940日目・・・「アカシアの雨がやむとき」2007年6月1日・・・「291日目の記事」ですか・・・2012−2007=5・・・アレから5年、5年前の記事、語念、語撚でした・・・以下若干抜粋、改作・・・

 1960年の「安保闘争」で「戦争は嫌だ、モゥ、ゴメンだ」って、「危機感」をもって、街頭にデモり、国会周辺に押しかけた人々は、イマや七十歳以上のジジ、ババで「年金生活」がほとんどだろう。そして1970年の「安保闘争」では更に「戦争に巻き込まれるんじゃぁ」との「危機感」で街頭でデモった大勢の人々はイマや六十歳以上のジジ、ババで「不安な年金生活の入り口」に立っている・・・あの「危機感」ってナンだったのか?・・・「平和的、擬似的鎖国」状況の「ニッポンの大空を目指してハトが飛んでいた」のは「1945年の敗戦」から「2000年」までだろう・・・「敗戦日本国家」は「東西冷戦」を巧に利用した「一国内の平和な国家」であったのサッ・・・「一国平和主義(?対外的に兵力・戦力を使用せず、国内的な治安維持出動に使用?・・・60年安保の時、自衛庁長官は岸首相=アベの祖父の要請を拒否したのだが。当時の三池闘争分断での警察官導入も回避した)」・・・その「平和的、擬似的な鎖国国家」を「コイズミ」がアメリカ国家に抱きつきながら強引にぶっ壊し、そして「アベ」が構築しようとしているのは名目的にも実質的にも「軍事司令権」を有した「主権国家」としての「独立開国国家」である。「戦後日本国家」は「主権国家」でもなく、文字通りの「植民地国家」でもなく、アメリカに敗戦した「国家主権としての対外軍事権」を放棄した「属国」だから・・・「国家」ではない「擬似国家」・・・そして、「自衛隊」は「名目上=概念上=憲法」は「軍隊」でない、と言うコトは、それはソレで「よかった」のである・・・「プチブル国家」としてはネッ・・・
 だが「国家自衛」をしない「軍隊」は存在しない。国際関係で「軍隊」は「自国自衛」もするし、「対外国攻撃・占領」もする。「国際条約=帝国主義国際紛争に於けるルール」を「形式上」踏まえれば「奇襲攻撃・侵略・占領」も許されるのだ。「形式上」だが、この「形式」を守った「国家」はあった、とは思えない。しかも、この破ってもイイような「国際条約」はダレのタメにあるのか・・・ローマ帝国以前の古代史から「ソ連満州侵略」、「アメリカ・ベトナム」、「ソ連・アフガン」、「中国とロシア、ベトナム」、そして「北朝鮮・韓国」、現代の「ユーゴスラヴィア」、「アメリカ・イラク」、「イスラエル」とその「周辺諸国家」は戦争に於ける「国際条約」をまもったコトなどはなかった。もちろん、かっての「帝国ニッポン」はその見本市であった。アメリカは「人道に於ける国際法」を「放棄」しているし、「他国の主権」などナンノソノ・・・そもそも「国家間利害」追行の「戦争」に「国際法的な人道主義」などは存在しない。まさに「ゴジラ」をヤッツける「自衛隊」は「正義の自衛隊」だった。そして「日本人」にはピッタンコの「解釈国家」であった。当然にも「自衛隊」は「解釈国家」としては「対外的な軍隊」ではないし、事実「日本敗戦後」は「軍隊としての機能」を「対外国」に発揮したコトは一度もなかったのである。だが、「戦力」を「実力」と言おうが、言うまいがイマや世界有数の「最高兵器」を保持しているのが「自衛隊」である。「国際連盟の一員」であるコトを「楯」に、「国家主権(?)」の「戦争、戦力放棄の法的根幹」である「日本国憲法」を無視し、「国連決議」である、として「自衛隊」を「派遣」した。「解釈」は都合のイイように、いかようにでもスルのが「実質支配階級・階層」と言うモノだ。既にテロ攻撃に晒されたアメリカのドサクサを契機に「コイズミ」も「自衛隊は軍隊である」、「自衛隊は軍隊と言ってイイ」と首相の地位にあった時に言っている。日本を支配する階級、階層はイマや「自衛隊」を「軍隊=国防軍=対外軍事集団」であるとイイたくなったのだ。