1058日目・・・「ねこ好き」・・・「ごっこ」だったんだろう。「あそび」・・・「よそおう・まねする」・・・舞台じゃぁ「演技する」ってなるかな・・・「台本・脚本」がワルかった・・・「国家的犯罪者の知能」は「国家的な機密財産」にもなるだろう・・・「ねこ」に託したのは迷惑だったカモ・・・「トラ(虎)」も「ライオン(獅子)」も「ネコ科」、「イノシシ(猪・亥)」は「ブタ(豚)科」では、なかった。「イノシシ(猪、豬、Sus scrofa)」は、「ウシ目(偶蹄目)・イノシシ科」である。本種を家畜化したものが、pig・

ーー
 故爾御合而、
 以其
 御刀之
 草那藝劒、
 置其
 美夜受比賣之許而、
 取
 伊服岐能山
 之藭
 幸行。
 於是詔、茲山藭者、徒手直取而、騰其山之時、
 白猪
 逢
 于山邊。
 其
 大如
 牛。
 爾爲
 言擧而詔、
 是化
 白猪者、
 其藭之使者。
 雖
 今
 不殺、
 還時
 將殺而騰坐。
 於是
 零大氷雨
 打惑
 倭建命。
 此化
 白猪者、
 非其藭之使者、
 當其藭之正身、
 因
 言擧
 見惑也。
 故、還下坐之、
 到玉倉部之芿泉
 以
 息坐之時、
 御心稍寤。
 故、
 號
 其芿泉、
 謂
 居寤
 芿泉也。
ーーーーー
 和歌山県
 古くから「木の国」と謳われた山林地
 紀伊水道熊野灘を挟んで変化に富んだ海岸線が続く
 紀伊山地
 中央に
 大峰山脈が南北には連なり、
 奈良県との県境を
 紀和山脈(陣ヶ峰:1106メートル、護摩壇山:1372メートル、安堵山:1184メートル)を経て
 果無山脈に続き、それから分岐して
 竜門・長峰・白馬・虎が峰などの山脈が北から南へ並行し、さらのその南に
 大塔山(1122メートル)を中心とする
 山塊が半島の南端近くまで迫っている
 ニガイチゴは
 「虎が峰」でもっとも普通に見られるキイチゴ
 つる状に伸びた茎に実る。葉に棘
 北海道を除いて、全国の山地に自生する落葉低木
ー 
 「古事記」の神武東征時
  神武天皇の兄
  五瀬命が矢傷受け死去、
 「陵はすなはち紀國の竈山にあり」
 317年
 熊野那智大社
 那智滝の近くから現在地に移建
 5世紀から7世紀
 岩橋千塚古墳群が築造

