767日目・・・風評でもないナンでもない「事実」・・・目に見えない「現場・現実」の事実はコレなんだろうな、と思う。「風評」とはジャーナリストがの言動・記事が「風評被害」とするからである。惑わされようが煽られようがどんな状況でも「個々人の判断」である。コレとは以下の記事の抜粋である。

ーーーーー
 現地ルポ・振り切れた測定器の針
 ジャーナリスト
 豊田直巳氏

 常磐線鉄橋の落下現場で放射線を測る日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の取材メンバー=13日、福島県双葉町(豊田直巳さん撮影)
 東日本大震災が福島第1原発を襲ったのは、私が事故発生から25年目のチェルノブイリ原発取材を終えて帰国した直後だった。チェルノブイリでの取材体験から日本がのっぴきならない事態に陥る可能性を直感、「まさか日本で原発事故取材に出掛けるとは」と思いつつ、3月12日に福島県郡山市に入った。

 翌13日、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)の仲間や写真誌「DAYS JAPAN」編集長の広河隆一さんと合流した。

 福島第1原発のある双葉町は、13日時点で既に避難指示が出ていた「原発から20キロ圏内」にあったが、入域制限しているチェックポイントまでは行ってみようと国道288号線を東に向かった。すると、予想に反して双葉町まで行き着いてしまった。検問も避難指示の案内板もなかったのだ。

 国道をまたぐJRの鉄橋が崩れ落ち、地震のすさまじさを見せつけていたが、人影はない。

 毎時(以下同)20マイクロシーベルトまで測定可能な放射線測定器を取り出すと、アラーム音を発しながらみるみる数字は上がり限界値の19・99を表示した。放射能測定が初めての仲間が「この数字はどのくらいのレベルなんですか」と防護マスクでくぐもった声で聞いた。「おおよそだけど、普段の東京の数百倍かな」と答える。既にかなりの高濃度汚染地に入り込んでいた。

 車を町の中心部に向けて進めた。人けのない家が並ぶが、地震の被害はそれほど見られなかった。そこで、もう一台の100マイクロシーベルトまで表示する測定器を取り出すと、これも針が振り切れた。

 この事実を行政当局に知らせようと、双葉町役場に直行したが、役場玄関の扉は閉ざされたまま。緊急連絡先などの張り紙もなかった。静まりかえった町に、ときどき小鳥のさえずりが聞こえる。

 入院患者に被ばく者が出たと報じられた双葉厚生病院に向かったが、ここも無人。玄関には患者を運び出したとみられるストレッチャーが何台も放置され、脱出時の慌ただしさがうかがえた。地震で倒れた医療機器や診療器具が散乱。消毒薬の臭いが漂う。

 原発から約3キロの同病院前でも測定器の針は100マイクロシーベルトで振り切り、上限に張り付いたまま。そこで1000マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)まで測定できるガイガーカウンターを取り出したが、これもガリガリガリと検知音を発し、瞬時に針が振り切れた。「信じられない。怖い」。私は思わず声に出していた。

 放射性物質の違いなどにより同列に論じられないにしても、これまで取材した劣化ウラン弾で破壊されたイラクの戦車からも、今も人が住めないチェルノブイリ原発周辺でも計測したことのない数値だった。

 放射能汚染地帯の取材経験が一行の中で最も多い広河さんも信じられない様子。「これから子どもをつくろうと思っている人は、車から降りない方がいいかもしれない」と真顔で言った。

 放射能は風向きや地形によっても異なる。もう少し調べようと海岸に向かったが、病院から数百メートル行った所で津波に運ばれたがれきと地震で陥没した道路に行く手を阻まれた。放射能汚染に気を取られ、しばし忘れていたが、紛れもなくここは巨大地震と大津波の被災地でもあった。その被災地を五感では感知できない放射能が襲っている。

 慌ただしく町中の取材を終え、汚染地帯を脱しようと急いで帰る途中、町方向に向かう軽トラックに出合う。車を止めて汚染状況を説明すると「避難所にいるんですが、牛を飼っているので餌やりに行かないと。だめですか」。私に許可を求めるような困った表情で年配の女性が聞いてきた。「長い時間はこの辺にいない方がいいですよ。気を付けてください」。そうお願いするしかなかった。

