771日目・・・「陸奥の絶望」か、「陸奥の希望」か・・・「65歳」以上のミナさん、「命」があるなら「最後のご奉仕」、「最後の冷や水作戦決行の時機」到来だと思う・・・1962、3年〜1975、6年代にかって「デモに命」を賭けた若者だった「ご老人」、ホームレスの人々も居るであろうけれど、「ロウジンホーム」行きダケが最終列車の切符ではないハズ。「老後」の入り口に突っ立って、定年退職でウロウロしなくても、「人生で未だヤレルことがアルッ」、原発事故で放射線汚染された「危険現場」、「危険地域」でのご奉仕である。肉体

 「原発」が必要とされた「根源」は何か、「根源的意識」は何であったのか・・・かっては「原子力商船」の「陸奥(むつ)」が就航された時の状況を「反省」する人間は今現在、いないだろう。あの「原子力船」の「陸奥(むつ)」の履歴顛末はどうなったのか?いまさらながらに「商船陸奥」の末路を思い出す・・・日本国民と日本支配階級の「希望」であった「原子力科学時代の到来と栄光」は「原子力商船の陸奥(むつ)」であったが、その末路は「絶望」であった。そして、アレからは「原発」が「支配階級」の「資本主義的商戦」の「希望」の象徴であった。いまは「末路」に向かいつつある・・・何とかせにゃぁアカンのは「子供・若者の命の延命」である。何とかできるのは「老人の力」を発揮する「生き死にの場所」である・・・「冷や水作戦」が成就したら、その実行者には「名誉のオリーブ」だけが相応しい。勲章も報奨金もイラナイ、意味がない・・・「命の公平な社会的配分」・・・?
 ・・・妄想かも・・・ゴメン・・・
 以下「ウイッキペデイア」からの抜粋・・・
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 原子力船むつは、日本初の原子動力船。1974年9月1日、青森県沖の太平洋で行われた初の航行試験中に放射線漏れを観測。16年にわたり日本の港をさまよい改修を受け、4度の実験航海後、原子炉部分は解体された。

 これ以降、日本原子力研究所においての改良型舶用炉MRX、深海探査艇用原子炉DRX研究開発を除き、日本は原子力動力船の計画、建造や購入をしていない。

 概要 [編集]
 軍艦を別にすれば原子炉を動力源とする船を造った国は少なく、旧ソ連レーニン号(1959-1966年改造後1970-1989年)、アメリカの貨客船サバンナ号(運航期間1965-1970年)、西ドイツ(当時)の鉱石運搬船オットー・ハーン号(運航期間1968-1979年)に続く世界でも4番目の成果である。本船の名称は進水時の母港である陸奥大湊港のある青森県むつ市にちなむ。

 1963年に建造計画が決まり
 1968年に着工、
 1972年に核燃料が装荷され
 1974年に出力上昇試験が太平洋上で開始された。
 試験開始早々の低出力で放射線漏れが発生し、
 帰港を余儀なくされるが地元むつ市の市民は放射線漏れを起こした本船の帰港を拒否したため、漂泊した。
 長崎県佐世保市むつ市大湊港での母港化反対運動により帰る場所を失ったまま、長い話し合いの末に新母港としてむつ市関根浜港が決まった。

 1990年にむつ市の関根浜港岸壁で低出力運転の試験を行い、その後4度の航海中に出力上昇試験と公試を行なった結果、
 1991年2月に船舶と原子炉について合格証を得た。

 その後、1992年1月にすべての航海を終了した。
 現在は、ディーゼル機関に積み替えられた船体が独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)の「みらい」として運航されているほか、
 取り去られた原子炉がむつ市のむつ科学技術館で展示されている。
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 ・・・「むつ(陸奥)」・・・の顛末・・・
 参考に次のブログを勝手に貼り付けておくけれど・・・ゴメン・・・
http://blog.goo.ne.jp/hachikun11/e/eba5bad70522c82725c9ce91f7d3eedb