701年
 文武天皇の勅願により道成寺が建立
 816年8月4日
 弘法大師空海
 嵯峨天皇から
 高野山の地を賜る
 1000年
 一条天皇の勅願により
 長保寺が建立
 後白河法皇らが
 熊野詣を多く実施
 1130年
 根来寺が建立
 1543年9月23日
 鉄砲伝来、
 根来寺の僧
 津田算長根来寺に伝え、
 根来衆が量産
 1585(天正十三)年
 羽柴秀吉の命を受けた
 羽柴秀長による
 和歌山城築城開始
 古代からの名勝地
 「和歌浦」に対して、
 秀吉が
 「和歌山」と命名
 1600年
 関ヶ原で徳川氏に味方した
 浅野幸長紀伊30万石で和歌山城に入城
 後に
 安芸広島へ転封
 1619年7月19日
 徳川頼宣和歌山城に入城
 紀州徳川家創設
 元禄・宝永期(1688〜1711)
 紀州藩では
 地溝・井堰の
 開削や新田開発
 年貢の増徴策を進めた
 大畑才蔵(おおはたさいぞう)や
 井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)が活躍
 1700(元禄十三年)に
 藤崎井を手がけ、
 那賀郡藤崎(紀の川市)から
 名草郡山口(和歌山市)に至る
 24キロの用水路を造る
 1716年9月28日
 紀州藩
 徳川吉宗征夷大将軍に就任
 享保の改革実行
 1826年
 養翠園完工
 1871年(明治四年)8月29日
 廃藩置県により
 和歌山県設置
 1886年(明治十九年)10月24日
 ノルマントン号事件
ーー↓
 1886年(明治十九年)10月24日午後8時ころ、
 横浜港から
 日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かった
 イギリス貨物船
 ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって
 三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没。その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助され保護
 ところが
 日本人乗客25名はただの一人も
 避難できた者がおらず、
 船中に取り残されてことごとく
 溺死した。
 初代外務大臣
 井上馨は、
 松本鼎
 和歌山県知事からの電報で遭難事件のあらましを知った
 第1次伊藤内閣の
 外務大臣井上馨は、日本人乗客が全員死亡したことに不審をもち、その場の実況調査を命令した
 国内世論は、ドレーク船長以下船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に沸騰した。たとえば、『東京日日新聞』(1872年創刊)は、「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や2人の日本人乗客とても助からないはずがない」との憤懣を記し、「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と論じている。また、事実検証についても不平等条約の壁に阻まれ満足な解決が得られなかったといわれる。
 11月1日、神戸駐在在日英国領事の
 ジェームズ・ツループは、
 領事裁判権にもとづき
 神戸領事館内管船法衙において
 海難審判をおこない、11月5日
 ツループは、ドレークの「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った(ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない)」という陳述を認めて、船長以下全員に無罪判決を下した。
ーー↑
 ジョルジュ・ビゴー
 「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)
 条約改正時期尚早派の
 フランス人ジョルジュ・ビゴー
 ノルマントン号事件でのイギリスの対応を翌年のフランス船メンザレ号遭難事件を利用して批判した。
 ボート上のドレーク船長が
 「いま何ドル持っているか。早く言え。タイム・イズ・マネーだ」
 と言っているこの判決を知って日本国民は悲憤慷慨した。
 『東京日日新聞』は
 「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲であるはずがない」
 と紙面で抗議した。全国各地から遺族への義捐金が寄せられ、新聞各紙はいっそう硬化して、連日、悲しみの論説と弾劾の記事を掲げた。高名な法学者たちもドレーク船長の告訴をとなえ、在野の政客は各地に演説会をひらいてイギリスの横暴と非人道を責め、民衆に国権回復をうったえた。
 社交場
 鹿鳴館での舞踏会をはじめとする欧化政策によって条約改正交渉を進めていた井上外相も沸騰する国内世論を黙止することができず、
 11月13日、内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に殺人罪で告訴させた。告訴は翌14日におこなわれた。これに対し、イギリス側は神戸で予審をおこない、ついで横浜に場をうつした。
 12月8日、在日横浜英国領事館判事の
 ニコラス・ハンネンはドレークに
 有罪判決を下し、
 禁固刑三か月に処したが、死者への賠償金は支払われなかった
ーーー
 1890年(明治23年)9月16日
 エルトゥールル号遭難事件
 1890年(明治23年)9月16日夜半
 オスマン帝国
 軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件
 木造フリゲート艦・エルトゥールル号
 (1864年建造、全長76m)
 1887年に行われた日本皇族、
 小松宮夫妻の
 イスタンブル訪問に応えることを目的に、
 オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて
 日本へ派遣された
 1889年7月14日
