939日目・・・国連で「幸せの国(?)」であるらしい「ブータン国王」に何か言ってもらいたいネ、ッ・・・だが、「国家の履歴」を調べると、過去にはチベットの「ダライラマ」や、「中国共産党=毛沢東主義者」などにイジメラレテ、「ブータンの歴史」も大変だったんだ・・・万里の長城建設以来、中国の領土国境線引き問題のイチャモンは今に始まったコトじゃぁない。それにしても近世、近代、現代まで国境、領土、国家独立問題の発端には歴史的に北米、アフリカ、中東、中南米、中国、東南アジア、何時も「大英帝国=エゲレス」の植民地主義者

 「美しい日本国家」にはモチロン、美しい王妃、イケメン国王のブータンに幻想を抱くなョなッ・・・
 以下は「ウイッキペデア」から、参考抜粋、若干改作・・・

 ブータン王国ブータンおうこく)
 通称ブータン
 南アジアにある国家。
 インドと中国にはさまれて、
 世界で
 唯一チベット仏教ドゥク・カギュ派)の
 国教国家。
 民族は
 チベット系8割、
 ネパール系2割。
 公用語はゾンカ語。
 首都はティンプー
 国旗は竜のうろこが細かく書かれている。
 国花はメコノプシス=ホリドゥラ、
 国樹はイトスギ、
 国獣はターキン、
 国鳥はワタリガラス

 「ドゥク・ユル=竜の国」
 公式の英語表記は
 Kingdom of Bhutan。
 通称、Bhutan。
 中国語では
 不丹と表記し、不と略す。
   ↑
 ・・・なるほど、丹(あか・タン)ではない、か・・・「小日本」と同じだな・・・帝国日本も「鬼畜米英」と書きたて叫び呼んだのは当時の「日本ジャーナリズム」だった。アメリカは「ジャップ」か・・・本当は日本を「ジャンク(junk=がらくた・くず物・古鉄・くだらないもの・ 麻薬・ヘロイン・くず・安っぽい」にしたかった・・・だが「ガラクタ=我楽多・瓦落多・瓦落苦多」を再生利用し、それ以上の「使用価値」を創り出すのが「我、楽しみ多し・地震で瓦が落るコト多し・瓦が落るコトで苦しみも多し」で、文字道理の「象徴的な日本人の生き方」である・・・しかし、これは、「日本人」だけのモノじゃないョ・・・厳しい生活環境に於ける「人間」の「道具」に対する生き方である。

 13世紀以降ドゥック派を国教
 ドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派
 「ドゥクパの国=雷龍の国」

 ドゥク派
 開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)
ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムギャルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。
   ↑
 ・・・輪廻転生・・・ワルクはないけれど・・・世襲になっちまった・・・双子で生まれても喧嘩をしただろう・・・・

 ガワン・ナムギャルは、
 1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。
 ドゥクパ政権は、
 1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、
 1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、
 チベット本土から自立した国家となった。
   ↑
 ・・・仏教を信じていてもこのザマである・・・どこまで「信じていた」のかは別問題か・・・王様自体が「輪廻転生」だから「成仏」は無理だ・・・

 現在の国土は
 東部がシャーチョップ族、
 西部がガロップ族、
 南部がネパール族の土地となっている。
 ネパール族の多くは20世紀の初めに移住した。

 19世紀末、
 内戦状態にあったブータンの中で、
 東部トンサ郡の
 豪族ウゲン・ワンチュク
 支配的郡長として抬頭し、
 1907年、
 初代の国王となった。
 1972年に
 第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクの急死後、
 第4代国王として
 16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく国王の座にあり、
 2005年には総選挙が実施される。
 2008年に退位することを発表していたが、予定を繰り上げ
 2006年12月に譲位し、
 ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク
 第5代国王に即位した。
 2008年7月18日に
 初の成文憲法典が公布
 立憲君主国となる。

