1174日目・・・七月一日、天気、晴朗なれど風強し・・・西南の風・・・「疫病(やくびょう・エキビョウ)」、コレラの季節・・・「コレラ=暴瀉=暴+氵+寫(宀与→写)病」、「鉄砲」、「見急」、「三日コレラ」、「虎狼痢」、「虎狼狸」などとも呼ばれた・・・疫痢(エキリ)・・・得切り、柄きり、絵きり、獲切り・江切り・・「重切り」である・・・訳描、易描、亦猫(またねこ・又猫・俣猫→ねこまた←猫又、猫股・猫俣・猫胯)・・・隋時代、「猫鬼(びょうき)」、「金花猫」といった怪猫の話・・・

 「明月記(藤原定家)」、天福元年(1233年)八月二日、南都(奈良県)で「猫胯」が人間を食い殺したと記述がアルらしい・・・容姿は「目は猫の如く、体は大きい犬の様だった」・・・人間が「猫跨病」に罹ったとの記述もあるらしく、「狂犬病」で猫が「狂犬病」に感染したものらい、との説で、「狂猫病」とはイワない・・・「今日病」?は、持病で「自びょう」か、「字描」だな。病気には付き合わなくちゃァねッ・・・「徒然草吉田兼好・1331年頃)にも「猫又」の記述があるらしい・・・
 越中国富山県)で猫又が人々を食い殺したといわれる「猫又山」、会津福島県)では「猫魔ヶ岳」・・・山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったらしい・・・野生化したネコは「トラ・ヒョウ・ライオン」とかわらない・・・「数歳のネコは尾が二股」、合理主義者(?)の新井白石も「老いたネコは猫股となって人を惑わす」と記録しているらしい・・・
 猫又の語源
 「又」は
 「尾が二又に分かれている」
 「年を重ねて化ける重複の意味」
 「山中の獣、
  サルのように
  山中の木々の間を
  自在に行き来するとの意味」で
 「サル(猿)を意味する
  爰(また・ここに・エン・オン)」を語源とする
 「老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来」・・・らしい・・・江戸時代の学者連中、アレやコレヤと色々考えるモンだな・・・「説」は「仮説」だからね・・・
 ボク的には「ねこまた」は本来「四足歩行のネコ」が「二本足で歩くようになった猫のコト」である・・・「ネコの二本足でのダンス」は見世物にされたらしいコトを中学校一年生の授業時に理科の先生(清水先生・渾名はガンジー)から聞いたことがある・・・踊りの調教は音楽(笛)を鳴らすと同時に熱い鉄板の上に乗せる「条件反射の応用」である、と・・・「イワン・ペトローヴィチ・パブロフ (イヴァン・ピトローヴィチ・パヴロフ・1849年9月14日(グレゴリオ暦9月26)〜 1936年2月27日) は帝政ロシアソビエト連邦時代の生理学者」の「犬の実験」・・・「又・叉・亦・股・脚・肢・足・復」である・・・
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 枕草子
 (六七段)・・・六拾七段・六十七段・陸足漆段
         6+7=13=十三=壱拾参=壱参
         6×7=42=四十二=四拾弐=肆足弐

 草は・・・・・草葉・句差葉
        草=人々
        青草人=若輩の医者→本草(薬草)医師
 菖蒲。・・・・あやめ・ショウブ・そうぶ
 菰。・・・・・まこも・コ・ク・こも
 葵・・・・・・あおい・キ・ギ・あふひ
        葵祭
        双葉葵(ふたばあふひ・ソウヨウキ)
        双葉葵は「挿(かざ)し草」
        葉形はお尻や、女性器(β・ω)や
        ハートに似ている
        鍬のスペードの形、
        三つ葉の一葉の形でもあるな
        挿頭草(かざしぐさ・ソウトウソウ)は
        桜(さくら)の異称
        サクラは客寄せパンダ・人寄せ偽の客
        三つ葉葵=徳川家家紋
 いと・・・・・意図
 をかし。・・・犯し
        「を、かし」→何々を、可視
         かし=仮死・下賜・歌詞・瑕疵
            菓子・下肢・華氏・下肢
 祭の・・・・・真通理之(埜・能)
 をり、・・・・澱・滓・織・檻
        緒理・尾理・嗚理・汚理・御理
     緒方洪庵本居宣長鳴滝塾・和気麻呂
 神代・・・・・カミ(髪)の代わりは、カツラ(鬘)
     加味・守・紙・上    桂・蔓・葛・掛通等
 より
 して
 さる・・・・・猿・申・沙流・去る・然る
        猿女(宇受女・うづめ)・猿田彦
 かざしと・・・カザシ・翳し
        翳し詞=忌み詞の一
        俳諧などで、正月三が日の間に、
        物の名を忌み、呼びかえて使う言葉
       「雨」を「おさがり」、
       「寝る」を「いねつむ」、
       「おきる」を「いねあぐる」の類
        能・狂言の型の一
        扇を右手に持って高くかざす
       「翳」=エイ・かげ・かげる・かざす
           物の陰・かげり・暗翳・陰翳
           さえぎり隠す・掩翳
           「影」を代用字とすることがある
        翳(かざ)し扇
       「翳(かざ)し文句」の略
        漢字からすれば「挿頭(かざし)」?は
        髪飾りだろう
        かんざし=鈿・簪・篸
 なり
 けん、・・・・兼・縣・憲・建
 いみ・・・・・意味
 じ・・・・・・字
 う・・・・・・有・得・胡・烏
 めで・・・・・目出・眼出・愛で
 たし。・・・・他詞・足し・多詞
 物の
 さま
 も
 いと
 をかし。