 町内の道路をまたぐアーチには「原子力 郷土の発展 豊かな未来」との標語が掲げられていた。しかし、現実には未来を奪いかねない放射能の脅威に町はさらされていた。
   ×   ×   
 とよだ・なおみ 56年生まれ。イラク戦争劣化ウラン弾問題などを取材。著書に「戦争を止めたい―フォトジャーナリストの見る世界」など。
ーーーーー
 ・・・以下も「ZAKZAK-‎2011年3月18日‎」からの抜粋記事です・・・
ーーーーー
 事故原発は“欠陥品”?
 設計担当ら
 35年ぶり仰天告白2011.03.18
 自衛隊に警視庁機動隊、そして東京消防庁の特殊部隊まで巻き込むことになった空前の原発事故は、実は人災である可能性が浮上している。
 福島第1の原子炉は米ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発した。そのGE元社員のデール・ブライデンボー氏はロイター通信の取材に対し、福島第1と同型の原子炉について35年前に安全面での不安を指摘していたと打ち明けたのだ。
 そのうえで同氏は「分析が終わるまで一部の原発は閉鎖されるべきだと思ったが、GE側は応じなかった。そのため、私はGEを辞めた」と、退社した経緯を説明した。
 米ニューヨーク・タイムズも、米原子力委員会の専門家が1972年、この原子炉は水素がたまって爆発した場合、放射能を封じる格納容器が損傷しやすいため、「使用を停止すべき」と指摘した、と報じた。
 今回、事故を起こしたのは「マーク1」という沸騰水型原子炉の一種で、60年代にGEが開発した。中心の燃料棒を圧力容器、さらにその外側をフラスコ状の格納容器で守っている。格納容器が小さく、設備建設費が安く済むため、計104基の原子炉が稼働している米国では同型の炉が23基も稼働している。米国外にも9基あり、計32基が現在も運転中だが、格納容器が小さいゆえに、水素爆発で損傷するリスクが高いというのだ。
 福島第1の原子炉はGEの設計図をもとに、東芝日立製作所が関わって建設、運転されてきた。設計に携わった東芝の元技術者、小倉志郎氏(69)は16日、外国特派員協会の記者会見で驚きの証言をした。

 「(67年に)設計した当時は、津波は前提になかった。日本で事実上、初の原子炉設計だけに知識に乏しく、耐震設計基準についても判断できなかったと思う」

 小倉氏は福島第1原発の1、2、3、5、6号機の冷却部分などを設計した。その小倉氏によれば、津波の対応はその後、日本独自の設計で織り込まれるようになった。しかし、推定で最大10メートルとされる今回の大津波より「想定規模ははるかに小さかった」。また、地震の規模についても「マグニチュード(M)8・0以上の地震は起きない、と社内で言われた」とし、M9・0の巨大地震は想定外であったことを明かした。

 地震対策は「私の定年が近くなってやっと見直しをしたが、それでも大地震は想定しなかった。責任を感じる」と語っている。

 米メディアの報道と設計者の証言をまとめると、もともと事故時の危険が高い米国発の原発が、津波地震のリスクを十分に考慮せず建設、運転されてきたことになる。前出のブライデンボー氏は今回の事故について、「マーク1型格納容器が、他の原子炉ほど地震津波の負担に耐えられないことから(事故が)生じた」と分析している。

