1075日目・・・「もどき(擬、抵牾、牴牾)」とは、批判や非難などを意味する動詞「もどく」の名詞形、であるらしい・・・ブログで調べてみると・・・「牴牾(もどき)」の訓読みと、「牴牾(テイゴ)」の音読みは、「発音」されると「異なった意味のコトバ」になるらしい・・・しかも、その両方の「音訓」で日本語は使用されている・・・スゴイネ、日本人の脳ミソは・・・漢字を分解すれば・・・
「牴(テイ)」=「牛+氏+一」
「牾(ゴ・グ)」=「牛+五+口」
である・・・
大修館漢和辞典の「567ページ・中段」に「牴牾(もどき)」の説明があるのも、アソビであろう・・・
「牴(テイ)」=ふれる・あたる・いたる・あう・ほぼ・おおよそ
牡のヒツジ=牡羊=羝(テイ・タイ)
羯(ケツ・ケチ・カツ)は去勢された羊・五胡の一、匈奴の別種で
山西省に居住
えびす(恵比寿・夷・戎・蛭子・胡・恵比須)とも訓よみされる
熟語に「牴牾(テイゴ)」、「牴触=(テイショク)=抵触」、「牴羊(テイヨウ)」が記されているが、「羝=羊+氏+一=牴羊」で、「氏一(テイ・タイ・もと・ふもと・木の根・いたる・伏せる・たれる・身分が低い・卑しい・とも・水草を追って移動するチベット種族の一・五胡の一)」が合字されているのは「呧(テイ・叱る)・抵(テイ・逆らう)・底(テイ・そこ)・低(テイ・ひくい)」である。
「氏一」とは「氏の元(はじめ・もと)」であるが、ウイッキペデアによれば、「氏」とは
日本古代では、「事実上」または「系譜上」、祖先を同じくする同族集団・・・「系譜上」とは「記録上」ということで、「事実上」でなくてもヨイ、と言う事らしい。
古代中国では同一の先祖から出た「血縁集団(姓)」から分れ出た小集団で、その「小集団固有の名称」のことを指す。氏にあたる「各小血縁集団」は、姓にあたる「大血縁集団」のうち、居住地や職業、一族の中の社会的序列などによって独立した集団の人々。
古代中国の「氏」は、「姓」と呼ばれる「血縁集団の中の特定の構成員」を起源として、血統的に「姓から分節された集団」。「姓」が部族、「氏」が氏族に相当・・・と説明されている・・・漢字の「姓=女+生→女性の母から生まれる」の説明も合理的である。では「古代日本」には「姓」はなかったのか?日本では「姓(かばね)」と呼ばれているが、「かばね」は「屍=死体」の漢字にも当てられている。
「海ゆかば、山ゆかば」でゴロゴロと「屍=死体」になるのは「天皇の兵士」だが・・・「部族集団=姓集団」は存在しなかった、無かった?・・・「天皇」に随伴してきた「伴=供」の「渡来集団の部頭」は「祖先」になったのだ。そして「系譜を作った」・・・原住民日本人の生まれた場所としての「苗字=苗+字」はあった。まさに「苗を植えつけられ、増やされた=字=ウ+子(一了)」存在だが、「侵略・征服」された「末路」なのだ・・・日本に渡来した「武力集団」にも「姓」はなかった?・・・「氏」はあったかも・・・「牸(めうし・シ・ジ)=牛+字」は「牝牛・家畜の牝、雌」である・・・「天皇」には「氏姓」が無い。「名」はある・・・この近代国家の「権力者としての天皇」には「戸籍」がないらしい・・・「天皇」が「氏姓」を臣下に賜う、与えるモノだから、「天皇自身」は「姓」を有しないのか?・・・「日本国憲法」の枠内では「憲法違反」である・・・ナッ・・・「天皇」を「日本国民」として認めていない理由・・・である。
「羯=羊+葛=去勢された牴羊」である。「犍=牛+建」は「去勢された牡牛」である。不思議なことにこの「羯」の漢字は
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仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、
「羯諦」・「羯諦」・波羅・「羯諦」・波羅僧・「羯諦」・菩提薩婆訶。般若心経
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の最後のヶ所に使用されている。漢和辞典の703ページ「羊+葛」、四回も記されて、そして唱えられる「羯諦(ギャテイ)」・「羯諦(ギャテイ)」とは「去勢された羊(ひつじ)、諦(あきら)め」である・・・「波羅僧」とは文字道理「波の羅の僧」であるが、「名見の草(祖有→素胡)」、「婆の訶(叱る・カ)」である。
ウイッキペデアでは
「仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ」
「この代表者が、釈迦三尊の
文殊菩薩と
普賢菩薩である。彼らは、
釈迦のはたらきを
象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、
観世音菩薩、
勢至菩薩なども、
自らの成仏とはかかわりなく、
活動を続ける菩薩である」
