1053日目・・・「大和魂」、「中国魂」、「西洋魂」と言うモノがあったらしい。今現在も、「魂魄(コンパク)」、「魂(たましい・コン)」とか「魄(たましい・パク)」とか、「霊魂(レイコン)」、「言霊(ことだま・ゲンレイ)」、「幽霊(ユウレイ)」、「セイレイ=聖霊・精霊・生霊」、「鬼(おに・キ)」とかのコトバは偶々というより、結構日常生活で使用されているが、そんな「たましい」って何なのか?・・・今年の節分の「鬼は外」の豆まきは終わったが、尾張名古屋の地元では「鬼は外」とは云わないし、叫ばない。「鬼子母神」の

 モチロン、「権力」を握った人間もこの弓なりの島に波状的にやってきた「外来者」の積み重ねだった・・・「外来者」が一先ず落ち着いて「王朝」と言う支配体制を確立したが列島全部を完全に行政支配したワケではない。そして「外来王朝の同胞血統の内部分裂」である。だから「源日本人」の「大和タマシイ」は字面とおりの「大の和」なのである。「和歌の和」である。「他人事のトバッチリを受けた者の和の願望」である。「お客さん、どうか、喧嘩は店の外でオやりください」、「出来れば、どうですか、私がオゴリますから、仲良く、モウ一杯やって、ミズに流しませんか」・・・
 しかも、これは「廄豐聰爾皇子=聖徳太子の和」とは異なるのだ。元々「十七条憲法」の「文字自体、文章自体」の「記録」が「日本書紀」にあった、などとは思えない・・・
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 憲法十七條
 (いつくしき・のり・とを・あまり・なな・をち)
 『日本書紀
 第二十二巻
 豊
 御食炊屋姫天皇
 推古天皇
 十二年
 四月
 三日
  ↓
 ユリウス暦
 604年
 5月
 6日
 の
 条
 夏
 四月
 丙寅朔
 戊辰
 皇太子
 親肇作
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 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
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 十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。
ーー
 十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。
ーー
 憲(いつくしき)意通句詞記
 法(のり)・・・之(乃能廼埜)理(利)
 十(とを)・・・足
 あまり・・・・・余
 七(なな)・・・漆
 條(をち)・・・淨
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 「明治以前」に「日本人居住地区の人間」が全諸階層として「日本人」と意識したのは「元寇」からであろう。それでも「戦い」には儀式が伴っていた・・・「やぁやぁッ、遠からン者は、音にも聞け、近くバ、寄って視よ、ワレこそは・・・でアぁ〜ル」とノタマッテいる間にモンゴル(蒙古)、支那、高麗、朝鮮兵にドドッと攻め殺された。「武士道」とはイベント御前試合の「平和な時代の倫理、道徳」なのである。「礼儀作法」は「生死をかけた戦場での倫理・道徳」ではない。戦場では「令疑作法」である・・・ましてや、ダレが「ジュネーブ協定」を守ったのか、守れるのか・・・
 で、「大和魂」などとは「外来者」の末裔である「暴力集団=武士=武装集団」と言われる連中のモノである。
 元々「原住民」であった「日本人」が「無垢で優しく、言葉どおりを理解する素直な人々」であったのは「アメリカ原住民」、「アフリカ原住民」、そして「ポリネシア諸島の原住民」、「東北、蝦夷地のアイヌ族」などと同じで、お互いに「ダマス」と言うコトバなんかは必要としなかった・・・騙したのは「外来武装集団」である。だが、相手の「だまし」の汚いやり方は自分たちも「学ぶ=真似る」のである。「生きていくコトが大切」だから。そして、相互に「騙しあい」をするのが常識となった。一方、「生きていく手段」として、相手を「まろうど=客人」としてモテナシタのだ。乱暴者にはご機嫌を取るのが上策である・・・そして、採るべき選択は「三サル」、「無視・無聞・無言」が上策である・・・だが、それにも、「我慢の限界」がある・・・「覚悟を決める」のさ・・・
 「武士道精神」は「明治以後に形成されたモノ」である。「日清戦争」、「日露戦争」の「武士道精神」が「大和魂」としての「日本人の源魂」とは思えない・・・「木口 小平(きぐち こへい・明治五年八月八日(1872年9月10日)〜明治二十七年(1894年)七月二十九日」君、ジャバならば写真をどのように写し、公開しただろうか・・・日清戦争日本陸軍兵士ラッパ手、死しても口からラッパを離さなかった・・・のは「大和魂」なんかじゃぁナイし、名誉の戦死でもない・・・ハナス前に撃たれて即死したのである。
 近代、現代戦で萬が一にも生き残れるのは「体罰」にも似た「軍事訓練」を経てでしかナイ、である・・・身体の痛みを知った者は「臆病=危険に慎重」になる。知らない者は「無謀=危険に鈍感」になる・・・失敗の購いに「罰」と言うコトバは不適当だろう。「教育者」にとって「怒った」ではなく「注意した」だろう・・・「身の危険」は「行為言動」の「禁止=やっちゃぁ駄目なこと」を身体で覚えさせる・・・だが、「矯角殺牛 (きょうかくさつぎゅう) 牛の角を安全のために斧で矯正しようとして、ついに牛を殺してしまうこと」になってしまっては「元も子もない」・・・「国家間戦争=市民間殺傷」と言う「現場」が無くなるコトを希(のぞむ)が・・・「視ただけ、訊いただけ、言っただけ」で、「喜怒哀楽」、「暴行、殺傷」が起こる「現実の人間諸関係」の根源理由とは・・・
 「現存、古事記日本書紀」の「神武天皇=伊波禮毘古=イワレビコ=磐余彦」が原住民を「酒宴の席」に招いて配下の「大久米(大来目)→区目→句目→くめ=組め・汲め・粂→久米黥利目(さけるとめ・入墨をした目)」人に殺させる残酷さ(来目歌=撃ちてしやまむ)が「大和魂」とはトテモとてもの「魂」である。「名誉の精神」は微塵もない。「漢人の戦国春秋時代か、呉人の孫子」の「魂」である。戦争勝利、侵略勝利には何でもアリである・・・その最古の記録は「旧約聖書」である。「割礼」を条件に仲良くしよう、と云って相手の男どもを皆殺しにした・・・だまし討ち・・・これは内助の妻の功で「名馬」を手に入れ、後に土佐藩に転封された「大内一豊」もやった。「邪魔者」の行き場はの世である・・・
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 以下ブログ記事からの参考、参照抜粋