 澤潟も・・・・澤潟(おもだか)
       (おもだか・タクシャ・タクセキ
          ↓  多句寫  他句籍
          ↓  拓 写  拓 籍
        面高・おもかた)
        多年生水草で、沼、池、沢などに自生
        葉は鏃(やじり・∧・↑)形で長い柄がつく
        別名ハナクワイとも呼ばれる
        平安時代から文様として広く用いられ
        勝ち草とも呼ばれ、縁起の良い草とも言われた
        別名
        はなくわい=花慈姑・田草・燕尾草・慈仙
              白クワイ・青クワイ・吹田クワイ
              三種に分類される
              くわゐ・クワエ
              慈姑=ジコ
              烏芋(からすいも)=久和井
              烏芋=黒クワイ
              慈姑=白クワイ
        一つの根に沢山の子がつく
        球根は先に嘴状の芽をもつ
        淡藍色の塊茎を生じる
        球根の形が「♂ ・arrowhead」
        芽が出る縁起の良い食物とされる
        正月料理の食材
        効能は
        カリウムが豊富でナトリウムの排出を促し
        血圧上昇の抑え、高血圧予防、筋肉機能促進
        腎臓の老廃物排泄促進
        慈姑頭(くわいあたま)
        クワイの芽が出た形に似て
        江戸時代、
        町医者などが結った
        髪形の一

        総髪を後頭部で束ね、先を短く垂れ下げた
        形は「クワのイ=鍬、鋤、鉏、耜」の意で
        「九話・玖倭・句葉」だろう
        クワの名の天皇
          ↓
        懿徳天皇 大日本彦友尊
        在は
        前510年〜前477年
        父は安寧天皇
        母は渟名底仲媛命
        外父は鴨王
        妻は天豊津媛命
        息子は息石耳命
        紀元前510年
        アテナイアシナ・アテナ)で
        クレイステネス
        僭主ヒッピアスを追放
        五百人評議会や将軍職の設置
        陶片追放の制度を制定
        紀元前509年
        ローマで共和制(共和政ローマ
        ルキウス・ユニウス・ブルトゥス
        (前545年頃〜前509年)
        共和政ローマの設立者
        初代執政官(コンスル
        前477年
        アケメネス朝ペルシアの王
        ダレイオス二世(オコス・Ochus)が、
        バビロンで病没
        息子の
        アルタクセルクセス二世が後を継ぐ
        キモンを指揮官としてデロス同盟結成
        澤潟屋(おもだかや)は
        歌舞伎の
        市川猿之助市川小太夫の屋号
        市川猿之助、市川団子の屋号

ーーーーーーーーーー↓
      初代市川之助(二代目市川段四郎)の生家が
      副業として
      薬草の
      澤を扱う
      薬屋を商なっていたことに由来
      宗家名跡
      猿之助
      段四郎
      双方、
      一代ごとに交互に襲名
      家紋
      定紋は澤瀉、
      替紋は三つ猿

