749日目・・・明日、金曜日は「建国記念日」らしいのだが、「天武天皇」の「武」であるが、「日本書紀」の「天武天皇」に重なる「武」のつく人物、そして「武帝」、と言っても中国、朝鮮、日本には「武」がつく歴史的な「皇帝・王様」が結構存在する・・・

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北周王朝」の武帝
在位期間 560年 - 578年
姓・諱 宇文邕
字 爾羅突
諡号 武皇帝
廟号 高祖
生年 543年12月24日
没年 578年4月27日
父 宇文泰(第4子)
母 叱奴太后
皇后 阿史那皇后
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 この「北周」の「武帝」の皇后だが、「阿史那皇后(あしなこうごう・551年 - 582年)」と言って、その出自は北方の「突厥土耳古・トルコ族)」である。
 「突厥」を漢字分解すれば
 「突(トツ・つく)=穴(宀八)+一+人」
 「厥(ケツ・カチ・クツ・掘る・暴く)」
  =厂(ガンダレ)+屰(ゲキ・ギャク・逆らう・二又の矛)
  +
  欠(缼・ケツ・かく・あくび)」
 で、「丱(草冠)」がつく「蕨=ワラビ=和良比」の漢字に似ている。「蕨(わらび)・薇(ぜんまい)」のような「絵」は、九州の古墳壁画には「波」としても描かれている。「薇(ぜんまい・ビ)」の熟語は「薔薇(バラ)・紫薇(シビ)」である。「紫薇斗推命」は「中国の占星術・占い」である。機械時計のゼンマイは「発条」と書くが、「法律条文」を布告する時も「発条」であろう。
 一般的な「アシナ」の発音はギリシャの「アテネアテナイ」である。そして、「芦名・足名・あしな=蘆名」氏は日本戦国時代の「伊達政宗」に滅ぼされた東北会津の一族でもあった。
 「蘆名(あしな)」氏は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族らしく、相模国「蘆名(現在横須賀市芦名)」の地名に由来する。
 「芦名氏」、「葦名氏」、「三浦芦名家」と表記される事もあるらしい。
 「三浦」は「三浦按人(ウイリアム・アダムス)」の姓であった。
 「蘆名」の「蘆」の「丱(草冠)」を省いた漢字は「盧(飯櫃=めしびつ・炭櫃=すびつ・酒屋)」で、この漢字に「鳥」を加えたモノが「鸕(ロ・う)」で、「持統天皇」の「鸕野讃良」の「鸕」である・・・
 以下は例のごとく「ウイキッペデア」からの抜粋、概要である・・・「日本書紀」に重なっている部分はあるやなしや・・・
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北周」の「武帝」の皇后
「阿史那(あしな)皇后」
経歴
 突厥の「木汗可汗」の娘として生まれた。
 木汗可汗は柔然を滅ぼした後、ゴビ砂漠以北の土地の多くを支配下に置いた。西魏の宇文泰は東魏北斉と争うため、木汗可汗の援助を借りた。
 北周武帝が即位すると、北周突厥の間に数回の使者の往来があり、彼女が武帝の許に嫁ぐことが決められた。
 565年2月、北周の「陳国公」宇文純・「許国公」宇文貴・「神武公」竇毅・「南安公」楊荐ら120人が、彼女を迎えるため「木汗可」汗の牙帳に赴いた。
 時に「木汗可」汗は北斉に対しても娘の婚姻を約束していた。宇文純らは信義を説いて履行を求めたが、「木汗可」汗は履行しようとしなかった。
 たまたま「落雷」と大風が起こって、「木汗可」汗の穹廬を突風で吹き飛ばしたため、「木汗可」汗はこれを天の譴責であると考え、礼をもって彼女を送りだした。
 568年3月、彼女は長安に到着して、「武帝」に迎えられて婚儀を挙げ、皇后に立てられた。
 578年5月、宣帝が即位すると、皇太后に立てられた。
 579年2月、称号を天元太后と改められた。
 580年2月、天元上皇太后と改められた。5月、宣帝が死去すると、静帝により太皇太后に立てられた。
 582年4月23日、32歳で死去した。
 諡を「徳」といった(夫の諡を被せて武徳皇后と号される)。
 隋の「文帝」は礼をもって彼女を葬るよう命じ、4月29日に「孝陵」に合葬された。
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 上の記述には
神武公・竇毅」なる人物が存在したらしいのだが・・・明日は「建国記念日」である。そして、「神武天皇」である・・・「神武元年」である。
 まったく、オメデタイ・・・
 「王」の称号である「汗=氵(水)+干」であるならば、「壬」と「癸」の「干」であるが、「水を干す・水が涸れる」ところの「王様」となるかな・・・砂漠・砂漠地帯も含む・・・高原の王様・・・
 「高」は「古事記日本書紀」、そして「奈良・平安時代の日本史」で登場するのは、
      高木神=高御産巣日神→高結び(高むすび)
      高橋活日崇神天皇八年(大多多根子の神酒を捧げた)
      高橋→景行天皇孝元天皇の皇孫の大稲輿命の
         子供「磐鹿六雁命」が
         「蛤のナマス(鱠)」を奉じて
         「膳(かしわで)」の氏を賜る
         その
         膳臣の分流が「高橋」朝臣を拝命(天武天皇
         膳臣巴提便は百済派遣使(欽明天皇乙丑年)
         子供を殺した虎を退治
         膳部傾子、越國で高麗人を饗応(欽明天皇庚寅年)
         膳臣葉積→高麗派遣(斎明天皇辰年
      高表仁=唐の大使対馬に到着(舒明天皇辰年
      高向玄理=本名は漢人。遣隋使
      高田根麻呂=遣唐使船、薩摩沖で沈没(孝徳天皇癸丑年)
      高安城→築城(天智天皇丁卯年)
      高坂王→留守司(鐸鈴の管理者)
      高麗、唐、百済人など
         147人に爵位を授与(天武天皇乙酉年)
      高天原広野姫=持統天皇亥年←朱鳥元年・丙戌年翌年)
      高麗帰化人56人常陸国へ移住(持統天皇亥年
      高宮→行幸持統天皇辰年
      高市皇子→死亡(持統天皇丙申年)
      高市黒人
      高橋虫麻呂→伝説歌人
            真間処女・莵原処女・浦島伝説の作者
  日本根子高瑞浄足姫=元正天皇
      高野姫=孝謙称徳天皇
      高野新笠=天高知日之姫
          桓武天皇の実母。帰化系の和(和珥?)氏、
          高野乙継の娘
      高倉福信(高麗帰化人・祖父は背奈福徳、伯父は行文)
      高岳(おか)親王→羅越國で死亡。実母は伊勢継子
      高麗
      高句麗=こま=狛
      高野山弘法大師空海が「開山(カイザン)」

 に使用されている漢字である。江戸時代の蘭学者では天文学者の「高橋至時、景保」、医者の「高野長英」・・・「高」とは「高句麗・高麗」につながり、重なる漢字かも・・・
 どうも、「日本の古代史」は借り物の混合折衷で、読者に「何か」を伝えたいらしいのである・・・らしい・・・人臣の乱・・・
 1867年は「丁卯」年で、その11月「辛亥」、15日「己亥」には「坂本竜馬」が暗殺された。「土佐勤皇党」の党首は「武市瑞山(半平太)」であった。四国の「高知県」、土佐の地名に「日高」があり、「安芸」、「朝倉」があり、「宇佐」も「十市」もある。
 「日下(くさか)」の地名は、高知県高岡郡日高村・本郷・・・
 怪しい「ジャパン」であるな・・・