 1648年
 チベットダライラマ政権がブータンを攻撃。
 1649年
 チベットダライラマ政権がブータンを攻撃。
 1651年
 シャプドゥン権力の座から退く
 ドゥック派は東部地方を除く
 ブータン全土に浸透
 1692年
 タクツァン寺院建立。
 1998年に寺院の大半焼失。その後再建。
 1714年
 チベットダライラマ政権がブータンを攻撃
 1825年〜1880年
 ジグミ・ナムゲル、
 クルテに誕生。
 1864年
 イギリス=ブータン戦争
 (ドゥアール戦争(英語版))勃発。
 1865年
 ドゥアール戦争に敗北し、
 イギリスとの間にシンチュラ条約(英語版)締結。
 イギリスは
 領土占領と引き換えに
 ブータン
 年5万ルピーを補償金として支払うことになった。
 ブータン
 アッサム、
 ベンガル
 ドゥアールの
 7.122平方キロメートルにおよぶ全領土を喪失。
 1870年
 ジグミ・ナムゲルは
 デシに任命される。
 1882年
 ウゲン・ワンチュク
 トンサ・ペンロップとなった。
 1907年
 ワンチュク家(現王朝)が支配権を確立
 12月17日
 ウゲン・ワンチュク
 初代世襲制国王に選出され
 ブータン王国となる。
 1910年
 プナカ条約(英語版)締結。
 1949年までイギリスの保護下に入る。
 1926年
 ジグミ・ワンチュクが第2代国王になる。
 1947年
 インド・ニューデリーで行われた
 アジア関係諸国会議(Asian Relations Coference)に参加。
 1949年
 インド・ブータン条約(英語版)調印。
 1952年
 ジグミ・ドルジ・ワンチュクが第3代国王になる。
 1964年
 ジグミ・パルデン・ドルジ首相(英語版)が暗殺される。
 1971年
 国際連合に加盟する。128番目の加盟国とし参加
 1972年
 ジグミ・シンゲ・ワンチュクが第4代国王になる。
 1973年
 非同盟諸国会議(NAM)に出席。
 1974年
 第4代国王戴冠式
 1985年
 南アジア地域協力連合(SAARC)に参加。
 1990年
 反政府運動激化。
 南部居住のネパール系住民が国外に脱出し難民化する(ブータン難民(英語版))。
 1999年
 国内テレビ放送開始。
 インターネットの利用を許可。
 2005年
 ワンチュク国王、
 2008年の譲位と総選挙後の立憲君主制移行を表明。
 2006年
 当初の予定を繰り上げて、
 ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク
 第5代国王に即位。
 2007年12月
 初の普通国政選挙、国家評議会(上院)選挙を実施。
 2008年3月
 普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施。
 4月
 初の民選首相として
 ジグメ・ティンレーが選任
 7月18日、新憲法が公布される。

 政治
 ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に世襲王政が成立するまで約300年間維持された
 1907年のワンチュク朝成立以降、国王を中心とする絶対君主制だったが、近年の政治改革により2008年に憲法が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制に移行した。
 国会は国王不信任決議の権限を持ち、
 国王65歳定年制が採用されている。

 立法
 1953年に
 第3代国王により設置された
 国民議会(下院に相当。英語: National Assembly、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、
 2008年
 新憲法により新設された
 国家評議会(上院に相当。英語National Council、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による両院制
 両院とも議員の任期は5年
 国民議会は解散権を有する。
 2007年12月31日と
 2008年1月29日に
 初の国家評議会選挙が実施され、
 20人の選挙議員が確定した。
 2008年3月24日
 初の国民議会選挙が実施

 行政
 軍事 志願制の陸軍
 総兵力は約1万人
 ブータン王国軍約7,000人、
 うちブータン国王親衛隊約2,000人。
 ほかに警察部隊約1,000人。
 軍事費がGDPに占める割合は約2パーセント程度で、約1700万ドル(2006年推計)。
 陸軍の装備品は迫撃砲分隊支援火器等の小火器が主体である。
 砲兵戦力および機甲戦力は、これを有さず、装甲兵員輸送車は、一部の部隊に若干数が配備。
 海軍も空軍も存在しない。
 ブータン軍が保有している
 航空機はMi-8(7機)と
 ドルニエ 228(1機)
 防空に関する問題は
 インド軍に一任している。
 国内にインドの軍事顧問団数百人の陸軍部隊が駐留
 インド政府はブータン軍幹部のインド留学を随時受け入れている。

 外交関係
 中華人民共和国との関係
 北部国境で中華人民共和国と接している。
 2011年時点において国交は樹立していない
 事実上の領事館が香港と澳門にある。

 1998年に、将来の国境画定まで、
 1959年以前の境界を尊重することに合意している。

 しかし、2000年代に入り、
 ブータン領域内において中国が道路建設を行い、
 軍及び民間人の越境行為が行われたことから、
 ブータン政府が抗議を行っている。

 中国の越境行為は
 冬虫夏草
 採集がその一因と見られている。
 ブータン政府は協定の順守を求め、
 折衝を行っている。

 インドとの関係
 英領インドとの条約に、
 「内政は不干渉、外交には助言を与える」
 という文言が存在し、
 1949年のインド=ブータン条約にその文言が継承され、多額の補助金ブータンに付与されていたため、インドの保護国的な印象を受ける。
 しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。
 また、
 2007年3月の条約改定で、
 「外交への助言」についての文言が
 「相互協力関係の維持及び拡大」をうたうものに差し替えられるなど、現状に合わせた新たな規定が定められた。

