744日目・・・シュークリーム、ありがとう!!・・・それで思い出したんだけれど・・・紅い高粱・・・「紅い棗」って言うタイトルでの「映画」はどうだろうか・・・なッ?・・・語呂がワルイな・・・「なつめ・ソウ・サウ」・・・「朿=棘(とげ・シ・キョク・コキ」・・・「紅いトゲトゲ」・・・

 
 上に貼り付けた「中国映画」の映像は素晴らしいけれど、「帝国日本軍の侵略と虐殺」が絡んでくるんだよね。村人たちに対する「侵略日本軍」の銃撃、銃殺は「日本帝国・国家」と言う命令による「組織化された任務」だった・・・これを過去の「日本への蒙古襲来」とか、太平洋戦争の「アメリカ軍侵攻(進行?)沖縄戦」とか、ソ連軍の満州「侵攻」と重ねてみれば「戦争の本質」が見えてくるハズなんだけれど・・・映画「紅いコウリャン(高粱)」の「物語」に描かれて登場する村人たちは「国家意識」などとは無縁で希薄な、彼らの日常性の生活の中での「事件・出来事」なのである。むかし「日本の日常性」にもあったような「物語的」状況である。不安な娘の嫁入り道中、嫁入り神輿を担ぐ男たち、そして高粱畑での強姦、嫁入り先の酒屋の主の殺人、そして、その女房と酒屋の乗っ取り、乗っ取った男の高粱酒醸造の成功・・・映像美、カメラワークは美しいが、どこにでも、ありそうなハナシの「村落の居住民の出来事、事件」である・・・そして、突然、現れた「日本軍」の説明もなく、その結末として村人たちが淡々と虐殺され、反撃し、シカバネのサマが美しい背景映像で描かれている・・・
 ここに登場する「侵略日本軍」は「匪賊」にでも、「馬賊」にでも、「中国軍」の「共産八路軍」にでも、「蒋介石の国民軍」にでも置き換えてみることが出来る。
 ダレに襲われても、村落の人々は「国家」を「意識」することなく、生活協同体をまもって来たハズである。そして、「村落」は、ダレかの侵入と暴力、略奪と虐殺の繰り返しを被ってきたのである。
 しかも村落共同体全体の「命の延命(?)」を考えたのかどうかは知らんけれど、結果的に侵略者に「懐柔され(?)」、「自分の家族や友人同胞」を裏切らざるを得なかった人々も・・・「固体(自己)の命の大切さ」か、「全体の命の大切さ」かの選択・・・本当のところは、表面的、皮相的には闇の底の底・・・
 その「歴史性」はある時には突発的に、ある時は時間をおいて緩慢に、延々と続いてきた。

 ・・・そして、物語の主人公が他の村落へ暴力的な侵略者としてたち現れる・・・カモ、なのである・・・かな・・・