大(おおきい・ダイ・タイ)
 根(ね・コン)
 舂(はる・シュン)
 塩(しお・エン)
 辛(からい・つらい・シン)
 納(おさめる・ノウ)
 豆(まめ・トウ)
 ・・・これを「読み下し」にしたら・・・どうなる?
ーー↓豆腐屋さん
 蒟蒻、油揚げ、「がんもどき(鴈擬・雁元・飛竜頭(ひろうす・ヒリョウズ)・がんも」は豆腐を崩して二度揚げして作る・・・甘納豆はお菓子屋さんだけれど・・・「ポルトガルの菓子フィリオース←(ひろうす・ヒリョウズ)の製法に似ているから・あるいはその製法を借りたから、すなわちポルトガル語に由来するとの説」があるらしい・・・
 「飛竜頭←フィリオース」は「漢字音」も借りたのさ・・・
ーー↓
 「小野 道風(おの の みちかぜ・とうふう・ドウフウ)
  寛平六年(894年)
   〜
  康保三年十二月二十七日(957年2月9日)
  道風の書
  「野跡」と呼ばれ、
  「藤原佐理」の
  「佐跡」
  「藤原行成」の
  「権跡」とともに
  「三跡」と称される
  あと=跡・址・迹・安登・痕・彡・後・・・語・誤・呉・・・暮れ・・・夕方・夜中・晩方・・・
ーー
 で、
 「天文学」は「天体」を「分度器」で観測し、かつ「経緯度」を測る「地理学」でもある・・・「伊能忠敬高橋景保」・・・そして当然にも「航海」する時の「知識」である・・・「三浦按針」・・・「日本帝国海軍」・・・海、ゆかば・・・末路は溺死・・・ 
ーーー↓ー↑・・参照、参考の原文は「ウイッキペデア」・・・
 「明月記・(めいげつき)」
 「藤原定家の日記」
 治承四年(1180年)
   〜
 嘉禎元年(1235年)
 五十六年間・・・・・・・山本五十六
 別名
 「照光記」・「定家卿記」
 「明月記」の名は後世の名称で
 定家自身が命名したものではナイ
 本人自身は
 「愚記」と読んでいた
 そして、当時の人は
 「中納言・入道殿・日記」の称を用い
 一般的通称には
 「定家卿記」の名称が用いられていた・・・らしい・・
 「南北朝」の頃から
 「明月記」の名称が用いられるようになった、らしい
 ・・・とされる・・・
 「広橋家」記録によれば
 「二条良基」の説として
 「毎月抄」
 定家が
 住吉明神参拝の際に神託によって作成した
 「明月記」がこの日記であるとの考えが記されている
 ・・・らしい・・・
 「定家自筆原本」の大部分は
 「冷泉家・時雨亭・文庫」に蔵書され
 「明月記・原本」の一部は
 早くから流出し、
 「断簡(ダンカン)」、
 「掛け軸(ジク)」などとして
 諸家に分蔵
 「漢文」で記録
 通説では
 現存本などを元に
 五十六年間の記録とされているが、
 定家の子
 為家の譲状には
 「自治承〜至仁治」とされており、
 定家が死去する
 仁治二年(1241年)頃まで書かれていた
 可能性もある・・・らしい・・・
 「定家自身の体験に基づいていない記録」も含まれる
 「客星・古現・例
 「天喜二年(1054年)四月中旬の
  蟹(かに)星雲の・・・かに座=サインは「69」
 超新星爆発は、
 定家誕生以前の出来事であるが
 伝え聞いた内容として記載
 「安倍晴明の一族」が
 正確に星の観察」しており、
 ヨーロッパには全く「その記録」はなかった・・・らしい・・・
ーーー↓
 後冷泉院
 天喜二年四月中旬
 以後の
 丑の時
 客星・・・・・・彗星・ほうき星・・・法規・蜂起・放棄
            箒・帚・宝器
            伯耆(ホウキ)→伯爵が老いる日?
            伯耆鳥取→出雲←島根
 觜・参の度に出づ
 東方に見(あら)わる。
 天関星に孛(はい)す。・・・「孛(ハイ・ボツ)」
             「孛」=「十+冖+一+了」
                   ↓
                 十のワの初めと終り
                 五十五・五拾五・伍足伍
 大きさ
 歳星の如し(原文読み下し)
ーーー↓
 一条院
 寛弘三年四月二日(1006年5月1日)
 狼(おおかみ)座の超新星残骸
   大御神
 「SN 1006」の超新星爆発
 高倉院
 治承五年六月二五日(1181年8月7日)
 「SN 1181」の超新星爆発
 ひとつの文献に
 3つの記録が残っている
 定家の子
 為家が譲状を作成(文永十年七月二十四日・1273年9月6日)
 「明月記」を
 「一身のたからとも思候也、子も孫も見んと申も候ハす、うちすてゝ候へハ」と述べて
 庶子
 「冷泉為相」に譲っている・・・公には「価値」が無かった?
 明月記(冷泉家時雨亭文庫蔵)五十八巻一幅
 付録は補写本一巻、旧表紙集一巻
 建久三年(1192年)
  〜
 天福元年(1233年)に至る二十五年分
 五十六巻が断続的に残る。
 他に、
 建久九年十二月十日
 (1199年1月8日)の
 賀茂
 臨時
 祭記一巻
 年次不明の
 断簡一巻
 正治二年十月二十七日
 (1200年12月5日)条の
 断簡一幅
 五味文彦
 「花園天皇宸記
  ・正中二年十二月三十日
  (1326年2月3日)」条に
 「定家卿記」を読んだ事を記録
 「園太暦
  ・貞和二年閏九月六日
  (1346年10月21日)条に
 「定家卿記」からの引用
 この時期に広く読まれたと説く。
 一方、
 松薗斉は反対に当時広く読まれた日記であればもっと多くの公家の記録や日記などに先例として引用されている筈であると指摘し、むしろ引用例の少なさが「明月記」が秘蔵されて
 一部の人の目にしか触れていなかったことを示すとしている。
 八代国治や五味文彦の研究によって、
 「吾妻鏡」の
 建暦年間前後
 かつ
 三善康信関係記事における
 「吾妻鏡」と
 「明月記」の
 記事が
 似ていることを指摘
 これは「吾妻鏡」の編纂に関わった
 三善氏関係者が鎌倉幕府との
 つながりが深く
 晩年を
 鎌倉で過ごした
 冷泉為相から
 提供を受けたと考えられている・・・らしい・・・
 ・・・ダレかがセッティングしてくれる「北枕」の最期の敷き布団の上で寝れればサイワイである・・・かな・・・
ーーー↓
 枕草子
 (八一段)・・・八拾壱段・八十一段・捌足壱段
         8+1=9=九=玖
         8×1=8=八=捌

 あぢき・・・亜字記
 なきもの・・名記摸之
 わざと・・・技賭
 思ひ
 たちて
 宮仕に
 出で
 立ち
 たる
 人の、
 もの
 う
 がりて
 うるさげに
 思ひたる。
 人
 にも
 いはれ、
 むづか
 しき
 事も
 あれば、
 いか
 でか
 まかで
 なん
 と
 いふ
 言草を
 して、
 出でて
 親を
 うら
 めし
 けれ
 ば、
 また
 參り
 なんと
 いふ
 よ。
 養子の
 顏
 にく
 さげ
 なる。
 しぶしぶに
 思ひ
 たる
 人を
 忍びて
 壻に
 とりて、
 思ふ
 さま
 ならずと
 なげく
 人。
ーーーーー
 ・・・いと、なげくョ・・・なぁ〜ッ・・・シブシブだから・・・