「菩を提示する薩(梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは「覚」であり、sattvaとは「生きている者」の意味で衆生とか有情と意訳された。「菩薩」は「覚りを求める衆生」であり、「摩訶薩」は「偉大な衆生」・・・「覚りを求める人」と「悟りを具えた人」では違うが、二つの意味で呼ばれるのようになった、らしいが「先生(親)」と「生徒(子)」の「立場」を一緒に、「対等」にしたのが間違いの元であるな・・・「法の下に護られる人々(市民・国民)」と「学校教育の教育者(先生)、学習者(生徒)」、「親(養育者)」と「子(被養育者)」の区別を混乱させたのさ・・・「法に護られべきは先生(親)も生徒(子)も同一」である。「教育者(親)と生徒(子)は人生経験と、その立場が異なる」のはアタリマエである。そして、「先生(親)の教授資質能力の差」も「生徒(子)の受講資質能力の差」も「均等」ではないのはアタリマエである。そして「先生(親)」が「生徒(子供たち)」に「均等」に対応し、教えるのは望まれる「立場」であるが、個々の「生徒の能力」は「均等」ではない。「先生(親)」とは、個々の「生徒(子)」に特殊、個別的な教え方の「教育能力」を要求されるのもあたりまである。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、「体力」に於いて「生徒(子供たち)の資質能力」は一様でないことを自覚すべきであるナッ・・・
でついでに、
「布薩」は仏教用語で、修行者たちが毎月二回定期的に集まり、自分の犯した罪を告白、懺悔(さんげ)し、清浄な生活を送ることを確認しあう儀式」であるそうだ。「懺悔」をせねばならない「人間」とはナンであるのか?
「説戒」ともいい,サンスクリットの「ウパバサタUpavasathaの俗語形を音写」したモノであるらしいが、「説戒」とは「戒めを説く」であろう。「いましめ(戒)」と「今、閉め」なのか・・・「互い道徳=約束・ルール実践、行動、行為」以前の「心の倫理=厳守規定」であろう。「たがい→ルール→たがうな→まもれ」である。だが、「互いのルール」が「規範意識」として、マモレない「自然、社会環境」もある・・・どうするのか・・・
「薩」それ自体の「漢字説明」はない・・・「薩」は「廾(サ・丱・++=拱)+阝+産」である。760ページには「薩(すくう・サツ・サチ)」とある。梵語の「サッタの音訳」であるらしい。「覚りを求める人」と「悟りを具えた人」の二つの意味で呼ばれるので「薩埵」・・・簡単に云えば「知識を学びたい人=学生」、「知識を有している人=教師」である。だが「教師」が「人格者」であるとはかぎらない。「覚りを求める人」も「悟りを具えた人」も、あるトリマク「自然環境」、「社会状況」に生存している・・・自然の脅威に無自覚な人々には個々の情報手段で教えるコトができる。だが「社会状況」とは「人間の相互関係を規定する意識の根幹」である。この「根幹意識」は逆既定として「人間相互関係」を「既定のモノ・普遍なモノ・不変なモノ」としてきた「意識的、無意識的」差別である。「区別」ではない「差別」である。「別称」と「蔑称」は異字漢字なのに「同音」であるところが「問題」である。「格差」の根源は個々人が求めている「生活能力の多寡」であるが、社会的な「多と寡」の「均等分配、配分」は「現今社会の意識的システム」とはなっていない・・・
「牾(ゴ・グ・さからう)=牛+吾(五口)」だが、ボクの漢和辞典には載っていない。類字は「悟る」である、ナッ・・・「リッシンのカタヨリはワレ」である・・・
「特別」の「特」は家畜類の「牡」で「牡牛」である。そして、「三、四歳の獣」、「一匹の生贄」で、「野獣の生贄」であるが「家畜の生贄」ではない・・・
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「牴牾(もどき)」
名詞の下に付いて、それと張り合うくらいのもの、それに匹敵するもの、 そのものに似て非なるものである、などの意を表す。
「役者牴牾」
「もどくこと」。「非難」。「批判」。 日本の芸能において、主役を 揶揄 ( やゆ ) したり模倣したりして滑稽を演ずる役
「牴牾(ていご)」
物事が食い違うこと。つじつまが合わないこと。
「もどき」と読めば別の意になる。
「牴触(ていしょく)」
法律、規定などにふれること。違反。 「法に牴触する行為」
物事が互いに矛盾し衝突すること。食い違うこと。
ふれたり突き当たったりすること。
「抵触・牴触・觝触」
触れること。衝突すること。転じて、物事が相互に矛盾すること。
「牴(テイ)」突き当たる。ふれる。さしさわる。
「牴牾(テイゴ)・牴触」
「抵」と通用する
「もどき(擬き・抵牾・牴牾」
「もど(擬)く」の連用形から
日本の芸能で、主役にからんだり、前に演じたものをこっけいにまねたりすること。また、その役・演目。
里神楽のひょっとこ、能の「翁」に対する「三番叟(さんばそう)」
「擬(ギ)」
はかる・なぞらえる・まがい・もどき
どうしようかとはかり考える・思案する
「擬議」
他のものと引き比べてみる。本物らしく似せる。なぞらえる。
「擬音・擬勢・擬態・擬似・擬餌」
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西 周(にし あまね)
文政十二年二月三日
(1829年3月7日)〜
