770日目・・・「【オピニオン】砕け散った日本の鏡2011年 3月 25日 (金)」・・・そうですか・・・

 「天(自然・宇宙)」を、「科学(合理的法則)」として、人間はコトバで、記号で、図式で、「認識」しようとしてきた。
 「天(自然・宇宙)」の「根源」と、その「存在動因」が「カミ」であろうが「アクマ」であろうが、「物質自体」であろうが、「ナニ」であってもイイ。今現在の「人間認識の壁」を超られない「不可知(ワカラナイ)」なモノがたくさんアル。「ワカラナイモノ」とは「存在物の存在する仕組みのコト」である。あらゆる「存在物」は「動いている」、「変化している」と言うことはわかた。そして、その「仕組みのあり方」を知ってきたが、知れば知るほど、他の「仕組み」が解明できないモノが次から次と「無限」に立ち現れてくるのも知った。
 「存在の在り方の仕組み」は未来的な認識時間をかければ、いずれ「解明」されるモノであろうコトも楽天的に解かっている。
 問題は「ナゼ、存在するのか?」と、「存在自体」を問うとしても「底存在する物」からの答えは無い。「存在する物」は「存在の根拠」では無く、「変化する存在自体のあり方」を「どのように存在」しているのかを「人間認識」として教えてくれるだけである。だが「存在の仕組み」ではなく、「存在の根拠その物を知りたい」のが「人間の頭の思考回路」であるらしい。
 ・・・「ナゼ、存在するのか?」・・・ココに「人間認識」が「カミ」や、「アクマ」が「不可知な存在を操るモノ(天・宇宙・自然)」として、そして、それ自体が「不可知な存在(カミ・アクマ)」として入り込んでくるのである。
 「天・宇宙・自然」を操るナニモノか、「物質自体の在り方の仕組み」を操る存在・・・だが、そう「考えている」のが「人間の思考と認識」である・・・「自然の背後で操る存在」、そう考えざるを得ない「人間」とは「自然」に対して「理不尽」であるからだ。そして、「理を尽くして」も、その「自然」を操ることが出来ない人間として存在する。「世界一の防波堤」、「世界一の安全な原発」、「世界一のコンピュータ」、「世界一の新幹線」・・・「世界一の・・・」はギネスに掲載されても「宇宙の、自然の、枠内」である。
 「自然科学」は「人間認識」として五感で「認識対象」される「存在のあり方の仕組みの解明」を前提としてきた。にもかかわらず「自然存在」としての「人間認識」は未だ「カミ」と「アクマ」を必要としている。「自然」に対峙している人間は「自然の仕組み」を恩恵と同時に「理不尽」な災厄をもたらすモノとして「認識生活」をしてきたからである。問題は「理不尽」である。残るのは「人間の感情」である。「理を尽くせず」の「自然」である。人間の「感情」は「恐怖」であり、「畏敬」である。その「自然」を操る「カミ」や「アクマ」である。
 「一神教旧約聖書)」では「カミ」は恵みも災いも「カミの仕業」である。
 「拝火教」では「善悪二神の仕業である。
 「多神教」では各々の神が人間に対しての役割分担で恵みも災いもする。
 「トーテム神」は特定な個々人、あるいは人間の組織を「災い」から守ってくれる守護神である。
 ・・・これらの「神々」は人間に対して「自然の不可知な動きを裏で操る存在」とされた。恵みと同時に恐怖、畏敬の対象として「人間の認知」であり、「人間認識」である。・・・「自然=神=悪魔」である。
 だが、「人間」は「生身の人間社会」にも持ち込んだのである。「生殺与奪の階級社会」として・・・
 「社会科学」は「人間社会のあり方の約束事」を解明しようとしてきた。「自然科学」とは決定的に違うのである。
 「物語文学」とは「自然科学(物質の法則理論)」と「社会科学(人間利害関係の約束理論)」のハザマに存在している。「自然科学理論」も「社会科学理論」も無視でき、ウソも事実も自由自在、自由奔放な「表現物」として存在する。そして、それが「叙事詩」であろうが、「抒情詩」であろうが、感情としての「喜怒哀楽」を享受者に及ぼす・・・理屈もあろうが、理屈ではない・・・
 「文章の創作活動」として「表現の自由」は保証されてきたのではなく、始めから「自由」なのだ。禁じる者に見つからない限り、どんな表現でも「自由」である。「焚書坑儒」があろうとも、「人間の脳ミソ」は「思考」に於いて「自由」そのものの「存在」なのである。その「思考」が「文字化」されたモノが「文学」と言うモノ・・・表現芸術一般もその枠に存在する・・・
 脳ミソ・・・空想、妄想、真偽、事実、事実無根、奇想天外が交差、活躍する「空間領域」、「非合理的な対象存在」なのである。掟があろうが、無かろうが、自分自身以外はダレも規制し得ない「対象存在」である。