 イスタンブルを出港
 11ヶ月後
 1890年6月7日横浜港に入港
 エルトゥールル号の司令官
 オスマン・パシャを特使とする一行は
 6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈
 オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎
 9月16日22時ごろ
 台風による強風にあおられ
 紀伊大島の
 樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁
 機関部に浸水して水蒸気爆発、沈没
 司令官オスマン・パシャをはじめとする
 587名が死亡または行方不明
 樫野埼灯台樫野埼灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせ、灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど献身的に生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された
 69名が救出され生還
 遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられ、沖は神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
 こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、69名の生存者は一旦東京に送られ、遭難事故の20日後の
 10月5日に東京の品川湾から出航した日本海軍の
 「比叡」と
 「金剛」により、
 翌年の
 1891年1月2日に
 オスマン帝国
 首都・イスタンブルに送り届けられた
 なお2隻には、
 秋山真之
 海兵十七期生が
 少尉候補生として乗り組んだ
ーー
 山田寅次郎
 茶道宗徧流の跡取り、山田寅次郎もこの事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。彼は日本の民間からエルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に、集まった義捐金を携えて自らオスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。
 山田が民間人ながら義捐金を持ってやってきたことが知られるや、彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でトルコに留まることを決意した山田はイスタンブルに貿易商店を開き、士官学校で少壮の士官に日本語や日本のことを教え、日本政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。彼が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には
 後にトルコ共和国
 初代大統領となった
 ムスタファ・ケマルもいたとされる。
 山田がイスタンブル滞在中に起こった日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続け、同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対して親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなんで、トーゴーという名を子供につけることが流行したという。
ーー
 「和歌山県」は明治四年に成立
 古くは「岡山」
 天正十三(1585)年に豊臣秀吉が名勝地の「和歌の浦」を地名とした対として「和歌山」とした。
 「若山」とも記された
 「和歌山」の語源は、
 「和歌浦」の
 「和歌」と
 「岡山(現在の和歌山県和歌山市岡山)」の山との
 合成語とされている
 明治時代1871年
 廃藩置県
 和歌山県
 田辺県
 新宮県が設置
 後にこの三県が合併
 版籍奉還後に
 正式名称
 和歌山藩(わかやまはん)
 藩庁は
 和歌山城和歌山県和歌山市
 藩主は紀州徳川家
 徳川
 御三家の一
 石高は55万5,000石
 (藩名の紀伊37万石のほか、
  伊勢南部3郡18万石、
  大和に約1,000石の所領
  石高には付家老の
  水野家新宮領と
  安藤家田辺領を含む)
 紀伊国
 関ヶ原の戦いの後、
 浅野幸長に与えられ
 浅野家の治める紀州藩(外様)が成立した。
 元和五年(1619年)
 浅野氏が
 福島正則改易に伴い
 安芸国広島藩に移される
 駿府藩徳川家康
 十男
 徳川頼宣が南伊勢を加えて
 55万5,000石で入封して
 紀州徳川家の治める紀州藩親藩)が成立した。
 頼宣は浪人を多く召抱え(将軍家に対する対抗心からともいわれるが詳細は不明)、由井正雪との関係を幕府に疑れた
 第十一代藩主
 斉順は
 天明期の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。拝借金残金は4万5千両に達していた。
 第十三代藩主
 慶福は
 第十一代将軍
 徳川家斉
 孫であった
 第十四代将軍
 家茂となって、
 紀州藩主から出た
 二人目の将軍となった。
 第八代
 吉宗から
 第十四代
 家茂までは全て紀州藩の系列
 (第十五代慶喜一橋徳川家の養子から将軍になっているため、家柄上は紀州藩の系列になる)
 廃藩置県により
 和歌山県になるが、
 紀伊国の東部と
 伊勢国紀州藩領は
 三重県編入
ーー
 紀州徳川家
 江戸時代に紀伊国伊勢国を治めた徳川氏の一支系
 徳川御三家の一つ。
 紀伊徳川家ともいい、単に紀州家、紀伊家とも
 初代
 頼宣が
 常陸国に封じられて
 常陸介に叙任された
 故事に因み、
 紀伊国へ移封された後も、
 頼宣の子孫は
 代々
 常陸介に叙任された。このため、
 徳川常陸介家(–ひたちのすけ–)という