 万葉集18/4094の大伴家持の歌
 「大伴の 遠つ神祖の 其名をば 大来目主と おひもちて」
 大伴氏と久米氏は同族
 久米御縣神社(奈良県橿原市久米町)
 祭神 高皇産霊命、大来目命
社殿の前に「来目邑伝承地」の碑が立ち、この周辺が、大和での久米氏居住地であったことが分かる。「延喜式祝詞」の祈年祭月次祭に「御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の御名をば白して、此の六つの御縣に生き出づる甘菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫(すめま)の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称え辞竟へ奉らくと宣ふ」
 久米は貞観式(871年完成)の頃に追加されたらしい
 膳夫(かしわで)に関係している
 久米寺
 空海が塔の中で大日経を感得
 真言宗を開いた真言発祥の地
 真言宗御室派の別格本山
 聖徳太子
 弟の
 来目皇子(撃新羅将軍・登美真人祖)によるという説と、「今昔物語」の久米の仙人によるものとする二説
 来目皇子が登美真人の祖という
 登美は
 鳥見、阿倍氏の本拠地
 倉梯の近く
 大伴氏も居住
 登美長髄彦の本拠地

 久米御園(くめのみその)
 七拳脛命の十三世孫
 壬申の乱(672年)の功臣
 天武朝で宿禰の姓を賜った
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 地名には
 九州の久留米、
 沖縄の久米島
 久米島(くめじま)
 沖縄諸島に属する島
 最も西に位置する島
 沖縄本島西表島石垣島宮古島
 次いで
 5番目に大きい
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 久留米絣(くるめがすり)
 福岡県久留米市および周辺の
 旧久留米藩地域で製造されている絣
 綿織物で、藍染めが主体
 あらかじめ
 藍と白に
 染め分けた糸(絣糸)を用いて製織
 文様を表す
 伊予絣、備後絣とともに
 日本三大絣の一つ
 南方から琉球を経由して伝わった絣と別に、
 江戸時代の後期に、
 井上伝という
 当時十二歳の少女が創始
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 「久米邦武」は「1839〜1931・歴史学者・佐賀の生まれ・岩倉具視に従って欧米を視察。古代史の科学的研究家・論文「神道は祭天の古俗」が神道家から攻撃されて東大教授を辞職・・・
ーーー
 アイヌの歴史では、
 1515年(または1519年)
 「ショヤ・コウジ」兄弟の戦い
 1529年
 「タナサカシ」の蜂起、
 蠣崎義広の騙し討ちによる鎮圧
 1536年
 「タナサカシ」の娘婿「タリコナ」の蜂起、
 蠣崎義広の騙し討ちによる鎮圧
 1550年
 安東舜季、
 蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る
 蠣崎氏とアイヌとの交易の協定が締結
 日の本蝦夷酋長の知内の
 チコモタインと
 唐子蝦夷酋長の
 セタナイのハシタインは
 それぞれ東夷尹、西夷尹
 (「尹」とは裁判権を持つ統率者の意)
 とされ、
 蝦夷から松前への渡航を統制すること、
 ハシタインは上ノ国に居住すること、
 松前大館の
 蠣崎季広は和人との交易税(原文・『自商賈役』)の
 一部を「夷役」として
 両尹に献上することが定められた
 1591年
