747日目・・・・・・河村市長・大村県知事→尾張・名古屋は・・・議員報酬削減、市、県民税の減税・・・人心の乱・・・「壬辰の乱の日・2月6日」・・・「壬申の乱」・・・

 ・・・「大海人皇子」の逃亡、叛乱、「小子部(ちいさこべ)・連(むらじ)・鉏鉤(さひち)」の加担、「不破の関」、「大津京」への侵攻→「壬申の乱」→「人心の乱」、「人身の乱」、「人臣の乱」→「水の兄(中大兄皇子)の去るのラン(乱=亂・藍・欄・嵐・浪・鸞・婪・魁・蘭・卵・覧)」であろうなッ・・・「名古屋・名護屋・那古屋・名児耶」である。
 「壬申の乱(672年)」、「古事記=コジキ=乞食」では「天神の拠点」は「尾張・終り・オワリ」で、「愛知」は「おわばみ・うわばり」、「伊都の尾羽張神」、「天の尾羽張の神」、「尾羽張」・・・「負は(ワ)ば理」である。
 「尾羽張」が派遣され、侵攻しようとした地は「豊葦原の千秋長五百秋の瑞穂国=葦原の中つ国」であった。だが、実際には「天若日(和解・和歌意・倭化意)の命」であった。
 「天照大神」と「高木(高御産巣日)の神」が「天若日子」を派遣し、その裏切りで暗殺。彼の友人の「阿遅志貴高日子根神」が容姿がそっくりで、「天若日子」の父親と妻に間違われて怒り、「天若日子の喪屋」を「美濃国=岐阜」の「藍見河の河上」に蹴っ飛ばした、のである。
 上述した「天若日子」のハナシは「古事記・神代」の記録である。

 以下は「古事記」の所在地の概要は、手っ取り早いので、「ウィッキペデア」からの抜粋です。
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 「大須文庫」は
 「元亨4年(1324年)に後醍醐天皇大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建」
 「元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺が当寺の始まりである」
 「その後、慶長17年(1612年)に徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転、明治25年大須の大火と第二次世界大戦の空襲による2度の焼失を被り、昭和45年(1970年)に再建し、現在に至る」
 「大須の地名はこの大須観音門前町が発祥の地である」
 文化財
 「真福寺文庫(大須文庫) - 大須観音にある文庫(図書館)。醍醐寺根来寺と共に日本三経蔵の1つ。あるいは仁和寺根来寺と共に本朝三文庫の1つと称される」
 「15,000冊もの古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本と言う」
 「国宝の『古事記』は「真福寺古事記」として知られ、同書の現存最古の写本である」
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 「阿遅志貴高日子根神」とは「阿=阿毎=阿倍」の「遅(おくれて・後・おくれた)」、「志(こころざす・こころざした)」、「貴(トウトイ・唐問)」の「高」の「日子=彦=諺(ことわざ)」の「根(コン・ね)」である。
 ちなみに「阿=ア」の同音異字の漢字には「(ア)」は日本語では「ふたまた=二又・二股・二俣」であり、「物の先が分かれて上に突き出たもの(草木の枝の類)」であり、「あげまき・つのがみ・総角」であり、「童子の髪結いの形」で、「Y頭(アトウ)」とは「あげ巻に髪を結んだ幼女、あるいは少女・腰元・小間使い」である。
 英語の「Y」は「ワイ」である。「ア」が「Y(ワイ)」とは「倭委・倭意・倭異・和謂・和葦」・・・「話異」で「ハナシが異なる」であるかな・・・もし、英語と日本語、漢字が重なっているならば、その始まりは「三浦按人(ウィリアム・アダムス)・1600年の関が原の時代」からであろう・・・彼の船は「豊後=大分」に遭難、漂着した。
 「ワイ」の同音異字漢字は「歪(ヱ・ゆがむ・まげる・ワイショウ=矮小)=歪=不+正」であり、「賄(たから・まかなう・金玉を貨、布類を賄・まいない・ワイロ=賄賂・収賄、贈賄」で「乱獄慈豊、賄賂並行」とは「左氏伝・照公六」にあるコトバであるらしい。「歪む」が「曲げる意」ならば、「よこしま=邪・横島・横嶋」である。「阿(ア・アク)」も日本語では「きし=岸・くま=隅=曲がった所」、「おか=阝=阜=丘=陸」と訓じられ、織田信長が名付けた「岐阜」の「阜=阝」であり、「阝」は「カギ型に曲がった丘の形」である。「鍵(かぎ)」とは英語の「キイ=KEY」である。
 「阿嬌(アキョウ)」とは「漢の武帝の陳皇后の結婚前の名前」であった・・・「武帝」の皇后が「陳(チン・ジン・連ねる・並べる・述べる・陳情)=阝+東→大陸の東」で、この「陳皇后」に夫「武帝」の「陳情」として、その「天武天皇大海人皇子→漢皇子(?)」が「武帝」のアナロジーならば、母親が「阿母=財媛(たからひめ)・皇極、斎明女帝(天豊財重日足姫・655・乙卯年1月3日即位)」で、「皇后の陳」とは「持統女帝(鸕野讃良)」である。「武」氏である「唐の則天武后=武照」が「高宗」の皇后「王淑」を殺して権力を握ったのが「654(甲寅)年」であった。