ーーーーー
 陸奥 宗光(むつ むねみつ)
 天保十五年七月七日(1844年8月20日)〜
 明治30年(1897年)8月24日)
 カミソリ大臣と呼ばれ、
 外務大臣として
 不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。
 江戸時代までの
 通称は陽之助(ようのすけ)
ーー
 第6代農商務大臣
 内閣
 第一次
 山縣内閣
 第一次
 松方内閣
 任期 1890年5月17日〜1892年3月14日

 第8代外務大臣
 内閣
 第二次
 伊藤内閣
 任期 1892年8月8日〜1896年5月30日

 元老院議官
 任期 1875年4月25日 - 1875年11月28日

 衆議院議員
 選挙区 和歌山県第1区
 当選回数 1回
 任期 1890年7月1日 - 1891年12月25日

 枢密顧問官
 任期 1892年3月14日 - 1892年8月8日

 その他の職歴
 第4代神奈川県知事
 (1871年10月5日 - 1872年8月17日)
 第4代兵庫県知事
 (1869年7月28日 - 1869年8月24日
 正二位・勲一等・伯爵。家紋は仙台牡丹

 天保十五年(1844年)八月二十日、
 紀州藩
 伊達宗広と
 政子(渥美氏)の
 六男として生まれる。
 幼名は牛麿(うしまろ)
 生家は伊達政宗の末子
 伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに
 陸奥伊達家から分家した
 駿河伊達家の子孫
 伊達小次郎、陸奥陽之助と称する
 国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣勘定奉行)であったが、宗光が八歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家は困苦と窮乏の生活

 陸奥宗光
 安政五年(1858年)
 江戸に出て
 安井息軒に師事
 吉原通いが露見し破門
 その後は
 水本成美に学び、
 土佐藩
 坂本龍馬
 長州藩桂小五郎木戸孝允)・伊藤俊輔伊藤博文)などの志士と交友
 文久三年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、
 慶応三年(1867年)には坂本龍馬海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
 龍馬暗殺後、
 紀州藩
 三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、
 海援隊
 同志十五人と共に彼の滞在する
 天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こした

 明治維新
 岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係[1](1868年)。戊辰戦争に際し、局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功し、その際、未払金十万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には払えなかった。これを大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受けることに成功する。兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年1873年)に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。

 明治十年(1877年)
 西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮五年の刑を受け、投獄
 山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。
 出獄の後の明治十六年(1883年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation
 (道徳および立法の諸原理)』は
 「利学正宗」の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、明治十一年(1878年)に伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。
 明治十六年(1883年)1月
 特赦によって出獄
 伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学
 明治十七年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も七冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されているのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ

 明治十九年(1886年)二月に帰国し、十月には外務省に出仕した。
 明治二十一年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
 帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任。
 明治二十三年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めた。閣僚中、唯一の衆議院議員であった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長中島信行海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
 明治二十四年(1891年)に
 足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会
 田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。
 同年五月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。
 十一月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、
 明治二十五年(1896年)3月、辞職して
 枢密顧問官

 第二次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。
 明治二十七年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた十五ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。
 同年8月、子爵を叙爵する。
 一方、
 同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。
 七月二十三日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、
 二十五日には
 豊島沖海戦により
 日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
 戦勝後は伊藤博文とともに全権として
 明治二十八年(1895年)、
 下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、
 ロシア、ドイツ、フランスの
 三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
 これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。
 明治二十九年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。
 明治三十年(1897年)8月24日、肺結核のため
 西ヶ原の陸奥邸で死去
 享年54(満53歳没)
 墓所大阪市天王寺区夕陽丘町
 昭和二十八年(1953年)に鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺に改葬
 明治四十年(1907年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。
ーーー
 明治25年(1892年)から執筆を開始した
 『蹇々録(けんけんろく)』は、
 日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、
 昭和四年(1929年)に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。
 昭和二十七年(1952年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文三条実美山縣有朋等の主要政治家60人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。
 後妻の
 陸奥亮子
 「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性
ーー
 陸奥宗光が、藩閥打倒、議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。
 「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」
 と自著『蹇々録』の中で語っている。
 坂本龍馬船中八策西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。
 海援隊時代の経験を買われ、横浜の
 生糸貿易の
 総元締となっている
ーーーーー