1127日目・・・お袋の入院している病院に訪ねる途中、橋の近くの道路で「キツネ」に遭遇した。はじめは「犬」かと思ったけれど、尻尾も顔も違う「狐」だった。「ゴンキツネ」ではなく「キタキツネ」である・・・最近は「クマ」も街中に出没しているらしいけれど、「生きていく」って、大変。今年は寒さがつづいて、田植えが遅れるそうである。「飢饉」・・・ブログを調べてみると

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 天保の大飢饉
 1833年(天保四年)〜1835〜1837〜1869年にかけて「七年間」の飢饉、「甲斐国百姓一揆」の「天保騒動」、天保八年二月の「大塩平八郎の乱」・・・
 原因は気候の寒冷化・・・
 寛永享保天明に続く江戸四大飢饉の一
 洪水や冷害などの相次ぐ異常気象
 東北地方の飢饉・凶作の前に起きた火山爆発と年
 天明三年
 三月十二日(1783年四月十三日)には岩木山
 七月六日(八月三日)には浅間山が噴火
 天明三年(1783)は、
 秋田藩はもとより、東北に大飢饉
 農書を書き残した
 秋田郡
 七日市村の
 肝いり
 長崎七左衛門の記録・・・
 「幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は・・・」
 江戸時代の三大飢饉・・・享保期、天明期、天保期の飢饉は「三大飢饉」として知られる。
 「享保の飢饉」は、 享保十七年(1732)
 「害虫(ウンカともイナゴともいう)」が原因・・・
ーー
 異常気象の原因
 1783年6月3日
 アイスランド
 ラキ火山(Lakagígar)が
 巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)
 1783年〜1785年
 アイスランド
 グリムスヴォトン火山(Grímsvötn)噴火
 フランス革命の遠因

 浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性
 ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は
 十年程度続いたと考えられる。
 ・・・しかしながら異常気象による不作は1782年から続いており、
 1783年六月の浅間山とラキの噴火だけでは
 1783年の飢饉の原因を説明できていない。
 大型のエルニーニョ
 1789〜1793年に発生し
 世界中の気象に影響を与え、
 天明の飢饉からの
 回復を妨げたとの説もある
 ・・・らしい・・・

 アイスランド南部の
 エイヤフィヤットラヨークトル火山の噴火
 アイスランドの火山爆発は
 フランスでも、気象異変から小麦の不作
 フランス革命(1789年)に影響・・・
 ・・・世界的な異常気象をもたらした
ーー
 1815年
 インドネシア
 タンボラ山大噴火
 タンボラ山の噴火で北半球は
 1816年6月、米国のコネチカットで氷点下を記録し
 雪や霜。英国やスカンディナビアでは5〜10月まで長雨
ーー
 1783〜1784年
 アイスランドラキ火山の噴火(ラカギガル火山)
 1991年
 フィリピン・ピナツボ火山噴火
 日本は
 1993年冷夏でコメ不足
ーー
 2010年
 イヤフィヤトラヨークトル氷河で、
 三月から四月まで火山の噴火
ーー
 今年は
 2013年である・・・
 
ーーー↓
http://www.i-apple.jp/thesis-pdf/200410edo.pdf
 から抜粋記事の部分です
 結果
1670年〜2003年までの「323年間の記録」を調べてみると、中部から東北地方に渡って起こった冷害は「41回」あり、その内「二十七回」は世界の火山爆発の直後に飢饉が起きていることから、火山爆発が関係していると推測される。
 天明三年の飢饉は六月から八月にかけて起こった浅間山の爆発で死者が二万人を越え、関東〜東北まで餓死者四十八万人を出すに至った。
ーーー↓
 ・・・ニジュウ・二重・二拾→似重、似を拾う、邇を重ねる、爾を拾う、似る獣、似る住まい・・・尼に従、丹を重ねる、仁を重ねる、児を拾う、荷(ハス=蓮)を重ねる・・・お稲荷・・・キツネ・・・油揚げ・・・豆腐・・・ニガリ=苦り(苦汁)・・・念=20・・・
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 枕草子
(二〇段)・・・二十段・弐拾段・20段・・・・