 ・・・以下は「ウォールストリートジャーナル(日本語版)」からの抜粋です・・・
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【オピニオン】砕け散った日本の鏡
イアン・ブルマ
2011年 3月 21日 15:18 JST
 東京都知事で作家の石原慎太郎氏の失言は今回が初めてではない。石原氏は東北を襲った巨大地震について、現代の日本人の「我欲」に対する「天罰」だと発言。さらに、「積年たまった日本人の心の垢を、津波をうまく利用して我欲を洗い流す必要がある」と述べた。

 Magnum Photos
1945年9月の広島被爆者慰霊祭で
 石原氏の発言は、現代の若者が個人主義的で自分の保身や立場ばかりを優先し、常に自分よりも国のために行動していた集団意識の高い、従順で規律正しい昔の日本人の心を忘れているという、保守派が長年主張してきた持論を表している。

 石原氏はそのままでは逃れられなかった。「天罰」発言にはすぐに抗議が殺到し、同氏は地震津波、さらに原発事故で被害を受けた多くの被災者を深く傷つけたとして発言の撤回、謝罪を強いられた。それだけではない。この震災は、若者を含めた日本人が今でも規律正しく、利他的であることを証明している。

 自然の猛威に意味を見出だすという太古の人間と同じ行動を、石原氏は独自の無神経さでやってのけたのだ。古代中国では、地震などの自然災害は王朝が滅亡する凶兆であると考えられていた。日本でも同様に、地震は巨大ナマズが暴れることによって起きると信じられており、このナマズは神として崇められ、鎮められるべきであるとされてきた。

 火山付近や断層の上で生きる意味を、脆弱な人間は他にどのようにして理解できるだろうか。いつも通り静かにお茶を飲んだり、食事の準備をしていた次の瞬間に天変地異ですべてが破壊されるのだ。もちろん意味などないのだが、意味を見出さずに生きるのは人間にとって難しい。日本人や中国人に限ったことではない。今回の大震災を、十戒に従えという神の「メッセージ」と言い放ったグレン・ベック氏の見方は石原氏となんら変わらない。

 日本人は昔から自然の破壊力を目の当たりにしてきた。しかし、自然は時に助けにもなる。1274年にモンゴル、中国、韓国から16000人の兵士を乗せて日本攻撃に向かっていた船が、巨大台風により沈没した。これが、「神風」の語源である。この場合、自然は日本を救済したのだ。

 日本が苦境にあった1944年に、死を恐れずに攻撃に向かった特攻隊を無駄に神風と呼んだわけではない。通常の軍事作戦では敗戦を避けられる状況ではなかった日本軍は、最も優秀な若者を犠牲にするという崇高で神聖な方法により、強いアメリカ軍が恐れて引き返すかもしれないと考えた。

 核爆弾の被害を受けた初めての国である日本が今、原発事故に直面しているのは何とも皮肉である。原爆も一部では天罰と考えられた。1945年にB-29機の焼夷弾攻撃により東京が炎上し、数日で10万人もの死者が出たのもひどい惨事であったが、これはまだ理解ができた。しかし、たった1つの爆弾で街全体が数秒で消滅したのは、どちらかと言えば自然の猛威が振るったかのようだったのだ。

