750日目・・・「建国の父」・・・「坂本竜馬」・・・?・・・1835(乙未)年11(丁亥)月15(辛亥)日誕生。「宿曜経」だは「軫 宿」。1867年は「丁卯」年で、その11月「辛亥」、15日「己亥」には「坂本竜馬」が暗殺された。

 人名辞典の記載を信じて、「四柱推命」を推断・・・「海の男=海人・海士」であった彼・・・尚且つ、コレッて「本当」かな?・・・
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誕生
天干   偏財    偏官
1835(乙未)11(丁亥)15(辛亥)
      三合会局乙偏財
蔵干分野 偏印    正財   傷官沐浴
       格式 偏財格   
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暗殺日
大運
甲申 正財      害     害
1867年 
丁卯 偏官 三合乙  三合乙   三合乙
11月
辛亥 偏官 三合乙  自刑    自刑
15日
己亥 偏印 三合乙  自刑    自刑
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 最近見たTVでは、「竜馬の暗殺者の黒幕」は「勝海舟」らしい・・・
 以下は「日下」村の地名を有する
 「高知県高岡郡日高村・本郷」
 のブログ紹介の記事からの抜粋である。
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沿革
昭和29年10月、日下村、能津村と加茂村の一部が合併し、日高村として発足した。
 地域の歴史は古く、土佐二ノ宮小村神社史に用明天皇2年(西暦紀元586年)建立とあることからも上古より開けた旧村であることが知られる。
 平安時代は、別府氏の荘園、鎌倉時代には三宮氏の領地となり、以後三宮氏が日下一円に勢力を張ったが、長宗我部氏の台頭とともにその門に降った。
 藩政時代に野中兼山が、鎌田堰(せき)に続いて八田堰を構築したことから、仁淀川の水位があがり、支流の「日下川」逆流、以来水魔との戦いの歴史を展開してきた。
 村の中央部より仁淀川に流れ込む「日下川」は、仁淀川下流域にあるとともに、河川自体の勾配の少ない河川で、ひとたび大雨がくると仁淀川より水が逆流してくるという内水被害の起こる河川です。
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 幕末、時代の天皇は「孝明天皇」・・・
 武帝→孝武帝
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 「高橋多一郎」は「文化11年(1814年)- 万延元年3月23日(1860年4月13日)は、幕末の武士。水戸藩士。桜田門外の変の首謀者の一人」であった。
 高橋→膳夫・膳部
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 「久坂(日下)玄瑞」は「蛤(ハマグリ)御門の事変(禁門の変・1864年)」で「鷹司家」で自殺「久坂玄瑞」。
 日下→日下・日下部・草壁
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 「奇兵隊」の「高杉晋作」は「慶応3年4月14日(1867年5月17日死亡)」。彼は「文久2年(1862年)5月」には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の「上海=俗称は申」へ渡航した。
 彼の「都々逸」に「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」があるが、殺したい「鴉=ア・からす=香良洲=烏」とはダレだったのか?・・・「烏=太陽=天照大神」・・・
 高杉→高+杉(サン)→纂・讃・蚕・蒜
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 「桂小五郎=木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5 月26日)」、「孝允(こういん)」とも有職読みされる。雅号は「木圭」「猫堂」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」。
 出生地 長門国・萩・呉服町
 天保4年(1833)萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子。「和田」家は毛利元就の七男・「天野」元政の血統。
 維新後、名を木戸孝允に改め、新政府の要職を歴任。薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、 位階勲等は贈従一位勲一等。
 「和田(わだ・わた・はた=海・波多・秦)→桂(月桂樹)」はナゼ「木戸」の姓を賜ったのか?・・・「木戸=木(十八)+戸(一尸)」→「き・ど」→記紀・努・・・
 「古事記垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)」の記事には、子供が「16人」、「氷羽州比賣」が産んだ子供の「印色入日子命」が「日下の高津池」を造ったとあり、この天皇の后である「佐波遅比賣(沙本毘賣)」が産んだ「品牟都和氣命(本牟智和氣)」の話しがある。同じ「古事記の文面」であるのに「名」の使用漢字が異なっている。

