899日目・・・ネコ・・・「根子」・「音呼」・・・「ギザギザ頭の根子岳」とは阿蘇五山の一つの山であった。エジプト(埃及)の金字塔はギザ・・・「猫(ねこ)」の類似で類字は「描(えがく)」で、「描写(ビョウシャ)」である。「ビョウシャ」の同音異字熟語は「病者」か「病舎」である。枕詞の「あしびき」は「山・病」に「懸(かかる=係る・掛る・架かる・斯かる・罹る)」コトバであった。「描(えがく)」とは「画く・絵岳・絵嶽・依学)」である・・若倭「根子」日子大毘毘命は「第九代・開化天皇」の和名、諡号である。一般的に「開

 初 代 神武天皇 神倭「伊波禮」毘古命
            「磐余」→イワのアマリ
 第二代 綏靖天皇 「神沼河」耳命
          「神奈川」の「字・地・事」
          カムヌナカワミミのミコト
 第三代 安寧天皇 「師木津」-日子-玉手見命
          「史記」の「審・晋・申」
          シキツ-ヒコ-タマテミのミコト
 第四代 懿徳天皇 大倭-日子-「鋤(金且)友」命
          「数寄」の「有・結・邑」
               「又・熊・酉」
          オオヤマト
            -ヒコ-スキトモのミコト
 第五代 考昭天皇 「御真津」-日子-「訶恵志」泥命
          「音信の審」  「加絵史」
          ミマツ-ヒコ-カエシネのミコト
 第六代 考安天皇 大倭「帯」-日子-「国押人」命
          「他意・対・替」「語句欧人」
          オオヤマトタラシ
             -ヒコ-
               クニオシヒトのミコト
 第七代 考霊天皇 大倭-根子-日子-「賦斗邇」命
          「太字」
          オオヤマト
            -ネコ-ヒコ-
                 フトニのミコト
 第八代 考元天皇 大倭-根子-日子-「国玖琉」命
          「語句求留」
          オオヤマト
            -ネコ-ヒコ-
                クニクルのミコト
 第九代 開化天皇 「若倭」-根子-日子-大毘々命
          「尺和(輪・環・話)意」
          ワカヤマト
            -ネコ-ヒコ-
                オオビビのミコト
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 エジプト→埃及→ちりおよぶ→地理(塵)及
     →ゴミおよぶ→語見御(音)呼ぶ
 エジプト(埃及)の金字塔はギザ

 「ネコ2世」とは、又、例の如く、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から抜粋参考すれば、
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 ネコ2世
 古代エジプト
 ファラオ→不荒尾・附荒生・符阿等汚・父蛙等緒
 統治期間
 紀元前610年〜595年→陸壱拾〜伍珀玖拾伍
 第26王朝→弐拾陸
 前王 プサ-ム-テ-ク1世→総(布佐)-武-出-句
   tech・technic・technique・technology
 次王 プサ-ム-テク2世

 即位名 ウアフエムイプラー
 誕生名 ネ-カ-ウ→音化得→ネコウ→根子得→値高
          ネコウ=音考・音国府・値府中
 ホルス名 Maaib
 ネブティ名(二女神名) Maakheru
 黄金のホルス名 Merynetjeru

 子息 プサムテク2世
 父  プサムテク1世
 没年 紀元前595年
 ネコ2世(Necho II)は
 エジプト
 第26王朝のファラオ(在位: 紀元前610年〜前595年)。
 ネコというのは
 古代ギリシャ読みで、正確には
 ネカウ(Nekau)と言う。
 別の読みに
 ネクタネボ。
 プサムテク1世の子。
 紀元前609年、滅亡寸前のアッシリアの残存政権を支援する遠征の途上、ようやくアッシリアの影響を排除してユダ王国の独立に成功していたヨシヤ王をメギドの戦いで敗死させ、ユダをエジプトの貢納国とすることに成功し、エジプトのシリア・パレスティナ地方への覇権を回復した。
 しかし、紀元前605年、アッシリアを滅ぼしてメソポタミアに覇権を唱えた新興の新バビロニアの初代王、ナボポラッサルに差し向けられた王子、ネブカドネザル(後に即位してネブカドネザル2世)の軍にカルケミシュの戦い(英語版)で敗退し、シリア・パレスティナ地方の覇権を奪われた。ただしこの戦の前後にナボポラッサルが没したため、ネブカドネザルの軍は帰国し、エジプト本国の蹂躙は免れた。
 アジア地区のエジプト旧領を、ネブカドネザルが「ユーフラテスからエジプトの小川に到るまで」(『旧約聖書』「エレミヤ書」64:2、「列王記」2 23:29)回復したため、アジアへの軍事的覇権伸張政策を放棄することを余儀なくされた。
 紀元前601年、アシュカロンバビロニアに対する叛乱が起こったとき、エジプトに支援の申し入れがあったが、エジプトは援軍を送らず、バビロニアに対して東の国境を防御するにとどまった。
 敗戦後は貿易に力を入れ、またギリシア人との関係を強化した。ナイル川から紅海まで運河を引こうとしたが、完成しなかった。
 また彼は、フェニキア人に命じて
 アフリカ周航を行わせたという、
 ヘロドトス
 『歴史』の中で伝える逸話。
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 以下も他のブログを参考抜粋したモノ・・・
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 日下部氏
 新撰姓氏録
 日下部氏は
 「阿多-御手-犬養」と
 同祖で
 隼人の祖とされた
 「火闌降命(海幸彦)=火遠」の後裔として
 隼人同族とする。
 日向の
 「都萬神社」で
 「瓊々杵(邇邇芸)尊」の妃、
 「木花咲耶姫命」を
 奉祭するのは
 日下部氏である。
 また、
 第九代、
 開化天皇の皇子の
 「日子」坐命の子、
 「狭穂彦=沙本比古」に始まる
 但馬-国造の
 日下部君の後裔。
 垂仁天皇
 皇后、兄妹で叛乱した
 「狭穂姫=沙本比売=佐和遅毘売」の
 氏族は
 「甲斐の祖」。
 吉備氏系や、
 十六代
 仁徳天皇の皇子、
 大草香(日下)、
 若草香(日下)王の
 御名代部。
 二十一代
 雄略天皇の皇后、
 若日下皇女の
 御名代部。