ーー↓
 「三サル」とは「聴かざる・言わざる・見ざる」で御座ろう・・・そもそも「澤潟」を「おもだか」と訓読みしたコトバの音の説明が無い。歌舞伎のミエをきる「面高」は「重たか?」で、「主高?」だろう・・・「面だかの人・高表(たかおもて)の仁」は「歴史上」ではダレ?・・・「舒明紀四年・632年(日本書紀)」記録の「唐国使人・高表仁」であろう・・・無礼千万、不埒なヤツである・・・そして、「文林郎・裴世清」である・・・
 607年(隋煬帝大業三年
      推古天皇十五年)の国書事件
 631年(唐太宗貞観五年
      舒明天皇三年?舒明天皇四年?)
     「高表仁と日本の王子(王?)との争礼事件・・・
 第三十三推古天皇
 (592〜628)
ーー↓
 舒明天皇元年(629年)
 一月四日即位
 舒明天皇二年(630年)
 一月十二日宝女王を皇后
 三月一日高句麗百済朝貢
 八月五日遣唐使派遣
     大使
     犬上御田鍬
     薬師恵日
 十月十二日飛鳥岡本宮(明日香村)に遷
 舒明天皇三年(631年)
 三月一日百済
    義慈王
    王子の
    豊章を質として送る
 九月有間温泉に行幸
 十二月に帰る
 舒明天皇四年(632年)
 八月唐が高表仁を派遣
   同時に
   犬上御田鍬らを送る
 十月四日唐の
     高表仁が難波津到着
 舒明天皇五年(633年)
 一月二十六日高表仁が唐へ戻る
      「與王子爭禮 不宣朝命而還・旧唐書
      物部兄麻呂を武蔵国造任命(聖徳太子伝暦
 舒明天皇六年(634年)
 一月十五日豊浦寺(明日香村)の
      塔の心柱を建てる(聖徳太子伝暦
 舒明天皇八年(636年)
 六月岡本宮が火災
   田中宮橿原市田中町)に遷る
   旱魃・飢饉
 舒明天皇九年(637年)
   蝦夷が反乱
   上毛野形名を
   将軍として討伐
 舒明天皇十年(638年)
   福亮僧正が法起寺金堂(斑鳩町)を
   建立(法起寺塔露盤銘)
 舒明天皇十一年(639年)
 七月百済川の辺に大宮と大寺造営
 十二月伊予温泉行幸
    百済大寺の九重塔が建つ
 舒明天皇十二年(640年)
 四月伊予から帰還
   厩坂宮(橿原市大軽町)に滞在
 十月百済宮に帰還
 舒明天皇十三年(641年)
 十月九日百済宮で崩御
 十月十八日宮の北で殯
 641−629=12
 在位十二間?
ーーーーーー↓澤潟屋(おもだかや)
      初代
      市川猿之助(1855〜1922)
      浅草の立師の子
      襲名系譜
      市村長松
      ↓
      坂東羽太作
      ↓
      山崎猿之助
      ↓
      松尾猿之助
      ↓
      初代
      市川猿之助
      ‖
      二代目
      市川段四郎
ーーーーーー‖
      二代目
      市川猿之助
     (1888〜1963)
      初代の長男
      欧米に留学して舞台芸術を学ぶ
     「猿之助」の名跡を53年間使い続けた
      ‖
      初代
      市川團子
      ‖
      二代目市川猿之助
      ‖
      初代市川猿翁(隠居名)
           澤潟屋(おもだかや)
ーー↓コレラの時代・・・「暴瀉病」
 「鉄砲」・「見急」・「三日コレラ
 「虎狼痢」・「虎狼狸」
 「暴瀉」などとも呼ばれた
 体温が下がり、極度の下痢、脱水によって皮膚は乾燥、シワが寄り「洗濯婦の手 (指先のしわ) 」、「コレラ顔貌」の老人様の顔になる
 蘭方医学に基いた治療法は
 「塩水飲用法(海水を薄めて与える)」
 明治の日本では、「ラムネ」を用いて症状緩和した
 日本のコレラ発生
 1882年 (文政五年)
 文政コレラ
 箱根を越えて江戸に達することはなかった
 1858年 (安政五年) から3年間大流行
 江戸だけで十万人が死亡
 1862年 (文久二年)
 58万人の罹患患者
 江戸だけでも
 七万三千人〜数十万人が死亡
 異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では
 秩父
 三峯神社
 武蔵
 御嶽神社など
 ニホンオオカミを眷属とし
 憑き物落としの
 霊験を持つ眷属信仰が興隆
 憑き物落としの呪具としての
 狼遺骸の需要増大
 ニホン
 オオカミ絶滅の一因・・・大神?=犬神
 1868年 (明治元年)
 明治政府が箱根の関所を廃止
 後は2〜3年間隔で
 数万人単位の罹患患者が出た
 明治六年
 火葬禁止令
 コレラが流行し
 二年でこの法令は廃止
 1879年 (明治十二年)
 と
 1886年 (明治十九年)
 死者が十万人を超た
 1890年 (明治二十三年)
 日本に寄港していた
 オスマン帝国
 軍艦・エルトゥールル号
 海軍乗員の多くがコレラに罹患
 1895年 (明治二十八年)
 軍隊内で、
 死者
 四万人を記録
 第二次世界大戦直後にアジア各地から
 復員兵や引揚者の帰国
 彼らによって持ち込まれた
 コレラで多数の死者を出す
 引揚船のことを俗に
 「コレラ船」と呼んだ・・・
 「コレラ」は俳句や川柳で夏の季語・・・「霍乱」
 「霍乱(カクラン)」=日射病
            夏季の激しい吐き気、
            下痢などを伴う急性病
 「鬼の霍乱」は「夏(・なつ・カ)の季語」
         解・名通・掛
 「鬼の霍乱に町医ひた待つ草家かな(久女)」
  杉田久女(すぎた ひさじょ)
  明治二十三年(1890年)五月三十日
    〜
  昭和二十一年(1946年)一月二十一日)
  ーー
 「鬼の霍乱と云いける虎列剌に斃(たお)れ(蘆花・不如帰)」
 徳冨 蘆花(とくとみ ろか)
 明治元年十月二十五日(1868年12月8日)
    〜 
 昭和二年(1927年)九 月十八日)
 本名は徳富健次郎(とくとみ けんじろう)
 生地は熊本県 水俣市
 号の由来
 自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」から 
ーー↓ペスト・黒死病
 1665年
  〜
 1666年(ニュートン牛頓・牛童・牛菫・紐頓
       万有引力発見の年)
 ロンドンで大流行
 一日に
 6,000人が死亡
 1665年
 ロンドンで流行し、
 約七万人死亡
 ダニエル・デフォーは『疫病の年』
 (A Journal of the Plague Year、1722年)で
 当時の状況を記録
 1720年
 フランスの
 マルセイユで大流行
 1994年
 インドで発生
 1899年(明治三十三年)
 日本で、最初のペスト流行
 1900年より東京市
 予防のために
 一匹あたり五銭で鼠を買上げた
 1926年以降
 日本では
 発生していない
ーー↓枕草子→枕の相思→創始→壮士→想死
 名の
 をかしき
 なり、
 心
 あがり
 しけん・・・・試験・私権・私見・時化ん
        史懸・詞兼・市県・死兼
 と
 おもふに。
 三秡草。・・・三科の祓(みしなのはらひ)?
 蛇床子。・・・ジャショウシ・ジャソウシ
        セリ科のヤブジラミ(Torilis japonica)の
        成熟果実、蛇床子(和蛇床子)
        掻痒・疥癬・ 皮膚白癬症
        湿疹・かぶれ・痒み止めの漢方薬
 苔。・・・・・こけ
 こだに。・・・子ダニ?→子だに・・・蜱・蟎・壁蝨
 雪間の
 青草。
 酢漿、・・・・カタバミ(酢漿草・片喰・傍食・片食)
        全草は酢漿草(サクショウソウ)という生薬名
        消炎、解毒、痢止めなどの漢方薬
 あやの・・・・あや(彩・絢・綾・彪)の→文之
 紋・・・・・・モン(門・問・悶・聞)
        紋=糸+文→意図の文・伊都の文
              異図の文
 にても
 他物
 よりは
 をかし。