 佐波遅比賣=沙本毘賣
 品牟都和氣命=本牟智和氣←稲城の火中(焚)に生まれた

 この「本牟智和氣」は「尾張の相津にある二俣榲(ふたまたすぎ)」で造った「二俣小舟」を「倭の市師池、軽池」に浮かべて遊ばせたとあり、鬚(ひげ)が長く伸びた大人になっても「真事とはず=コトバを言わなかった」とある。そして高く飛ぶ「鵠(くくひ)」の音(鳴声)を聞いて「安芸(アギ)」と言った。それで天皇は「大鷹(帝+鳥)=おおたか」にこの「鵠」を追い求めさせた。その経路が、
 木國→針間國→稲羽國→旦波國→多遅麻國→近淡海國→三野國→尾張国→科野國→高志國
 であり、この
 「高志國→和那美の水門」で「鵠」を網で捕らえて、献上して「本牟智和氣」に見せたが、「沈黙(真事とはず・物言わず)」したままであった。
 それで、天皇は夢に見た「出雲の大神」のお告げの真偽を「曙立王」に占わせ、その効験の真偽には「鷺(サギ)の生死」と「葉廣熊白檮の活枯」で実証させた。そのコトにより「曙立王」は「倭者・師木・登美・豊・朝倉・曙立王」と言う名を賜った。
 それで「曙立王」と「莬上王」を「本牟智和氣」に従えさせ、「那良戸」から(出雲へ)派遣させた。その途中で「跛(あしなえ)・盲(めしひ)」に遇い、大坂戸からの途中でも「跛(あしなえ)・盲(めしひ)」に遇ってしまった。だが「古事記岩波文庫・倉野憲司・校注)」の翻訳では「だだ木戸ぞ、これ掖月の吉き戸、トひて出で行かしし時、到ります地毎に品遅部をさだめたまひき」とあり、この「ただ木戸ぞ、掖月の吉き戸」とは、この「木戸」こそが「吉兆の迂回路の戸口」であるとした。
 「木戸」の所以である。
 この岩波文庫の校注には「掖月」の「月」は「戸の誤写」とある。漢和辞典には「掖(エキ・ヤク・ワキばさむ・助ける・誘う・導く・ワキ・腋・宮門の両脇にある小門・後宮・女官のいる御所)」で、日本語では「掖省」とは「宮内省」とある。「ワキばさむ月」の「月」の象徴とは「月桂樹(オリーブの木)」である。「桂(かつら)」である。
 「木戸孝允」とは「桂小五郎」であった。で、あるならば、「現存・古事記」の「垂仁(スイニン)天皇の本牟智和氣(本務置訳)」とは「推認の記録」である。「スイジン」ならば「粋人・誰人」であるな。この箇所の「垂仁天皇」の記録は「勤皇攘夷派(桂小五郎)の暗号文」である。
 とにかく、「本牟智和氣」は「出雲國」で「・・・青葉の山(サン)の如きは、山(サン)と見えて山(サン)にあらず・・・」とコトバを発し、喋れるようになった。ここは「サン」の同音異字を各人が充てて、「コジキの謎」を解いてくれ・・・もちろん、「古事記」ではない、「キのコク」から「高い志のコク」の幕末の「乞食」を・・・
 「本牟智和氣」と同じような名前の天皇は「応神天皇品陀和氣命=大鞆和氣命=胎中天皇」が「古事記」の記録にある。「熊襲征伐」をしようとしていた父親の「仲哀天皇」は、「息長帯比賣」と「建内宿禰」に暗殺されたらしいのだが、「コト=瑟=琴(王+王+今)」で・・・「孝明天皇の暗殺」の・・・示唆かも・・・「出雲」とは「長州藩の領域」である・・・
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 「武市瑞山(たけち ずいざん・1829-1865)」は「土佐藩郷士(白札)。土佐勤王党の盟主。通称は武市半平太(たけち はんぺいた)」。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。
 武市→たけいち→高市
 文久元年(1861年)七月、江戸で
 長州藩
 桂小五郎
 久坂玄瑞
 高杉晋作

 薩摩藩
 樺山三円

 水戸藩
 岩間金平
 ら尊王攘夷派と交流。

 久坂に心服し、
 久坂の師である吉田松陰
 「草莽崛起」に共鳴。
 久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷とする密約。

