619日目・・・キノウの夕方午後6時のNHKの「ハーバード大学・白熱教室」でサンデル教授の講義講演「アリストテレスの正義・目的論」をみたケレド・・・アリストテレスは「13歳」のアレクサンダー大王の家庭教師でもあった、なッ・・・蛙理素頭照例数(ありすとてれす)・・・以下、例のごとくウィッキペデイ百科事典と他人のブログからの孫引き抜粋とボクのイチャモン・・・

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 アリストテレス
 「善」の意味―徳の倫理(virtue ethics)
 「最高の善は幸福(eudaimonia)であり、
  良く生き
  良く行為することが
  幸福と同じ意味である、
  ということに関しては、
  ほとんどの人の意見が一致している。」(『ニコマコス倫理学』(第一巻)
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 幸福=欲いき・欲行為?
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 「幸福とは、徳(=卓越性)に従う活動(energeia kat' areten)である。」(同上第十巻)
 「徳はある種の中間(mesotes)である。」(同上第二巻)
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 「中間」って「中庸」・・・それとも「バランス(調和)」?
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 大事なことは、繰り返し実行すること、つまり訓練と習慣である。人間を動かす衝動(=欲望)は、そうした実践知(プロネーシス)に導かれて、真の徳になる。
 肉体においても精神においても、本来あるべき自己の本質を実現すること。それが人間が目指すべき徳(=優秀性)であり、そうした自己実現の活動の中に幸福(=良く生きること)がある、とアリストテレスは言う。
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 「徳」って「優秀性」のコトらしいけれど、じゃぁ「優秀性」ってナンだろう?・・・比較レベル、ランクの一番って言うことなのかな?・・・何々の名人の技(技術)や能力(技能)が「優秀=徳?」ってことかナッ。
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 アリストテレスの「善の尺度」とは。
 存在者はすべて己に固有のピュシス(自然、本性、実体)を持っている。
 このピュシスに従って活動するとき、存在者はよい。
 では、人間の自然とは何か。
 それは
 「ロゴスをもつ動物」
 ないしは
 「共同体的動物」という定義によって示されている。
 だから、人間的なよさは、まず動物的な存在相(諸々の欲望、肉体的健康、生存維持のための財貨の取得)において充実していることである。
 しかし、人間の本性は勝れて
 ロゴス(知る能力、交わる能力)
 にあるのだから、人間は、隣人と交わり、互いにその存在を肯定(愛)しあって、共同体のつながりの中に自己の存在根拠を据えるとき、真の充足を得、真によき者となるのである。」
 (岩田靖夫『西洋哲学史の基礎知識』)

 「何か他のものの手段であるような行為」は、不完全なものであり、真の行為は、
 「それ自身のうちにその目的(テロス=終り)を含んでいる運動(=活動)」(形而上学)である。
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 やっと「目的(テロス=終り)」がでてきたけれど・・・「目的論」の「目的の前提」が
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 「善く生きること」や「幸福に生きること」は、その過程が同時に目的であるような活動である。「現実態(エネルゲイア)」
 「優れた性格とは、エウダイモンな人生、すなわち最も生きるに値する人生を生きる人間の所有するものである」
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 結果論的な論述みたいだけれど・・・「優れた性格」の基準はナンだろう?
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 付録
1)「優れた性格」について

(1) 優れた性格。正しい行いをしようと思い、かつそれを何ら心の葛藤なしに行えるような人の状態。
(2) 意志の強さ。不正への誘惑を感じるが、それに打ち勝って正しい行いをする人の状態。
(3) 意志の弱さ。不正への誘惑を感じそれに打ち勝とうとするが、成功せず不正をなしてしまう人の状態。
(4) 悪い性格。自ら進んで不正を行い、それに対して何の抵抗も感じない人の状態。
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 フゥ〜ン、ッ・・・であるらしい。

 自然科学
 アリストテレスによる自然科学に関する論述は天文学、気象学、動物学、植物学など多岐にわたる。
 プラトンイデアこそが真の実在(実在形相説)であるとしたが、アリストテレスは感覚で捉えることができ、形相が質料と不可分に結びついた個物が基本的な実在(個物形相説)であるとした。
 さまざまな物体の特性を決定づけているのは
 「温」と「冷」、
 「乾」と「湿」
 の対立する性質の組み合わせであり、
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 漢方にも「傷寒論(張仲景)」ってあったけれど・・・
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これらの基礎には
 火・空気・水・土の四大元素
 を想定している。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実、感覚に根ざしたものとなっている。
 アリストテレス宇宙論は、同心円状の階層構造として論じられている。
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 「火・空気・水・土の四大元素」・・・「元素論の思想」としては「中国の五行思想」の方が抽象的で「弁証法」的である。
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 世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星などが、それぞれ各層を構成している。
 これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である
 第5元素「アイテール(エーテル)」
 からなる。そして、「アイテール」からなる故に、これらの天体は天球上を永遠に円運動をしているとした。
 さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。
 イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者トマス・アクィナスら中世のキリスト教神学者は、この「第一動者」こそが「神」であるとした。

 生物はすべて、
 プシューケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)
 をもち、これによって無生物と区別されるとした。このときの、プシューケーは、生物の形相であり(『ペリ・プシューケース』第2巻第1章)、
 栄養摂取能力、
 感覚能力、
 運動能力、
 思考能力
 によって規定される(『ペリ・プシューケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつものを動物、もたないものを植物と2分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物を示唆している)。