 原爆はすでに「普通の」戦争行為ではなかった。敵が分からない。防御する方法さえない。そのことも、筋金入りの日本軍に無条件降伏を認めさせた一因になったであろう。昭和天皇の言葉を借りれば、原爆は、「人類の文明すべてを破壊」させることになる「残虐な新型爆弾」であった。文明を守るための降伏は恥ずべき行為とは見なされなかった。

 ただ、広島と長崎に投下された原爆は、何千人もの犠牲者を出すだけでなく、日本の戦争責任に対する見方も歪めることとなった。その時期は、人間の愚行が引き起こした大惨事と言うより、巨大地震のような自然災害に軍隊だけでなく全国民が巻き込まれたかのように感じられていた。

 多くの人が原爆は天罰であり、それにより過去が清算されると考えた。長崎の原爆に関する著書で最もよく知られているのは、被災者の1人でのちに白血病で死亡した放射線の専門家、永井隆博士によって書かれたものである。永井博士は、原爆が人類の罪悪の償いのために神によりもたらされた恵みであると説いた。同氏を含む長崎の多くの住民がキリスト教徒であったが、永井博士の説には多くの日本人が共感した。

 文明を救済し、戦争をなくし、永遠の平和を得るのために日本人は被爆したのだと説く永井博士の長崎の自宅は聖地のようになった。日本人は新たな平和主義者として、過去と同様にまじないを唱えることで自然の力を鎮めようとしたのだ。このとき戦争責任はほとんど忘れさられていた。国家の安全は宿敵の米国に委ねられ、米国の核の傘が安全の代名詞となった。

 永井博士は核の破壊力を熟知していたが、原爆を人類の進化において大きな一歩となる「物理学の勝利」と呼んだ。日本人は長年、この原子力に対する相反する感情を持ち合わせている。米国からの核の持ち込みは公然の秘密でありひどく嫌がられてもいた。日本は他国以上に原子力発電に依存しているが、以前から何度も原子炉の危険な欠陥を隠してきた東京電力が、今回の原発事故で最も不信感を抱かれているというのにはそれなりの理由がある。

 災害はいつ何時起こり得るという意識は日本の文化に大きな影響を与えた。戦後最も有名になった映画にゴジラシリーズがあるが、ゴジラは巨大なキング・コングとして見られていただけではない。この映画は、1954年に米国による水素爆弾の爆発により太平洋沖で被爆死亡した日本人漁師にヒントを得て作られた。日本を破壊するゴジラは、水中の核爆発により生まれたのだ(ちなみに、ゴジラ映画の特殊効果を担当した円谷英二氏は、1942年に真珠湾攻撃1周年を記念して製作された「ハワイ・マレー沖海戦」でも特撮の手腕を振るった)。

 自然災害に対する危機感は日本文化に深く根付いている。太古の時代から信仰されていた神道は、神聖な自然を鎮めるための儀式が多い。自然は慈愛に満ちる一方で憤慨することもある。そのため、供え物、儀式、捧げ物などでなだめなければならない。キリスト教ユダヤ教と違い、神道は規律や道徳基準、教義などを設けない。ただ神が必要なのは敬意なのだ。

 命のはかなさや生死の繰り返しを重んじる仏教も、自然災害の恐怖を隣り合わせに生活をする人々に受け入れられやすかった。日本人の観念として、運命論がよく語られる。日本文学には、この感情を表したものが多い。例えば、15世紀に蜷川親当によって詠まれた「生まれぬる その暁に死にぬれば きょうの夕べは秋風ぞ吹く」という歌もその1つだろう。