 「阿呆」とは日本語の「馬鹿・莫迦」であるが、「オランダ」は「和蘭・阿蘭陀」であった。「蘭学」とは西洋、西欧の一般的な「学問知識」である。
 ボクの云っていること、チンプンカンプン(珍聞・沈文・鎮文・寛文・漢文・巻分)で・・・「ワカラン」だろうな、言っていることが・・・江戸時代の「蘭学者の(意識)問題」だと思うんだけれど・・・
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友人のFさんから”今回の日記は、いつもより、より「ワカラン」です”とあったので・・・「ワカラン内容」の「釈明文」を以下に貼り付けました。
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 あはぁッ、・・・申し訳ない。「自己本位」な書き込みで・・・「日本書紀」には「壬申の乱(672年)」は、日本古代史で最大の争乱であったと記録されています。で、「日本書紀(720年)」そのものに記述されているこの乱に勝利した「天武天皇大海人皇子)」の「人物履歴」の内容は、ボク達が義務教育や高校で教わった「天皇」と言う「人物」とは随分とかけ離れ、謎に包まれた人物でなのです。
 1)年齢不詳
 2)父親不詳(母親は斎明天皇
 3)子供の人数、関係不詳
 4)「大化の改新(645・乙巳年)」時の所在地位不詳
 5)「天智天皇中大兄皇子)」との兄弟上下関係不詳
 6)「白村江(熊津江・白馬江)の
   戦い(663・戊辰年8月27、28日)」時の所在不詳
 7) 持統(鸕野讃良)天皇以下の配偶者関係の複雑さ
 8)「源・古事記(712・壬子年)」序文にある
   「古事記」編纂勅命の曖昧
 9)「天淳中原瀛真人尊」の「真人」は
   「八色の姓制定・684・甲申・天武13年」は
「臣下の姓」である
10) 唐の女帝「則天武后(俗にネズミ・鼠)と謂われた」配下の
   日本国への使者「郭務悰」とは何者か
11)「日本書紀」では「天武天皇」は「28巻」と「29巻」の
   「上下・二巻」に記録されている。
   「古事記」の序文には「和銅五年正月28日」が上奏日で、
   「稗田阿礼」の年齢が「28歳」であった
   占いの「宿曜経」の月が巡回する星座は「28宿」
   「牛宿」は「天界の主」で、占いでは「各27宿」で判断
   「旧暦の閏年」で月の「閏月」は「13ヶ月」
   現今の西暦の閏年(2月29日)は「子・辰・申」の年
   「子=鼠」は「則天武后」→天照大神
     ↓以下ウイッキペデアからの抜粋です。
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 「則天武后」→諱は武照という。武照は利州都督武士彠と楊夫人の間に次女として雨の降る日に生まれた。そして武照が生まれて間もない頃、「袁天鋼」という名道士が来て武照の相を占い、人相を見た「袁天鋼」は必ずや天に昇ると述べたという伝承がある。これを聞いた「武士彠」はその場にいた者たちにこのことを忘れさせたが、乳児としての武照の容姿が極めて美しかったこともあり、将来の皇后を期待した「武士彠」はその予言を実現すべく高度な教育を与え、幼名を媚娘と命名した。
     ↑↓以下はボクの書き込みの続き・・・
   「辰=龍」は「劉仁軌」→高木神(高御産巣日)
   「申=猿」は「郭務悰」→建御雷猿田彦・猿女
   「申=雷→かみなり(殷=イン)・電→電光→稲妻」
   「イン」は「寅・韻・音」
   「申」は「上海」の俗称
   「猿」は「エン=袁・媛→姫」
   「猿=エン→艶(豊+色)」→豊の女(委呂・帷鷺=とばりサギ)
   「艶(つや)=豊の色」→「媚娘=武照」
   「垂帷の政治←則天武后→幼名は媚娘」
   「えん・獲る=彠(カク)→則天武后の父名(木材商人)」
   「獲→武士彠」
         ↓
   「彠=カク=郭→郭務悰」
   「彠=尋+蒦」→尋ねる+蒦(スイ・カン)」
   「蒦」
      ↓
    丱・廾(草冠)+隻
    隻(セキ・シャク・対の片割)
     ↓       隻眼=片目
    隹(旧鳥・短尾の鳥
・雉鳩=きじはと
     =雉把兎・木地鳩
     =記事話兎・生地鳩)
     +
    又(右手) 
   「申」は「シン=真→真人→天武天皇
   「申韓」とは「法家」の「申不害」と「韓非子
   「申不害」→害わず申す
   「韓非子」→「韓の子で非ず」  
12)「源・日本書紀」の制作目的はダレのタメへの「歴史書」だったのか
   「勝利者(唐の則天武后・劉仁軌将軍)」への献上、アッピール?

