523日目・・・以下、勝手に抜粋・・・

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 疑似科学やオカルト…
 なぜ、だまされるのか?

 産経新聞:11月21日8時1分配信

 欲得ずく」「思い込み」が落とし穴

 霊視や前世占い、占星術といった「スピリチュアル(精神的な、霊的な)世界」がブームだ。それらを扱うテレビ番組は軒並み高視聴率を獲得し、ベストセラーになる出版物も多い。だが、中には疑似科学やオカルト現象を妄信し、だまされて被害にあう人もいる。科学の視点で批判してきた立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは「『思い込み』と『欲得ずく』が錯誤への落とし穴」と注意を呼びかける。(伐栗恵子)

 今月中旬に大阪市内で行われた関西消費者協会の講演会。安斎さんは趣味の手品を生かしながら、超能力やオカルト現象のトリックを暴いていく。

 例えば、スプーン曲げ。丈夫な金属のスプーンを指で軽くさすっているうちに、ぐにゃりと曲がり、客席からは驚きの声が上がる。だが、これは支点、力点、作用点をうまく利用しただけ。要領さえつかめば簡単に曲がるという。

 「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」と安斎さん。「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

 「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

 不幸に陥ると、その原因を霊に求める人がいる。問題の根本的な解決にはならなくても、「悪霊(あくりょう)のたたり」などのせいにした方が心の平安を得られやすいからだ、と安斎さん。「霊は、人の不幸の消しゴム係」と絶妙の表現をする。

 もし霊が目に見えるのならば、霊そのものが光を発しているか反射しているはず。「たたる」には記憶や認識といった高度な仕組みを持った有機体でなければならない。霊を信じるかどうかは個人の自由だが、「科学的な意味では存在し得ない」と断言する。

 科学技術が進歩したこの時代に、人はなぜ、「スピリチュアル」にはまるのか。安斎さんは、それこそ、「なぜ」と問う力が弱まっているからだと嘆く。

 例えば、携帯電話やDVDの仕組みは、説明されても理解するのが難しい。科学が進歩したがゆえに、人は自分の理解の範疇(はんちゅう)を超えたものをそのまま受け入れてしまいがちで、それが超能力などを簡単に信じる傾向となって表れていると説明する。

 「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

 さらに、“インチキ”を見破るには、「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えてみることが大切だと言う。

 スプーン曲げができるのならば、どうして金属加工技術として役立てないのか。そんな能力をもった人を生産ラインにずらりと並べれば、次々と金属加工が施され、たちまち製品が出来上がる。簡単に大もうけができる話なら、その勧誘員自体が大金を手にしているはずであり、そもそもそんなおいしい話を他人に教えるのか。「3週間で英語がペラペラになる教材」といった宣伝文句が本当なら、なぜ、その販売員はペラペラではないのか…。そう考える心のゆとりが必要だ。

 楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく、と安斎さんは警告する。
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 ・・・「信じる立場」が問題だョね・・・
 「スプーン曲げ」・・・「支点、力点、作用点をうまく利用しただけ」・・・では、その「要領」を「科学的に、物理学、化学的に説明」出来ているのか?・・・それを先ずは「合理的に説明」せよ!、でアル。
 ・・・「信じる立場」・・・
 ・・・どのような「形=感知・認識・思弁・思考・判断」での「信じる立場」になったのか、が問題だョね・・・

 追記・・・「非合理的思考」と言っても、「妄想」や「狂気」と言った「主観的な脳内感知現象」だけではなく、また「集団催眠状態」と言い切れない、複数の人間が同時に「客観的」に感知し、認識する「不思議な現象」には「合理的法則性」がアルはず・・・ただ、「感知・認識・理論」として説明されてはいないだけのモノが多いのも事実。
 存在の「事実的事象」は時代的に「確認」されてきたが、その事象がナゼなんだろう、と言う人間認識思考の「疑問」の立場が、その「事象の合理的説明」を暫時克ち得てきたモノのだ。
 あらゆる「生物の存在と機能」が「遺伝子染色体のゲノムプログラム」の諸関係性で「生物」として生活、生命活動、機能として存在している。
 人間が「生きているコト」自体がアタリマエ、「死滅するコト」自体も当たり前であると思って、その生存期間を「不思議でアル」と考えるにいたるまでには時間を要するに違いない。
 光線以外の電波や電磁波は直接的に視えないが文明の器機である電気、電波機器(ラジオ・TV・携帯電話・通信機)によってその「存在」の確認はできる。その機能も理解している。だが、その合理的な理屈は「完璧」ではない。
 人間の脳機能もその特殊性が脳波として解明され、脳と各神経系の情報伝達でさえ「電気パルス」で繋がっている。しかも「万能細胞機能解明」の時代である。人間の「五感感覚機能」ですら「不思議」である。
 確かに個々人の「体験・経験」だけでは「客観的合理性」を断言、断定するのも問題である。その「是非を証明」するのも不可能である。日本では事実としての「事象・現象」の「因果関係」を追求するコトなく、「迷信・非科学的」と当時の「学者」によって排除されてきたモノもは多い。それらの「現象・事象」の因果関係を説明する「理論・概念・言葉」が無かったのだ。
 一般的には「人間」は渡り鳥や、渡り蝶々のように地球の磁力を感知して空を飛べない。お魚のようにエラで海や河川、湖水に長時間潜っては泳げない。電気鰻や電気鯰のような発電器を有して獲物を捕食していない。発光するクラゲやホタルのような機能を有していない。ゾウさんやイルカのように低周波や超音波でコミュニケーションをとれない。蝙蝠のように超音波を発して視覚に代わるモノとして生活していない。ヘビのように赤外線を発して視覚してはいない。ハチのようにコミュニケーションをとって生活はしていない。イヌのような臭覚もない。
 だが、現在の人間は肉体機能として使用していないが「機械・道具」として生活に生かしている。
 それだけではない。「特殊な才能人間」も「存在するコト」は認めている。だがナゼ「一般人」になるべき存在から「特殊な人間」になってしまったのかを説明し切れていない。
 この説明は多分、「特殊個別な人間」の「共通項」が「一般人」だからである。
 そして「特殊・個別」は「普通・一般」に含まれる「コトバ」である。「生物学的」にあらゆる生物は「一般的な命と言う遺伝情報」を有し、自然環境との諸関係で、それを時間的なプロセスで「複雑化に特殊化」してきた。
 「特殊な人間」が存在し、「特殊な現象、事象」が起こっても「不思議なコト」ではない。
 「慾得」、「ダマシ」とはまた別の次元のハナシである・・・