914日目・・・「唯物弁証法(論)」が「存在」する「物質をワキマエ(弁)て、アカ(証)す、キマリ(法)のコトバ(論)」ではあるが、別に「自然弁証法」とか「社会弁証法・史的唯物論(唯物史観)」と云われる。

 ブログの百科事典には
 「唯物弁証法(Materialistische Dialektik)、
 または、
 弁証法唯物論(Dialektischer Materialismus)は、
 弁証法的に運動する物質が
 精神の根源であるという考え方」

 と説明されている・・・「物質」が「弁証法的に運動」する「運動」が「どのように」なっているかの説明が無い・・・次に、
 「弁証法的な運動と発展性」と言う「概念」を付け加えた、との説明だが、その「物質の運動と発展」である「弁証法的」の説明は無い。
 おほたたねこ=「根+茎+枝+葉+花弁→果物→種」
   ↓
 「意富多種子」→大田種子・多田多禰古・・・ダレ?
 ・・・次に、
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 ヘーゲルの「絶対者」を「人間」、「物質」に置き換えて解釈したフォイエルバッハ唯物論マルクスはこの唯物論の上に革命の弁証法を置くことを考えた。
 しかしフォイエルバッハ唯物論
 「物質」を単に外界の模写(感覚)と考え、
 それは
 思惟されたもの(精神)と
 区別がつかない
 「物質」を静態的なものとして扱う
という
 フォイエルバッハ唯物論
 「意識が人間の存在を決定するのではなく、
  人間の社会的存在が意識を決定する」という
 定式に変えた。
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 ・・・どうやらここでは、「弁証法」とは「ヘーゲルのモノ」だったコトが説明され、フォイエルバッハマルクスの「唯物論」の相違が説明がなされ、「唯物弁証法」が「唯物論」と「弁証法」の融合であったコトが説明されているが、だが、やはり「弁証法」の「そのモノの説明」はない・・・
 で、「弁証法」のブログ百科事典を開けると・・・
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 弁証法(べんしょうほう、ギリシア語διαλεκτική、英語 dialectic)とは、
 哲学の用語で、現代において普通にいわれるときには、ほとんどが
 ヘーゲルマルクス弁証法を意味し、
 世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。
 しかし、この言葉を使う哲学者によって、その内容は多岐にわたっており、弁証法ヘーゲルマルクスとして全てを理解しようとするのは誤りである。
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 とある。だが、まだ、その説明は「世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則」としか言っていない・・・で・・・次に、
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 弁証法(的)論理学
 ヘーゲル弁証法を構成するものは、
 ある
 命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する
 反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した
 命題(ジンテーゼ=合)の3つである。
 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。
 生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、
 同時にまさに
 その対立によって互いに結びついている(相互媒介)。 最後には二つが
 アウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。
 このアウフヘーベン
 「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。
 ドイツ語のアウフヘーベン
 「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。
 なおカトリックでは
 aufhebenは上へあげること
 (例:聖体の奉挙levation)の意。

 ソクラテスの対話と同じように、
 ヘーゲル弁証法は、
 暗黙的な矛盾を明確にすることで発展させていく。
 その過程のそれぞれの
 段階は、その前の段階に
 暗黙的に内在する矛盾の産物とされる。
 またヘーゲルは、
 歴史とは一つの大きな弁証法
 すなわち
 奴隷制という自己疎外から、
 自由と平等な市民によって構成される
 合理的な法治国家という
 自己統一へと発展する
 「精神」が実現していく大きな運動だと認識した。

マルクス主義における弁証法
 カール・マルクス
 フリードリヒ・エンゲルスは、
 ヘーゲル弁証法は、
 世界は諸事象の複合体ではなく、
 諸過程の複合体であること
 を指摘した点を高く評価しているが、
 ヘーゲルは「頭でっかち」で「逆立ち」しており、彼の考えを「地に足をつけた」ものにしなければならないと主張した。
 すなわち、
 ヘーゲルの観念論による
 弁証法における観念の優位性を
 唯物論による物質の優位性に反転させることで、
 唯物弁証法(唯物論弁証法)
 または
 マルクス主義弁証法が考え出された。
 世界は
 観念的な
 神や
 絶対知に向かって発展していくのではなく、
 物質に、
 自然科学に向かって発展していっているのである。

 この弁証法を歴史の理解に応用したものが、
 史的唯物論唯物史観)であり、
 この見方は、
 マルクスエンゲルスレーニントロツキーの著作に見て取ることができる。
 この弁証法は、マルクス主義者の思想の核心的な出発点となるものである。
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 エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。