 八月、土佐勤王党を結成。
 大石弥太郎、盟約起草
 坂本龍馬
 間崎哲馬
 平井収二郎
 中岡慎太郎
 吉村虎太郎
 岡田以蔵
 総勢192人

 武市→たけいち→高市
 茗澗=丱(廾・サ・クサ冠・日下無理)+名
    +
    氵(水・サンヅイ)+氵(サンズイ・纂髄)+間
  水の間→門日→モンカ→門下
         モンヒ→門扉・文比
         モンジツ→文実
 柳川左門=柳→木(キ・ボク)+卯+川+ナ(名)+エ(得)+門(問)
 柳川→「川柳(センリュウ)」の置換→潜流→潜龍→選留
 土佐=十一(壱拾壱)+人+ナ+エ
 壱拾壱=イチ拾うイチ
 ジュウイチ=重位置(位地・異字・意字・意地・維持・医事・遺児)
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 「岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日1838年2月14日) - 慶応元年5月11日(1865年6月4日)」は土佐藩郷士。「人斬り以蔵」と呼ばれた「天誅暗殺者」だが捕縛され拷問、殺害された。諱は「宜振(よしふる)」。
 岡→おか→丘・陸・阜・阝→鍵(key)の形
 彼の関わった「暗殺」に「猿の文吉殺害(文久2年閏8月30日)」がある。
 「猿=サル=沙流=申」である。
 以下は「ウイッキペデア」からの抜粋だが、
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 「猿の文吉(ましらのぶんきち)・目明し文吉)」は、「安政の大獄時、島田左近の手先として多くの志士を摘発した岡っ引である。当然、志士たちから深い恨みを買っていた。岡田以蔵・清岡治之介・阿部多司馬の3人は三条河原へ連行の上、「斬るのは刀の穢れになる」として細引で絞殺した。文吉は島田の高利貸しの手伝いもしており、民衆からも嫌われていたため、裸に剥かれ河原の杭に縛り付け、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され晒された遺体には投石する者もあったという。なお、この時高札に「いぬ」と書いたため、ここから「○○の手先」の蔑称としての「○○の犬」という表現が生まれたという説がある。
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 「坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日( 1867年12月10日)」は土佐藩出身。諱は直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)。龍馬は通称。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)。
 「坂本の臣」の姓は「古事記日本書紀」には「仁徳天皇」の皇子である「日下王・若日下王」、その「日下王」の后である「長田太郎女」を「罠(わな)=罒(四)+民」にはめ、「安康天皇(穴穂皇子)」に差し出した人物として出てくるのだが・・・「罒(四)+民」=「四国の民」・・・?
 ここの「ウイッキペデアの記事」では「坂本竜馬」の「生年月日・暗殺死亡年月」が
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 1836(乙未)年
    1(戊子)月
    3(庚子)日
 暗殺死亡は
 1867(丁卯)年
   12(戊子)月
   10(甲子)日
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 である。
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 以下、「四柱推命学」で再検討・・・
誕生
    1836年 01月 03日
天干    正財  偏印
      乙未年 戊子月 庚子日
         害
蔵干分野  印綬  傷官  傷官 死
        格式食神
暗殺日
大運 正財 乙酉     破   破 
1867年  沖
   正官 丁卯 三合乙 刑   刑
12月
   偏印 戊子 害
10日
   偏財 甲子 害
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「倒食=偏印→剋→食神格」だが、
「偏印←剋←正財(年天干)」である。
「大運の酉」→沖←「年運の卯」、
誕生月「戊子」と暗殺月「戊子」である。
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 ・・・どちらが「真実」か?・・・前の例「誕生月日と暗殺死亡日」は。どちらも
 「旧暦の11月15日」
 の誤りのようである。
 「四柱推命学」上ではどちらも「ヤバイ」けれど・・・
 「権力」を握ろうとする奴は敵も多い、恨みも被る・・・「理屈」も納得させるにはそうが「問屋は卸さない」・・・
 近頃では「市民社会」の一般人が「無差別殺人」に遭遇している・・・
 「命」を大切にしましょう・・・