 蠣崎慶広が豊臣秀吉に謁見、所領を安堵
 蠣崎氏は安東氏からの独立
 慶広、
 九戸政実の乱の討伐軍へ参加
 多数のアイヌを動員
 1593年(または1598年)
 慶広、秀吉から
 全蝦夷地(樺太、北海道)の支配権を与えられる。
 1599年
 慶広、
 名字を
 蠣崎から松前に改める
 1604年
 慶広、江戸幕府からアイヌとの交易独占を認められる。
 以後、アイヌ松前藩への従属が強まり、
 不平等な交易による
 アイヌの不満が、
 和人に対するアイヌ蜂起の一因ともなった。
 1669年
 シャクシャインの戦い
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 「蠣崎」の「蠣(かき・レイ)」は「牡蠣・牡蛎」である。 
 「揣摩の術」は戦争では「戦術作戦」で常識である。
 「賺(だます・タン・ダン)」は「見馴(見慣)」れない漢字だが「すかす・だます・あざむいて高く売りつける」とある。「貝+廉=貝廉」の同意異字とあるが「廉売=商品を安い値段価格で売ること・安売り」で、「廉価」とはそういう「商品価格」のコトらしい。だが「廉=广(まだれ・いえ・むなぎ・ゲン・崖の上に建造した建物)+兼(かねる・ケン)」である。「おまけ」は合わせ売りでもある。ここの農協、スーパーでは普段は「1パック、180円のタマゴ」が日曜日には「千円以上お買い上げの方には100円」である。最近は普段「1パック200円以上の値札」が表示されている。ボクにとっての物価上昇の目安は頻繁に買う「米」と「タマゴ」だが・・・「欺瞞・瞞着・詐欺・詐偽・欺瞞・傀儡・幻術」、「瞞着」は「チョコレート・キャラメル・ポテトチップス」の包装容器の大きさは同じだが中身の分量を減らす、という事である。
 「見慣(な)」れているモノを「見馴(な)」れないところで「だます」・・・「慣れ」と「馴れ」のチガイはなんだろう。「なれ・ナレ」の同音のコトバは多い・・・
 馴れ・慣れ・成れ・生れ・熟れ・為れ・鳴れ・・・
 で、ある。「馴(シュン・ジュン)=馬+川→バセン」は「馴染む」と言う「日本語のコトバ」があるが、「遊女屋(売春宿)の馴染みの客」である、と説明されている。「馬」の「川(かわ・セン)」とは飼葉桶の水か、馬が飲む引き水、泉(セン)の水飲み場であろう。引き水とは「用水路の水」で「灌漑水」、そして「灌頂」のふり掛けの聖水、「湯潅(灌)・ゆかん)」とは「故人の身体を風呂に入れて洗浄すること」、「灌(そそぐ・カン)・注(そそぐ・チュウ)」である。「川(セン)」の音を撰べば、「司馬遷」に「馴染む」であろう。だが、「馴」自体は「馬が人にナレる・鳥獣が人にナレ親しむ」で、主語が人では無く動物である。だが「馴致・馴養・馴伏」熟語になると主語が人になる。飼い馴らすである。「家畜」かペットである。そして「馴鹿(シュンカ)」とは「人に馴れた、馴らされたトナカイ」であった・・・そして「馬鹿」とは「屁理屈」である。
 すなわち、「司馬遷史記)」を「馴染みのモノ」にする、である。モチロン、「斑鳩」は「斑固(漢書)」である。
 「馬(バ)」は「うま・むま・め」と訓じられたらしく、馬に関連させれば「馬韓」、「蘇我馬子」、「左馬頭=左馬寮(さまりょう)の長官・従五位上相当」、そして「厩(うまや)の長官」は「厩戸皇子」であった。
ーー
 左馬頭
 朝廷保有の馬の飼育・調教
 馬は馬寮直轄の厩舎や牧(寮牧・近都牧)で飼養
 畿内及び周辺諸国に命じて飼養
 勅旨牧の経営も監督
 軍事や儀式において必要な馬を必要部署に配置
 馬寮官人は武官帯剣
 後に
 検非違使を補助して
 都の治安維持の業務