明治三十年)一月三十一日
(1897年)
幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者
貴族院議員。男爵。
勲一等瑞宝章(1897年)。
周助。
石見国
津和野藩(島根県津和野町)の
御典医の家柄
父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男
西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたるのは
森鴎外
天保十二年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学ぶ
安政四年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝
津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究
文久二年(1862年)には幕命で
津田真道
榎本武揚らとともにオランダ留学し、
フィセリングに法学を、
カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。
慶応元年(1865年)に帰国
目付に就任、徳川慶喜の側近として活動
慶応四年(1868年)
徳川家開設の沼津兵学校初代校長に就任
『万国公法』を訳刊
明治三年(1870年)
明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任
軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係
軍政の整備とその精神の確立につとめた。
明治六年(1873年)
森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと
明六社を結成
明治七年
機関紙『明六雑誌』発行
啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。
東京学士会院(現在の日本学士院)
第2代及び
第4代会長
獨逸学協会学校(獨協学園)の
初代校長
明治二十三年(1890年)
貴族院議員
明治三十年(1897年)1月31日に死去
享年68
「philosophy」を音訳でなく翻訳語として
「哲学」という言葉を創った
「藝術(芸術)」
「理性」
「科學(科学)」
「技術」など多くの哲学・科学関係のことばは
西の考案した訳語である
「漢字の熟語」を多数作った一方では
かな漢字廃止論を唱え、
明治七年(1874年)、
『明六雑誌』創刊号に、
『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。
著書
『百学連環』
『百一新論』
『致知啓蒙』
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私擬憲法(しぎけんぽう)
明治時代の
大日本帝国憲法発布以前に、
民間で検討された
憲法の私案
概要. 現在60以上の存在が知られている。
もっとも古い私擬憲法は、
青木周蔵の起草による
大日本政規(1872年・明治五年)と
宇加地新八の
建言議院創立之議(1873年・明治六年)
1880年(明治十三年)十一月
国会期成同盟
第二回大会で、翌年に憲法草案を持参することを決議
1881年(明治十四年)に
多数の私擬憲法がつくられた
抵抗権や
革命権(東洋大日本国国憲按)を容認したもの、
人民主権、議院内閣制を主張するもの、
国民投票で皇帝を
廃立する権利を規定したものもあった。
1887年(明治二十年)十二月二十六日
大日本帝国憲法
制定、発布され、即日施行された保安条例によって、私擬憲法の検討及び作成は禁じられた。これにより、私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されることはなく、大日本帝国憲法に直接反映されることはなかった。
主要な私擬憲法
1880年(明治13年)以前
大日本政規(青木周蔵)
建言議院創立之議(宇加地新八)
大日本国憲法大略見込書(筑前共愛公衆会)
国憲大綱(元田永孚)
1881年(明治14年)以降
国憲意見(福地源一郎)
私擬憲法案(交詢社)
日本憲法見込案(内藤魯一)
東洋大日本国国憲按(植木枝盛)
日本憲法見込案(立志社)
五日市憲法[日本帝国憲法](千葉卓三郎)
憲法草稿評林(小田為綱)
岩倉具視憲法綱領(井上毅)
国憲汎論(小野梓)
憲法草案(西周)
私草大日本帝国憲法案(田村寛一郎)
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原文
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立志社 東洋大日本国国憲按
西周 (啓蒙家) - Wikipedia
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