 九州の「日下部」氏族は、いずれも古代の要地に拠点を置く。

 阿蘇神社の神官群、
 草部
 吉見氏族も
 日下部。

 筑後
 高良大社
 神官家の
 日下部(草壁)氏。

 景行期に
 火の葦北に入った
 吉備氏族は
 日奉部氏、
 日置氏など
 「日」を奉じる氏族。

 邑阿自を
 祖とする
 日田の
 靱編連の
 日下部氏。

 松浦の
 日下部君の祖、
 「佐用姫」が
 大伴狭手彦から鏡を贈られた。

 日田の
 日下部氏の墳墓とされる
 ダンワラ古墳からは、
 中国王朝の象徴ともされる
 「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が出土。
 日田には
 三隈三山と呼ばれる
 三つの残丘が
 日隈、月隈、星隈と呼ばれている。

 「浦島伝承」を伝えたのは
 丹後の
 日下部氏族
 山幸彦と豊玉姫命の説話
 日下部氏族の伝承。

 江南の
 浙江省
 三つの峰をもつ
 「天台山」がある。
 住吉三神とされる
 三台星の信仰の発生の地。
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 草香江(くさがえ)
 福岡平野の旧、早良郡のうち、樋井川流域に広がっていたとされる入り江「草香江(くさがえ)」
 のちに千賀浦(ちかうら)とも呼ばれ、
 草香江、荒江、田島、片江、島廻橋などの
 地名にその痕跡を残す。

 早良は韓半島に纏わる地で
 日本最古のクニとされる
 「吉武高木遺跡(早良王墓)」
 「早良」の
 「さわら」は、
 博多湾の岸辺であった
 「麁原(祖原、そはら)」をその古名とし、
 韓半島の首都を意味する
 「ソウル」の転化

 草香江の支配氏族
 「鳥飼」氏
 神功皇后武内宿禰
 三韓征伐より帰朝の時、
 御餞を奉りし「鳥飼」氏。
 鳥飼氏は
 草香江西岸に在ったとされる
 鳥飼八幡宮を奉祭した。
 その境内の
 黒殿社に、
 武内宿禰とともに氏族の始祖、
 「鳥飼黒主」を祀る。

 和名類聚抄には、
 早良郡
 平群(へぐり)や
 曽我(蘇我)の
 郷名がある。
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 ・・・サワラぬカミにタタリなし・・・庭の花々・・・百合が満開、紫陽花、シルビア、オダマキ、野菊など、他に名前も知らぬ花ばかり・・・の中の黒猫は「モモ」と「ブブ」でした・・・「日本の植物図鑑」は
  長崎出島で
 「鳴滝(瀧)塾」開校の
 「シーボルト(置維波斯徳利)」先生だった・・・
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 耶蘇会
 「ジェロラモ・デ・アンジェリス」は
 「元和二年」に
 津軽に流された
 キリシタンを慰問した。
 津軽の深浦から出帆し、
 「蝦夷が島」に渡航
 上国(かみのくに)付近に着き、
 徒歩で松前城下に入った。
 この地で
 「乙人(おとな)」の待遇を受け
 10日ほど滞在してキリシタン信徒の
 「告解」を受けて
 出羽に戻った。
 元和六年に再び蝦夷地に入り詳細な報告をした。
 同僚の
 「カルワリオ」も「六年・七年」に蝦夷地に渡っている。
 耶蘇会
 「ジェロラモ・デ・アンジェリス」の作った
 地図には、蝦夷地の

 テッソイ(天塩)
 マツマエ(松前
 コーライ(高麗)

 等の地名が記録され、
 「韃靼」と「蝦夷が島」は
 狭い海峡として描かれているらしい・・・