 清涼殿の
 うしとらの・・・丑寅(チュウイン)=艮(コン)=牛虎(ギュウコ)
 隅の・・・・・・クマ
 北の・・・・・・喜多(野次喜多)・木田(ボクデン)
 へだて
 なる・・・・・・名留・奈留・鳴る・生る・成る・為る
 御障子には、・・音章二爾葉
 荒海の繪、・・・航海・更改・紅海・黄海降灰
 生き
 たる・・・・・・足る・樽→木+尊→記紀の尊
 ものどもの
 おそろしげなる、
 手長足長・・・主調、即調、則超→超拳法
 をぞ・・・・・緒措
 書かれたる。
 うへの
 御局の戸、・・・音曲
 押し
 あけたれば、
 常に・・・・・・常(陸)→水戸
 目に見ゆるを、
 にく・・・・・・肉(ジク)→字句
 み・・・・・・・視
 など・・・・・・等=ひとしい
 して・・・・・・詞出
 笑ふ・・・・・・和等附・話等附・ワラウ
 ほどに、
ーーー↓
 高欄の・・・・・高覧・香蘭・撹乱・攪乱
         梱らん・交蘭
         考藍→藍山→宇和島藩
         慶長十九年(1614年)十二月二十八日
         伊達秀宗徳川秀忠より
         伊予宇和島藩十万石を与えられ、
         慶長二十年(1615年)三月十八日に
         板島丸串城(宇和島城)に入城
ーー↓藍山
  伊達宗城
  生没年1818〜1892
  父:山口直勝
  義父:伊達寿光
  義父:伊予宇和島藩七代藩主
     伊達宗紀
  改名
  山口亀三郎、
  伊達亀三郎、
  兵五郎、
  宗城
  知次郎
  号
  南洲
  藍山
  大膳大夫
  侍従
  1844〜1858
  伊予宇和島藩
  八代藩主
  1844年
  遠江
  伊予守
  左少将
  参議
  権中納言
  議定
  外国官知事
  民部卿兼大蔵卿
  大蔵卿専任
  1884〜1891
  伯爵
ーーー↓
 ・・・以下の「変換」は読者に任せた・・・御隋(随意)に、どうぞ・・
ーーー↓
 もとに、
 青き
 瓶の
 大なる
 据ゑて、
 櫻の
 いみじく・・・意味字句
 おもしろき
 枝の
 五尺・・・・・語釈・語借
 ばかり・・・・葉仮
 なるを、・・・名留
 いと
 多く
 さしたれば、
 高欄のもと・・・高野長英
 まで
 こぼれ
 咲きたるに、
 ひるかつた、
 大納言殿、・・・代名言出ん
 櫻の・・・・・・オホの→大埜
 直衣の少し・・・直意
 なよらかなるに、
 濃き
 紫の指貫、
 白き
 御衣ども、
 うへに
 濃き
 綾の、
 いと
 あざやか
 なるを
 出して
 參り給へり。
 うへの
 こなたに
 おはしませば、
 戸口の前なる
 細き板敷に
 居給ひて、
 ものなど奏し給ふ。

 御簾のうちに、
 女房
 櫻の唐衣ども
 くつろかにぬぎ
 垂れつつ、
 藤山吹など
 いろいろに
 このもしく、
 あまた小半蔀の
 御簾より
 押し出でたるほど、
 晝御座の
 かたに
 御膳まゐる。
 足音高し。
 けはひなど、
 をしをしと
 いふ
 聲聞ゆ。
 うらうらと
 のどかなる日の
 景色
 いとをかしきに、
 終の
 御飯
 もたる
 藏人參りて、
 御膳奏すれば、
 中の戸より
 渡らせ給ふ。