 日本との関係
 農業技術者として西岡京治を派遣
 ブータン農業の改善に尽くした西岡は、1980年に、国王から「ダショー(最高の人)」の称号を授与され、1992年に没するまでブータンで仕事を続けた。
 外国人としては初の国葬で葬られ、現在も「ブータン農業の父」として敬われている。
 1986年の外交関係樹立以来、日本とブータンの関係は、皇室・王室間の交流、経済協力等を通じて友好関係にある。
 また、日本人とブータン人は、外見が非常に良く似ているとされる。ブータンは大の親日国として知られ、その為、国際機関での選挙・決議等において常に日本を支持する重要な支援国でもある(安保理改革に関するG4枠組み決議案の共同提案国、国連人権委員会等)

 1988年以降、青年海外協力隊が派遣されている。
 1989年2月24日、34歳のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が、昭和天皇大喪の礼参列のため、民族衣装「ゴ」の礼服姿で数人の供を連れて来日、自国も1ヶ月間喪に服す。
 2010年9月から1年間、ブータン政府GNHコミッションに首相フェロー第1号として御手洗瑞子が勤める。
 2011年3月12日
 東日本大震災の翌日に国王主催の「供養祭」が挙行され、18日には義援金100万ドルが、日本に贈られた。
 2011年11月15日
 ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が結婚したばかりのペマ王妃とともに震災後初の国賓として来日、被災地のほか、東京・京都などを訪れた。

 インドとは東をアルナーチャル・プラデーシュ州と、西をシッキム州と、南を西ベンガル州とアッサム州で接しており、その国境線は605kmに達する。また北の国境線470kmは中華人民共和国チベット自治区と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。

 ブータンの面積は、従来は約46500km²だったが、2006年に発表した新国境線で北部の多くが中国領とされたため、約38400km²にまで大きく減少し、国土の形も大きく変わってしまった。

 チベット仏教ドゥク派)を信仰しゾンカ語を主要言語とし、西部に居住するチベット系のガロップ族と呼ばれる人々。
 チベット仏教(主にニンマ派)を信仰しツァンラ語(シャチョップカ語)を母語とし、東部に居住するアッサム地方を出自とするツァンラ(自称。以前はシャーチョップ族と呼ばれた)と呼ばれる人々。
 ヒンドゥー教徒ネパール語を話し、南部に居住するローツァンパと呼ばれるネパール系住民(少数だがムスリムも含む)。
 1990年代には、10万人以上のローツァンパが不法移民、反国民として国外追放された。
 北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。

 ブータンでは、24の言語が話されており、ネパール語を除いたすべての言語はチベットビルマ語系の言語である。地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのはヒンディー語やそれに類するネパール語である。これは近代教育初期の教授言語がヒンディー語で、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。統計上は、ゾンカ語は全人口の25パーセント、ネパール語は40パーセント(2006年統計)に話されている。
 80年代まで政府は、南ブータンの学校でのネパール語教育に助成金を供出していたが、ゲリラ勢力の台頭以降、教授科目から外れる事となった。

 国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語ブータンではローツァムカ語と呼ばれることもある)が主要言語となっている。

 南部問題
 1958年の国籍法を下敷きにして、1985年に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が、特に、南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキムのような事態を避けたいと考えていたための措置だったといわれる。
 その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。
 1988年以降、ネパール系住民の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は反政府活動に関与していると看做され追放される。
 この際に、デモを弾圧するためネパール系住民への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、過激化したネパール系住民によるチベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系住民の国外脱出(難民の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は、国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府などの要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連(UNHCR)により話し合いが続けられていたが、2008年3月、難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し、逐次移住が始まる予定である。

 習俗
 ブータン東部では最近まで残っていた「夜這い・妻問婚」や「歌垣」などが比較的注目される。
 ブータンの男性の民族衣装「ゴ」は日本の丹前やどてらに形状が類似。

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 ・・・「夜這い・妻問婚」や「歌垣」って、「婚活」・・・