 あやふ草は・・・あやふ草(あやう草→危うクサ)
         文 付句作
            叢(操・想・創・双・宗・捜)
         叢=ソウ・くさむら むら むらがる
           草が群生・くさむら
           叢生・淵叢・叢雲・叢書・論叢
 岸の・・・・・・「きし=記(紀)史(詞)」埜
 額に・・・・・・ひたい(比他意・比対)
         ガク=臥句
 生ふ・・・・・・葉付
 らん・・・・・・蘭・乱・覧・藍・濫・爛・卵
 も、・・・・・・摸・戊・模・茂・藻・拇・母
 實に・・・・・・字通爾
 たのもし・・・・頼もし
         他(多・太)の摸(模)詞(史)
 げ・・・・・・・気・解
 なく・・・・・・名句・納句
 あはれ・・・・・亜葉例・吾話例・
         阿波例・安房例・蛙話例
 なり。・・・・・名理
 いつ
 まで
 草は
 生ふる
 處
 いと
 はか
 なく
 あはれ
 なり。
 岸の
 額
 よりも
 これは
 くづれ
 やす
 げ
 なり。
 まことの
 石灰・・・・・石塊・切開・節介
 など・・・・・等(名度)
 には、・・・・爾葉
 え・・・・・・重
 おひず・・・・生いず
        於(緒・悪・尾)比頭
 や
 あらんと
 思ふぞ
 わ・・・・・・話(倭・和・輪・環・羽・把)
 ろ・・・・・・賂(路・露・炉・瑠・鷺・櫨)
 き。・・・・・紀(記・旗・汽・器・毅・基)
ーーーーー
 ・・・いと、おかし、「枕草子」の時代は江戸時代のモノ?