 しかし、自然の予測不可能な変化と運命に身を任せているからといって、人生に価値を見出せないわけではない。逆に、短い人生を謳歌することも出来る。安全な地域に住む人々は、永遠の命とはいかないまでも、人生で成し遂げた偉業など、ある種の不滅をよりどころに確実に訪れる死と向き合っている。マンハッタンやシカゴなど人間の遺跡は、欧州の大聖堂など神を崇めるモニュメントと同様に、理論上は永遠に存在するものとされている。

 火山の麓や活断層の上で生きる日本人は、建造物に永遠を求めない。昔ながらの建物は紙と木から造られており、これらは小規模な地震には耐えられるものの、永遠に存在するものではない。中部地方の伊勢に、日本で最も有名な神社で皇室の氏神である神宮がある。1500年前に建てられたこの神社は、20年毎に建て替えられるため、とても古いと同時にとても新しい。永久不変なのはその非永久性のみである。

 東京やその他の都市にはコンクリートとガラスで作られた耐震性の高い高層ビルが立ち並ぶが、これは比較的最近の進歩である。多くの建造物はすでに木造ではないが(建築費が高く維持が困難)、永久には残らないという考えの表れか、日本の都市は今でも映画のセットのようにやや粗末な造りに見える。どちらかと言えば、マンハッタンというよりロサンゼルスのようである。

 東京は、1923年の関東大震災と1945年の東京大空襲により、20世紀だけで2回も壊滅の危機を味わってきた。その2回とも、人々は明るく精力的に、そしてすぐに街を復興させた。19世紀後半まで東京がまだ江戸と呼ばれていた時代には、江戸っ子は火事などを「江戸の華」と呼んで、災害に屈することなく立ち向かった。

 東京であろうが東北であろうが、災害から立ち上がる力は運命論のもう一方の面を表している。今回の震災においても、略奪や暴動を起こすことなく、規律正しく、結束力を持って復興への努力を続ける日本人に対して、海外の人々は賞賛の意を示した。ただし、いつもそうだったわけではない。1923年の関東大震災では、朝鮮人が水に毒を入れたという噂が広まり、朝鮮人に見えたり、朝鮮語を話しているように聞こえたりした人が襲われる事件が多発したこともある。

 今回の震災では、規律が守られている。この背景には、社会の規定に従う、自分のことは自分で対処する、そして、他人に迷惑をかけないといった、日本人が子供の頃から植えつけられるルールがあるのだろう。しかしまた、自然災害と長年共存してきたことから、倒れたものはまた立て直せるという認識も背景にある。日本語の表現に、過去にあったことを全てなしにするという意味の「水に流す」という言葉があるが、これは弱み(過去の責任を取らない)にも強み(未来に向かって進む)にも成り得る。

 この震災の被害がどこまで広がるかはまだ分からないが、日本が立ち直るだけでなく、また前より強くなると信じられる理由がある。1995年の阪神・淡路大震災の時と違い、政府が海外からの援助受け入れに難色を示さなかったのも、日本が以前よりもオープンで、国家威信にそれほど拘らなくなってきた証しだろう。

 初めて韓国と中国が日本に援助の手を差し伸べたことも、過去の流血の歴史により傷ついた関係の改善に繋がることは間違いない。自衛隊の素早い動員、そして隊員の素晴らしい活躍は彼らのイメージアップになり、悲惨な戦争により自国防衛力がないと見られていた日本が信頼を回復することにもなるだろう。政府は未だに国民の信頼を得るのに悪戦苦闘しているが、この震災への対応を通してより強固になれる可能性もある。

 しかし最も重要なのは、一般の日本人が冷静に震災に立ち向かっていることだ。それは、石原都知事の見下すような発言が時代遅れでばかげているだけでなく、間違っていることを見事に証明している。彼らは自分や家族だけでなく、見ず知らずの他人とまで助け合っている。もしもそうした助け合いの精神が日本人のステレオタイプに反するというのであれば、そんなステレオタイプは、今こそ、打ち砕くべきなのである。

イアン・ブルマ氏は、日本研究を専門とする米バードカレッジ教授。最新の著作は"Taming the Gods: Religion and Democracy on Three Continents")
記者: Ian Buruma
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