 伴部
 馬の飼育にあたる
 馬部(めぶ)
 飼育担当の
 飼戸(しこ)を
 傘下においてこれを統率

 大宝律令で左馬寮・右馬寮が設置
 当初は頭(左馬頭・右馬頭)を長
 711年
 馬の軍事的な重要性から
 従五位下ながら
 皇族である
 葛木王(後の橘諸兄)が
 令外官である
 馬寮監(めりょうげん)に任じられて
 左右馬寮を統括
 馬寮官は非常設で
 後に左右それぞれに設置
 765年
 近衛府設置と同時に宮中の厩を扱う
 内厩寮(ないきゅうりょう)が分離
 基本的に近衛府の官人がこれを兼ね、
 残った左右の馬寮も
 781年に
 主馬寮(しゅめりょう)に統合
 長である主馬頭(しゅめのかみ)に
 従四位下
 伊勢老人が任じられた
 808年
 主馬寮を左馬寮、
 内厩寮を右馬寮と改名
 律令制当初の呼称が復活し、
 兵部省に属していた兵馬司を吸収
 その後、
 馬寮監も
 馬寮御監(めりょうごげん/みかん)として復活
 職掌は左右馬頭からあげられた
 儀式の際の馬について報告を
 天皇に奏上する
 左右近衛大将との兼務が慣例
 官位相当は従三位に上昇
 馬寮では名目上の最高職
 平安時代後期以後
 実質上の最高職である左右馬頭に
 河内源氏の著名な武者が
 相次いで任じられた
 馬寮の職は武士の憧れの官職
 の一つとされた
 平安時代末期
 久安四年(1148年)
 大允・少允の定員は計20名に増員

 室町幕府江戸幕府
 征夷大将軍
 その上に立つ
 馬寮御監を兼務

 鎌倉時代
 鎌倉時代
 源実朝
 左馬寮御監に叙任

 室町時代
 足利義満は右馬御監に叙任
 室町時代において
 左馬頭は、足利直義が左馬頭になったのを嘉例とし、
 将軍の後見職(副将軍的な存在)
 次期将軍が就任する官職と見なされた
 左馬頭となりながら将軍になれなかった例
 足利義嗣足利義視足利義維
 足利義輝が殺害された
 永禄の変後
 足利義昭(十五代将軍)と
 従兄弟の
 足利義栄十四代将軍)をともに
 左馬頭に任じて事態の推移を見守った
ー 
 毛利元就
 毛利輝元
 右馬頭に叙任

 江戸時代
 徳川家康
 左馬寮御監に
 徳川家光
 右馬寮御監に叙任された。
 徳川綱重
 左馬頭に
 徳川綱吉
 右馬頭に叙任された
 足利氏の
 後裔
 喜連川氏の当主の数人が左馬頭を名として称した
ーー
 見えない「たましい」は「だましい=拿魔視為(思惟)」だったのだろう。
 だが、ナゼかボクの大修館漢和辞典には「騙」は「訓索引」としては「だます」が無い。「音索引」に「ヘン」とあり、982ページには「馬に飛び乗る・からる・たばかる・だましとる」、そして熟語が「騙取(ヘンシュ)」である。だいたいからしてこの漢字の「騙」は「馬+扁=馬扁=騙」であるが、まったく同じ意味で「扁+馬=扁馬」の合字が記されている。「現存古事記」の脳ミソは「だましい=拿馬(磨)思惟」だった・・・?
 「精神」と言う意味の「たましい」とは何か・・・
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 やまとは・・・・・山とは
 くにの・・・・・・句似之
 まほろば・・・・・馬補賂葉
 たた・・・・・・・多々
 なづく・・・・・・名付く
 青垣・・・・・・・阿保掛記
 たた・・・・・・・多々
 なづく ・・・・・名通句
 あおがき・・・・・蛙尾掛記
 山隠れる・・・・・纂隠例留→山陰例留
 倭し・・・・・・・和詞・和詩
 うるはし・・・・・有留葉詩
 やま・・・・・・・埜(記紀重位置)眞
 ごもれる・・・・・語模例留・語洩(漏・盛)れる
 やまとし・・・・・埜眞年
 うるはし・・・・・得留葉詞(史)

 倭建の命・・・・・日本の懸名
 古事記歌謡 31・・参拾壱・纂重位置
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