 など等の「疑問」がボクの「脳ミソ」のベースです。
 現在ボク達が目にして読むコトができる「現・古事記」も「現・日本書紀」のいずれも、時間的に「写本」されてきたモノです。
 それで、「チンプンカンプン」で「ワカラン」のは誠に申し訳ないのですが、ボクの文章の「ワカラン」なさは、ボクの「立場」が「独善的な妄想」を前提に書き込みしてしまっているからです。すいません。
 で、「古事記日本書紀」の「写本」にさいして、「誤字」や「改竄」があったのではないか、との「ボクの妄想」が原点で、「現・古事記」が名古屋の大須観音の「おおす文庫」に江戸時代から蔵書されてきたコト。
 以上が、今回の「愛知県、名古屋市」の「庶民革命(?)」と「事件的」に重なっているナァ〜と思った次第からでした。
 「古事記」が「名古屋・尾張藩」の「おおす文庫」に所蔵されてから大勢の江戸時代の「蘭学者」が閲覧しました。有名なのは「本居宣長」ですが、それ以前には「蘭学の祖」と言われている「新井白石」も読んで研究していました。第二次世界大戦前は国策によって「古事記の研究」はタブーでした。
 「尾張・名古屋」と言う場所は、歴史的に「日本の政変」の最重要な場所でした。しかも、「ナゴヤ名護屋・名児耶・名古屋・那古屋・名子椰・名越」の地名は「名を護る埜(木+木+十+一)」で、「記、紀を拾う壱」かも・・・コジ(故事・虎子・固持・誇示・固辞・居士)付け・・・です。
 今回の「河村・大村」両氏の「市政・県政」も未来的には「重要な事件」であると思っています。「古代天皇」で「減税」をしたのは第16代「仁徳天皇(大鷦鷯・大雀・おほさざき)」です。即位年月日は西暦で「313年1月3日」、干支年は「癸酉」となっている。この年はローマ皇帝コンスタンチンがキリスト教を公認した年であり、この前年の312年は中国では晋王朝懐帝永嘉6年で「郭象」が死亡した年らしく、干支年号は「壬申」であった。
 しかも、「偶然」にも今回の愛知県名古屋市の選挙日が2011年2月6日で、
 2011年「辛卯(ボウ・う=鸕・鵜・宇・兎)」年
   02月「庚寅(イン・とら=虎)」月
   06日「壬辰(シン・たつ=龍・竜)」日
 ・・・の重なりでした。
 「壬辰=ジンシン=壬申」の同音異字の重なりの日で、「子-辰-申」は「三合水局」で、「子(壬・癸)=帝旺」の子分が「辰・申」ですが、天干が「壬」で、「辰、申」の「蔵干支壬癸」に「透干」です。
 「鳴滝塾=鳴瀧塾」とは日本蘭(ラン)学者養成の祖とも言われている、プロシャ人「シーボルト」先生が長崎に開校した学校でした。
 「鳴滝(キュウロウ・キュウロン)塾」・・・
 「瀧=滝=ロウ・ル・ソウ・サウ・ロウ・ラウ=たき」で、意味は中国語で「アメのフリシキルさま・瀧岡は江西省・永豊県の鳳凰山」で、日本語では「たき・水の高いところから落ちるモノ・瀑布(バクフ)」です。
 名古屋・尾張藩は御三家でしたが、歴代藩主は将軍家とはなれず、幕末まで江戸「幕府」の「仇敵」で、明治維新の「戊辰戦争」では「薩長官軍・宮廷」に加担し、東海道雄藩は尾張藩に先導されて事なきを得たのです。
 尾張藩の最期の藩主は「写真家」でした・・・。
 時間があってヒマであるなら「ボクの家頁orプラトン古事記をカタル」にご訪問ください・・・
 追伸・・・
 先の「妄想」の「家頁」は以下のページです・・・「現・古事記・字源のカンジ」の勉強を「アソビ」として書き込んだモノです。
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/index-3.html