「自衛隊」と、「軍隊」は「コトバの意味」が違うのである。「軍隊」は「自衛隊」ではないし、「自衛隊」は「軍隊」ではないのだ。だが、「国家機構の防衛機能」を担う「軍事組織」は名称が「自衛隊」であろうが「軍隊」であろうが、状況次第では「憲法を無視」して「対外戦争」を「スル」のである。「日本国憲法」を有する「日本国家(?)」だけが「国家」ではない。「主権国家」の「条件」とは「軍隊」を常備、常設するのである。だが、「敗戦帝国日本」後の「日本国」は「軍隊・兵器・戦力常備、常設」放棄、「戦争」を「放棄」した「擬似国家」なのである。そして、「国家」とは「コレ」である、と内外に「宣言」したのだ。「暴力的」に侵略されようが、虐殺されようが、拉致されようが、「日本」が考えている「国家」とは「暴力装置」を持たない「共同体」でアリマス、ョ、と。
 「三権分立」で行政府から独立しているハズの「最高裁判所」は「自衛隊の軍事兵力・軍事能力」を「憲法違反」であると「判断」したコトがなかった・・・まるで、神聖不可侵な「統帥権」は「立法・裁判」の埒外でありマス、と、同じような立場。「自衛隊の存在」を「違憲」か、「合憲」の判断を下さず、「法律外」であるとした「最高裁裁判官」の「存在者」そのものが「憲法違反者」である。
 そもそも「憲法第九条」は「裁判官」に「判断」してもらう「解釈根拠」の必要性すらもない、文字通りの「憲法条文」の「常識問題」である。そして、その「判断」を、最高学府で日本語を厳密に蓄積して来た「教養」のある「裁判官」に「お願いした」のである。「赤信号無視」が「違反」かどうか、ワッカリマセン・・・これらの「裁判官の存在」を許してきた「日本国民の存在」そのモノが「日本国憲法違反」である。
 実質「対外戦力としての軍隊」が、「自衛隊」と「解釈」されてから、現実的には「日本国憲法」としての「日本国家」は存在せず、「日本国憲法」としての「日本国国民」は存在しなかった。日本地域在住の人々は「日本国憲法国家としての国民」ではなかったのである。敢えて言えば「日本国憲法解釈(曲解・歪曲・虚偽)国家」の「擬似国民」として存在してきたし、存在しているのだ。事実、実在しないモノが「アル」と言うのはウソつきである。事実、実在するモノが「ナイ」と言うのはウソつきである。「馬でアルもの」を「鹿でアル」と言うのは「曲解もハナハダシイ馬鹿」であるが、同音異字で、同義の「バカ」は「莫迦」と言う・・・「莫」は「ボ・モ・バク・マク・日暮れ・無い・なかれ・虚しい=むなしい・大きい・削る・悪い・病む・謀る」であり、「迦」は「カ・ケ・出あう」で、人名では「釈迦」や「摩訶迦葉波(マカカショウハ)=釈迦死亡後、後の仏教団の長老」の「迦」である。
 「仏に出会う=釈迦」だが、「釈迦」の「釈=釋」は「シャク・セキ・エキ・ヤク・解きほぐす・散らす・消す・除去・脱ぐ・解釈・注釈・言い訳・釈明・許す・釈放・捨てる・述べる」コト等に「出会う(迦)」で、「莫迦」とは「釈迦に出会うことの無(莫)い」であり、「摩訶迦葉波(マカカショウハ)」の「摩訶」とは、「波に浮いているような葉に出会う(迦)コトを訶(カ・叱る・怒鳴りつける・怒る・責める・咎める)する(摩=マ・摩る=こする・みがく・削る・減る・消す・滅びる・隠す・あらためる・ただれる)」・・・ナルホド、「摩訶不思議」である。「葉化=コトバの変化アソビ」が日本人は歴史的に「好き」でアリ、「葉掛(ハカ)」は「言語的常識」なのである。「ハカ」・・・「破瓜」や「墓」カモ・・・頗過(ヨコシマが過ぎる)だョ、ナッ・・・
 「死ぬまで一緒に」とは、アンタとワタシは死ぬも生きるも「相互に一緒」と言う願望だが、「相互に公平な立場」で、実質的にも「運命共同体」でありたい、と言うことだ。過去に於いて「日本国家」は「一億総玉砕=国家心中」の「運命共同体」ではなく、「帝国」の「国家の道連れ共同体」であったコトを「日本居住地区」の住民は自覚すべきである。その実体がダレの「道連れ」なのかはヨクヨク考えて見るべきである。