さらに、人間は
 理性(作用する理性(ヌース・ポイエーティコン)、
 受動理性(ヌース・パテーティコン))
 をもつことで他の動物とは区別される、としている。

原因
 アリストテレスは、師のプラトンイデア論を引き継ぎながらも、イデアが個物から離れて実在すると考えたことを批判し、師のイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえた。
 アリストテレスは、世界に生起する現象には「質料因」と「形相因」があるとして、これを分け、後者をさらに
 「動力因(作用因)」、
 「形相因」、
 「目的因」
 の3つに分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』Α巻『自然学』第2巻第3章等)。

 物事が何でできているかが「質料 (hyle) 因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相 (eidos) 因」、運動や変化を引き起こす始源 (arche) は「動力 (kneseos) 因」、そしてそれが目指している
 終局 (telos) が「目的 (hou heneka) 因」
 である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが可能態であり、それとすでに生成した現実態とを区別した。
 すべてのものが可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは「神」(不動の動者)と呼ばれる。

範疇論
 アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。
 すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。
 ここでいう「実体」は普遍者であって種や類をあらわし述語としても用いられる(第二実体)。
 これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。

倫理学
 フランチェスコ・アイエツ画アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、
 それ自身が目的である「最高善」
 があるとした。人間にとって最高善とは
 幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。
 幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。
 また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。
 中庸にあたるのは、
 恐怖と平然に関しては勇敢、
 快楽と苦痛に関しては節制、
 財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、
 名誉に関しては矜持、
 怒りに関しては温和、
 交際に関しては親愛と真実と機知。
 ただし羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。
 また各々にふさわしい分け前を与える
 配分的正義(幾何学的比例)と、
 損なわれた均衡を回復するための
 裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、
 これに加えて
 〈等価〉交換的正義とを区別した。

 アリストテレス倫理学はダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を引いており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なおニコマコスとはアリストテレスの父の名前であり、子の名前でもある。

政治学
 アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学倫理学の延長線上に考えた。
 彼は「人間は政治的動物である」と定義する。
 自足して共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。
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 「自足して共同の必要のないものは神」
 「共同できないものは野獣」
 「神」はいてもいなくても・・・「同種の野獣」は、場合によっては「異種間」でも「共生・共棲」で生きているんじゃん・・・
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 これらとは異なって人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は
 王制、
 貴族制、
 ポリティア、
 その逸脱としての
 僭主制、
 寡頭制、
 民主制
 に区分される。
 王制は父と息子、
 貴族制は夫と妻、
 ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつといわれる(ニコマコス倫理学)。
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 アリストテレスの時代と彼の「政治思想」、これって全部「奴隷制」を基盤にしている「国家の制度」ではあるなッ。
 「奴隷」はどっから生まれてくるんだろう・・・戦争で負けた「共同体の人々」・・・戦争奴隷は敵に捕虜になった人間である。「種族間戦争」、「国家間戦争」の勝敗の結果の「奴隷」・・・じゃぁ「戦争」はどうして起きてしまうんだろう・・・「利害関係」の「敵対者」が存在する、カラ・・・か?
 「奴隷」は戦争の結果でなくても存在したし、存在するョなッ。人が「商品」として売買された「奴隷貿易」は「戦争の結果」ではない。人間の売買は「売られる人間」、そして「売った人間」と「買った人間」が存在する。問答無用で拉致、誘拐されたか、騙されたか、あるいは借金返済が不可能になった時の肩代わりとして「身売り」する。
 「身売り」は本人自身の時もあるし、家族、親族に売られることもある。時代的には親兄弟、家族、親族の中で「売られる存在」として存在する「ヒト」がいる。そして家族、親族には「売る権利」を有している「ヒト」がいたし、今現在もいるカモ・・・最近の中国にも「拉致、誘拐」された子供達が闇で「売買」されているニュースがあった。「誘拐」だけではなく「身売り」もされているカモ・・・「法治国家(?)」の日本でも時たま「人身売買」が発覚するし、似たような事件も起こっている。
 今もムカシも「奴隷」が「商品人間」として扱われ、売買される「要因」は「経済的な生活事情・状況」である。
 「経済的事情」とは「食えるか、食えないか」の「食えなくなった時」の「事情」である。あるいは家族、親族の「経済的生活事情」の犠牲となる場合である。
 「自由」になった「奴隷」はどうなるのだろう・・・生きるタメの方策、方法の「自由な選択」が「自ら決定」できる。そして再度、「奴隷」となる選択も自由である。モチロン、「奴隷」を「売買」する「自由」も・・・「自由な選択肢」はいくらでも「望める」。希望、志望、願望だから・・・だが現実的な実現は「絶望」というコトバも待ち構えているかも。
 どちらの「選択」も先ずは「経済的生活能力」による「食うこと」のできる実存維持の余裕次第であろう。
 選択肢は「自由に選べる」。選ぶことの意志は自由であるが・・・「労働力商品」って・・・「商品」だから「商品市場の供給と需要」の「均衡」がなければ成り立たないんだけれど・・・ 
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 アリストテレス自身はひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、時代はすでにアレクサンドロス大王が登場しポリスを超えた世界国家の形成へと向っていた。
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 アリストテレス→13歳のアレクサンドロス大王・・・「ギリシャ奴隷制」が世界市場となったのかも・・・あるいは「ペルシャ奴隷制」が帝国世界に重なっていったのかも・・・

 まぁヒマでも、兎に角、「奴隷」ではないらしいボクは、歴史的に記録されてきた「13の数字」に拘りたいんだけれど・・・。