 御供に
 大納言
 參らせ給ひて、
 ありつる花のもとに
 歸り居給へり。
 宮の
 御前の
 御儿帳
 押しやりて、
 長押のもとに
 出でさせ
 給へるなど、
 唯
 何事もなく
 萬にめでたきを、
 さぶらふ人も、
 思ふことなき
 心地するに、
 月も日も
 かはりゆけども
 ひさに
 ふる
 み室の山のといふ
 故事を、
 ゆるるかに
 うち詠み出して
 居給へる、
 いとをかしと覺ゆる。
 げにぞ
 千歳も
 あらまほしげなる
 御ありさまなるや。

 陪膳
 つかうまつる人の、
 男どもなど
 召すほどもなく
 わたらせ給ひぬ。
 「御硯の墨すれ」と
 仰せらるるに、
 目は
 そらにのみにて、
 唯
 おはしますを
 のみ
 見奉れば、
 ほど
 遠き目も
 放ちつべし。
 白き色紙
 おしたたみて、
 「これに
  只今
  覺えん
  故事、
  一つづつ
  書け」と
 仰せらるる。
 外に居給へるに、
 「これはいかに」と申せば、
 「疾く書きて參らせ給へ、
  男は
  ことく
  はへ
  侍ふべきにも
  あらず」とて、
 御硯とりおろして、
 「とくとく
  ただ
  思ひ
  めぐらさで、
  難波津も
  何もふと
  覺えん事を」と
 責めさせ給ふに、
 などさは
 臆せしにか、
 すべて面さへ
 赤みてぞ
 思ひ
 みだるるや。
 春の歌、
 花の心など、
 さいふ
 いふも、
 上臈
 二つ三つ
 書きて、
 これにとあるに、
ーー
 年經れば
 齡は老いぬ
 しかは
 あれど花をし見れは
 物おもひもなし
ーー
 といふことを、
 君をし
 見ればと
 書きなしたるを
 御覽じて、
 「唯
  この
  こころばへどもの、
  ゆかし
  かり
  つるぞ」と仰せらる。
 ついでに、
 「圓融院の
  御時、
  御前にて、
  草紙に
  歌一つ書けと、
  殿上人に
  仰せられけるを、
  いみじう
  書き
  にくく、
  すまひ申す
  人々ありける。
  更に
  手の
  惡しさ
  善さ、
  歌の折に
  あはざらんをも
  知らじと
  仰せられければ、
  わびて
  皆書きける中に、
  ただいまの
  關白殿の、
  三位の
  中將と聞えけるとき、
ーー
  しほの
  みつ
  いづもの
  浦の
  いつもいつも
  君をば
  ふかく
  おもふ
  はやわが
ーー
 といふ
 歌の末を、
 たのむはやわがと
 書き給へり
 けるをなん、
 いまじく
 めでさせ
 給ひける」と仰せらるるも、
 すずろに
 汗あゆる
 心地ぞしける。
 若からん人は、
 さも
 え書くまじき
 事のさま
 にやとぞ
 覺ゆる。
 例いと
 よく書く人も、
 あいなく
 皆つつまれて、
 書き
 けがし
 など
 したるもあり。

 古今の
 草紙を
 御前に置かせ給ひて、
 歌どもの本を
 仰せられて、
 「これが末はいかに」と
 仰せらるるに、
 すべて
 夜晝心に
 かかりて、
 おぼゆるもあり。
 げによく覺えず、
 申し出でられぬことは、
 いかなることぞ。
 宰相の
 君ぞ
 十ばかり。
 それも
 おぼゆるかは。
 まいて
 五つ六つなどは、
 ただ覺えぬよしを
 ぞ啓すべけれど、
 「さやはけ
  惡くく、
  仰事を
  はえなく
  もてなすべき」といひ
 口を
 しがるも
 をかし。
 知ると
 申す人なきをば、
 やがて
 詠みつづけさせ給ふを、
 さてこれは
 皆知りたる
 事ぞかし。
 「など
  かく
  拙くはあるぞ」といひ
 歎く中にも、
 古今
 あまた
 書き寫しなどする人は、
 皆覺えぬ
 べきことぞかし。