 福島第1原発の1号機が運転を開始したのは71年。40年もの間、周囲を巻き込む深刻な事故を起こさなかったのは奇跡だったともいえる。
 ZAKZAK-‎2011年3月18日‎
ーーーーー
 自分自身で確認できない「事実」とは「何か?」を知るには困難であるが、その媒介された「事実(?)」に対する「判断」は自分自身でしかない・・・
ーーーーー
 ・・・「信じたい気持ちは」・・・わかるけれど・・・
 ボクの言いたいコトは、危機的な状況には「不安をあおる情報」がツキモノである、ということである。不確かな「情報」が流れるのはダレもが自分の眼で、自分の耳で、自分の舌で、自分の肌で「事実確認」ができない状況にあるからだ。
 当事者である東電が「事実確認」ができない状況にある。その東電からの「情報」を得ている原発安全委員会、政府官房長官の言辞情報は「事実を確認出来ない」という所から始まってしまっているのに、最後には「人体に危険はない」、「安全デス」、「冷静に対処、行動ヲ」であった。確かに今現在は放射能汚染でスグに命を落とす人はいないかも知れない。だが、「安全基準値」の設定が「法律」として決められているのに、「基準を超えても安全」とは「風評」そのものである。それが「安全」だと言われても、その「情報」は一体ナンだ、と既に「不安」を提供しているのだ。
 そして、ニュース解説者、専門学者は「憶測」としての楽天的な「情報」を流した。
 今回の危機的状況は「13日の状況」となんら変わりがない。「メルトダウン」は回避されていないのである。放水で温度が下がった。外部電源が繋がった。計器が機能はじめた。だが「13日」の状況である。
 そして、「原発事故」、福島に居ようが、名古屋に居ようが、ニューヨークに居ようが「生きているスベテの人間」が同じ状況に存在している。「原発事故=メルトダウン」後の「安全」はこの地球上に存在しないのである。メルトダウンは地殻を突き抜け、マントルまで侵入し、そしてマグマを噴出す可能性がある、と言われたのは「ソ連のチルノヴィリ原発事故」の時だった。発見したのはアメリカの「軍事衛星」だった。「ソ連政府」が動き出したのはその後である。事件当時、命を失った現場の人々は数千人、その作業員を残し、「政府官僚・役人達」はその「危機的情報」を周辺住民にも知らせず逃げた。
 その後、今現在も汚染された街や村では10人単位の子供達が命を落としている。モチロン、成人男女も。そして、未だに汚染地区で生活し、生きるタメに高度に放射線汚染されている物を食べている。驚くことに今現在、「政府」は危険を前提に、「故郷への帰還を願望」する人々に、その汚染地区に住居を建てさせ、農業再開させている。
 今現在も、「チルノヴィリ原発事故」に携わって現地で医療活動や状況の研究をしているのは広島大学長崎大学に籍を置く「日本人の医者」達である。
 「政府や東電を信じるしかないのかも」・・・「風評」であれ、ナンであれ、どんな「情報」にも「是非の可能性」がある。あおられて「動じない」、あるいは、あおられて「動じている」自分自身の「今現在の立場はナニか」をハッキリさせて、自分自身の判断を信じるより他はない・・・たとえ結果の「判断」が間違っていたとしても・・・自分自身の判断に対する立場(責任)である。
 「権威、権力」に「振り回されて大勢の人々が命を落としてきた」のは歴史的な「事実」である。そして人々は「ダマサレタ」などとは考えもしなかった。「ギリギリまで信じた」のである。「お上の権威」を。そして、ギリギリの線を超えたのは、「自分自身の存在」を問いただした時である。「自分自身の判断に実存的に命を賭けた」からである。
 当然、その「判断」で、自分はおろか、命を失うハメになる親族、同胞、友人もいるだろうコトも「覚悟」したのに違いない。そしてギリギリの線を越えてとは「命」以外に何も失うモノはないと「自覚・覚悟」したからである。
 危機的状況は何時でも何処でも自分自身の問題として突きつけてくるのだ・・・個々人が「自覚」しているかどうかは問題ではない。だが、今現在の生きている人々の状況も同じである・・・TV画面を観ていても、「他人事」ではない、「他人(権威・権力者)に委ねてしまっている命の脆さ」である・・・
 個々人の判断結果の「自己責任」は常に問われる・・・「政府や東電」は、「事故事実確認」に対しても、その「情報告知」に対しても「社会的責任」を負うべきであるのは当然だが、流されてしまった「風評情報」にも「根拠の前提と一部」が含まれているハズである。
 その「判断主体」は「ダレか」も問うべきである・・・