 「量から質への転化、ないしその逆の転化」
 「対立物の相互浸透(統一)」
 「否定の否定

 これらが
 ヘーゲルにおいても見られることを
 エンゲルスも認めている。
 1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらす
 ということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。
 2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、
 2.はマルクス主義における
 実体論でなく
 関係論と結びつく内容であるといわれる。
 つまり、
 対立物は相互に規定しあうことで
 初めて互いに成り立つという、
 相互依存的で相関的な関係にあるのであって、
 決して
 独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。
 3.はヘーゲルアウフヘーベンと同じである。
 エンゲルスによれば、
 唯物論弁証法
 自然から弁証法を見出すが、
 ヘーゲルのそれはちょうど逆で、
 思考から自然への適用を行おうとする。
 また、
 エンゲルスは、
 ヘーゲル弁証法の正当性は、
 「細胞」、
 「エネルギー転化」、
 「ダーウィンの進化論」の
 3つの自然科学的発見によって裏付けられたと考えた。

 スターリン主義における弁証法唯物論は、
 政治的イデオロギーの側面が非常に強かったため、だんだんと教条主義的、また理論的に破綻したものへと変わって行った。
 ソビエト連邦の哲学者の中で最も有名な人物は、
 イバルド・イリエンコフである。彼は、観念論的偏向から解放されたマルクス主義的な弁証法の研究を続けた。

 キルケゴールにおける弁証法
 キルケゴールはみずからの弁証法
 質的弁証法と呼び、
 ヘーゲルのそれを
 量的弁証法と呼び区別した。
 たとえば
 美的・倫理的・宗教的実存の領域は、
 質的に本質を異にし、そこには
 あれもこれもでなく、
 あれかこれかの
 決断による
 選択、
 あるいは
 止揚による
 総合でなく、
 挫折による
 飛躍だけがある。

 実存は、成りつつあるものとして
 無限への無限な運動、
 また
 単なる可能でない現実として
 つねに
 時間的であり、その時間における運動は、
 決断と
 その
 反復において、
 時間における永遠を満たす。
 矛盾によって各々の実存に対して
 迫られた
 決断における真理の生成が、
 主体性の真理であり、
 主体的かつ実存的な思惟者は、
 いわば
 実存しつつ問題を解く。

 解釈と分類
 上述してきたように、
 「弁証」(dialectic)は、
 「中途半端な言論」に対しては、
 その思い込みを打破し、
 妥当性を探求していく
 「対話・推論の技術」として対置される一方、
 「論証」(demonstration)のような
 形式的(formal)で
 閉鎖的(closed)なシステムに対しては、
 実質的(practical)で
 開放的(open)なシステムとして対置される、
 ちょうど
 中間的な位置付けができるものだと言える。
 また、
 「弁証」(dialectic)自体の捉え方も、
 それがいずれは
 「究極的な均衡点に到達するもの」なのか、
 それとも
 「限界を暴き出し、
  絶えざる流動性
  活性化の中に対象を投げ込むもの」なのか、
 その末路を巡って、
 二つの捉え方がある。
 前者はヘーゲルマルクスに典型的に見られ、
 後者はマルクス主義に対置される
 ポストモダニズム(例えば、デリダの「脱構築」)などにその継承が見られる。
 後者から見れば、
 前者はアリストテレスの「論証」(demonstration)のように、
 (恣意的に)「閉じられた」ものに見えることになる。

 この二つの捉え方は、ソクラテスの人物像の捉え方とも密接に関わっている。
 ソクラテスは(プラトンと同類の)
 絶対的真実を想定した
 探求者と捉えることもできるが、そういった
 姿勢に
 「無知の知
 「イロニー(空とぼけ)」で以ってつっかかり、混ぜっ返し、
 背理(帰謬)に追い込もうとする
 愉快犯・放浪者のようにも見える。このどちらに着想を得るかで、上記の二つの捉え方が分岐することになる。

 いずれにしても、
 「弁証」(dialectic)的な発想を称揚する立場は、
 「中途半端な言論」や
 「論証」(demonstration)に見られる、
 ある種の
 「引きこもり」
 「思考停止」
 「硬直化」
 「形骸化」を
 牽制する役割を、
 それに期待しているという点では共通している。
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 ・・・で、あるらしい・・・「弁証法」、これでは、「存在」する「自然・人間社会」も、その「存在」を「認識する人間の脳みその構造・形態、機能」もワカラン、理解困難、蛇弁、である、ナッ・・・多分、「脳ミソの妄想の領域」での「説明」だろう・・・
 先ずは個々の「文字」の説明が、ボクの言辞、文章、作文と同様、「共通な概念(コトバ)」として「読み書きソロバン、加減乗除」の「読者レベルの脳ミソ」を前提になされていない・・・ん、だろう・・・「専門レベル」ってのは「一般常識レベル」じゃぁ、ないんだから大変だ、ッ・・・勉強=「免+力+弓+虫(中+ム)」しなくちゃぁ・・・
 「存在論」に於いても「認識論」に於いても「論法」は「5W1H」が「弁証法」と云うもんだ・・・ヒマなら以下へ

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/hancyuron/hancyuron.htm