 市民社会では「自暴自棄」になったヤツが、関係の無い「他人」を「道連れ」で「殺人」、「無理心中」、「強制心中」をし、時たま「納得心中」で「天国・地獄」に連れて行く。
 とにかく、「道連れ殺人」は自分自身の「命を捨てるコト」も前提だが、「帝国日本国家」は「国家心中=一億総玉砕」などと「殺傷殺人」を「合法的」に煽動し、組織化したが、「国家支配層」はその「利害体制維持」をし、「支配層」は支配権を失って「属国」になっても「生き残れる」と言う「立場」をとったのである・・・戦争を煽って生き残ったヤツは「国家心中」などはしなかったし、するつもりもなかった。そして「国破れて惨禍アリ」にあったのは、「国家心中」を出来なかったアンタやオレの祖父母であり、両親であり、親戚、親類、彼等の友人、知り合いであった。そして、「国家のタメに死ね、死ね」と煽りながらも「一緒に死ぬ気も無かった国家」に見切りをつけたのサッ。「国家」に見切りをつけた、「国家」を嫌ったと言うコトが、「国家」としての、現今「国家的存立条件」である「対外軍隊、軍事力を否定」した、まさに「日本人居住地区の憲法」だった、のサッ。
 「日本国憲法自衛隊」は「日本国憲法下の居住民」を断固「実力で護る」のさ、ッ・・・「日本国憲法」を侵犯する如何なる「外国家」に対しても・・・

 「エリカの花散るとき」・・・「風に煽られて桜が散るさま」は感性的に「美しい」とも思うけれど、他の花のホトンドがが「朽ちて枯れ果てるさま」はどうか?・・・「娑羅双樹の花の色」・・・「日本人支配層」は歴史的に「醜い事実」をも観念的な「美」に「すり替える」と言う「文芸」を形成して来た・・・
 「侘び」も「寂び」も共に 「古びて趣のあること」、「閑寂な風趣」であるらしい・・・「日本人」は屁理屈を考えるのが上手で巧みである。結果、この「趣き(おもむき)」は、現今ではカネ持ちにとって、「侘び、寂びのある古びた骨董品・絵画」は一般的な使用価値を無視して「自由商品市場」で目が飛び出るような「評価金額」で売買している・・・「侘び」も「寂び」も階級社会の枠内で階級、階層分化し、その競争序列からはみ出した人間の「諦め」の階層意識を「慰め」でフォローしたモノだろう・・・客観的な「モノのあわれ」を別な意識でフォローしたモノが「侘び(わぶ→わび=詫び・我備・貧しい・簡素・貧困)」、「さぶ→さび=寂び(錆び・老化・朽ちる)」だろう・・・貧困にも、老化にも、役に立たずにも「美=備=微」がある、と・・・ようは「ガラクタ」にもまだ「使用価値」がある、と・・・「渋い=しぶい」とはね・・・
「侘び(わぶ→わび=詫び・我備・貧しい・簡素・貧困)」が「詫びる」ならば、相手に対してのコトである。「さぶ→さび=寂び(錆び・老化・朽ちる)」が「さぶい(寒い)」ならば「さぶらう(侍・ さぶらい・さぶらう」で、主従、君臣の関係での「従者、侍の立場」である。「階級秩序」からはみ出た「失業者(浪人)の気持ち」だろう・・・懐が寒くても、ネッ。
 「モノのあわれ」とは
 「諸行無常(しょぎょうむじょう・仏教用語・この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない」である。コレは、すこぶる対象認識としての「唯物論の原点」である。

 すごいね、『平家物語』・・・唯物史観=唯物弁証法・・・ココには「ホトケ」も「カミ」も存在しない・・・
 祗園精舎の鐘の声、
 諸行無常の響きあり。
 娑羅双樹の花の色、
 盛者必衰の理をあらは(わ)す。
 おごれる人も久しからず、
 唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、
 偏に風の前の塵に同じ。
 ・・・客観的ではアル・・・だから、どうしょうって、云うんだ・・・「人間社会」をサ、ッ・・・「おごれる人も久しからず」だが、また「新たな奢れる人の出番」が用意されている・・・経済システム・・・