 「村上の御時、
  宣耀殿の
  女御と
  聞えけるは、
  小一條の
  左大臣殿の
  御女に
  おはしましければ、
  誰かは知り聞えざらん。
  まだ姫君に
  おはしける時、
  父大臣の
  教へ聞えさせ
  給ひけるは、
  一つには
  御手を習ひ給へ、
  次には
  きんの
  御琴を、
  いかで
  人に
  ひきまさらんと
  おぼせ、
  さて
  古今の
  歌
  二十卷を、
  皆
  うかべさせ給はんを、
  御學問には
  させたまへと
  なん
  聞えさせ給ひけると、
  きこしめし
  おかせ給ひて、
  御物忌なりける日、
  古今を
  かくして、
  持て
  わたらせ給ひて、
  例ならず
  御几帳を
  ひきたてさせ
  給ひければ、
  女御
  あやしと
  おぼしけるに、
  御草紙を
  ひろげさせたまひて、
  その年
  その月、
  何のをり、
  その人の
  詠みたる
  歌はいかにと、
  問ひきこえさせたまふに、
  かうなりと
  心得させ
  たまふも
  をかしきものの、
  ひが
  おぼえもし、
  わすれたるなどもあらば、
  いみじかる
  べき事と、
  わりなく
  思し
  亂れぬべし。
  そのかた
  おぼめかしからぬ人、
  二三人ばかり
  召し出でて、
  碁石して
  數を置かせ給はんとて、
  聞えさせ
  給ひけんほど、
  いかに
  めでたく
  をかしかりけん。

 御前に
 侍ひけん人さへこそ
 羨しけれ。
 せめて
 申させ給ひければ、
 賢しう
 やがて末までなどにはあらねど、
 すべて
 つゆ
 違ふ
 事
 なかりけり。
 いかで
 なほ
 少し
 おぼめかしく、
 僻事見つけてを
 止まんと、
 ねたきまで
 思しける。
 十卷にもなりぬ。
 更に
 不用なりけりとて、
 御草紙に
 夾算して、
 みとの
 ごもりぬるも
 いと
 めでたし
 かし。
 いと
 久しうありて
 起きさせ給へるに、
 なほ
 この事
 左右なくて止まん、
 いと
 わろかるべしとて、
 下の十卷を、
 明日にも
 ならば
 他をもぞ
 見給ひ合するとて、
 今宵
 定めんと、
 おほとなぶら
 近く
 まゐりて、
 夜更くるまで
 なん
 よませ給ひける。
 されど
 終に
 負け聞えさせ給はず
 なりにけり。

 うへ渡らせ給ひて後、
 かかる事
 なんと、
 人々
 殿に申し奉りければ、
 いみじう
 思し
 騒ぎて、
 御誦經など
 數多せさせ
 給ひて、
 そなたに
 向ひて
 なん
 念じ
 暮させ
 給ひけるも、
 すきずきしく
 あはれ
 なる事なり」など
 語り出させ給ふ。
 うへも
 聞しめして、
 めでさせ給ひ、
 「いかで
  さ
  多く
  よませ
  給ひけん、
  われは
  三卷
  四卷
  だにも
  えよみ
  はてじ」と仰せらる。
 「昔は
  えせものも
  皆
  數寄
  をかしう
  こそありけれ。
  このごろ
  かやうなる事
  やは
  聞ゆる」など、
 御前に侍ふ人々、
 うへの
 女房の
 こなた
 ゆるされたるなど
 參りて、
 口々
 いひ出でなどしたる程は、
 誠に
 思ふ事なく
 こそ
 覺ゆれ。
ーーーーー
 ・・・いと、ナガケレバ、変換、面倒くさし・・・