486日目・・・「七夕・棚機・棚端・タナバタ・きっこうでん・キッコウデン・乞巧奠」・・・「乞(おねがい)・巧(たくみ)・奠(まつる・供える・決定・安置)」・・・「乞食(古事記)・技巧(匠・工・技術・芸術)・奠都(奠枕・奠菜)」・・・ボクが研究、追求して来た「七夕」の「七=7=漆=ⅤⅡ」の類字・・・「七(シチ・ななつ)=ヒ(ひ)=匕(めす・ヒン・牝・かわる)=ヒ(シ・ジ・さじ・匙・スプーン・かぎ)=匕首」、「7」の類字「ク・ワ」、「ク・ワ」の逆字「ム」・・・と「タ(セキ・ゆう)=タ(た)」・・・「クワ=桑

 暇で、興味のある人は以下の「家頁」に渡来して、「琴姫七変化」や「月光仮面」でもさがして・・・七夕・・

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 七夕の「謎」は以下の「ウイッキペデア参照抜粋改作」・・・

 七夕(しちせき・シチユウ・たなばた・ナナユウ)
 節供、節日の一つ。
 旧暦の7月7日の夜のこと。
 五節句の一つ。
 中国での行事であった。
 奈良時代に伝った。

 中国の節句の一つ。太陰太陽暦の7月7日 (旧暦)、中国暦において七月は秋の最初の月「孟秋」。七日は上弦の月の日。七七・77が重なるので「双七」とも。
 二十四節気立秋前後の時期である。
 「催涙雨(さいるいう)」、「洒涙雨(さいるいう)」は七月七日に降る雨。雨で会えない織姫(婁宿)と彦星(牛宿)が流す涙。

 日本の「お盆」に中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)」などが習合した。盆行事の一部が独立した行事として、行われるようになった。
 「笹」は精霊(祖先の霊)が宿る「依代」が起源。

 七夕行事の最も古い文献は後漢時代の
 「崔寔」が書いた
 「四民月令」で、書物を
 「虫干し」にしたと記録。

 織女と牽牛の伝説は
 「文選」の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が初出。
 南北朝時代
 「荊楚歳時記」には七月七日、
 牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、
 夜に婦人たちが
 七本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、
 捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った
 七月七日に行われた「乞巧奠」と「織女・牽牛伝説」が関連づけられた。
 六朝・梁代の「殷芸(いんうん)」の「小説」に、
 「天の河の東に織女有り、
  天帝の子なり。
  年々に機を動かす労役につき、
  雲錦の天衣を織り、
  容貌を整える暇なし。
  天帝その独居を憐れみて、
  河西の
  牽牛郎に嫁すことを許す。
  嫁してのち機織りを廃すれば、
  天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、
  一年一度会うことを許す」
  「天河之東有織女
   天帝之女也
   年年机杼勞役
   織成云錦天衣
   天帝怜其獨處
   許嫁河西牽牛郎
   嫁後遂廢織紉
   天帝怒
   責令歸河東
   許一年一度相會」
  (「月令廣義」七月令にある逸文

 日本語「たなばた」の語源は
 「古事記」で「アメノワカヒコ」が死に「アヂスキタカヒコネ」が来た折に詠まれた歌にある
 「淤登多那婆多(おとたなばた)」(弟棚機)
  又は
 「日本書紀」の「葦原中国平定の一書第一」にある
 「乙登多奈婆多(おとたなばた)」

 「萬葉集」、卷十・春雜歌2080
 「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」
   ↑↓
  たなばたの
  今夜あひなば
  つねのごと
  明日をへだてて
  年は長けむ

 宮中行事であったが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代に手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。


 織女星牽牛星の伝説
 こと(琴)座の1等星ベガ、
 中国・日本の七夕伝説では
 織姫星織女星)。
 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。
 夏彦星(彦星、牽牛星)は、
 わし座のアルタイル。
 夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。
 めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、
 織姫は機を織らなくなり、
 夏彦は牛を追わなくなった。
 このため天帝は怒り、
 2人を天の川を隔てて引き離したが、
 年に1度、7月7日だけ会うことを許されていた。
 しかし7月7日に雨が降ると
 天の川の水かさが増し、
 織姫は渡ることができず
 牽牛も彼女に会うことができない。
 その時は、二人を哀れんでどこからか無数のカササギがやってきて、天の川に自分の体で橋を架けてくれる。
 星の逢引であることから、七夕には星あい (星合い、星合) という別名がある。また、この日に降る雨は「催涙雨」とも呼ばれる。

 京劇の「天河配」
 牛飼いの牛郎(牽牛)が
 水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、
 織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれる
 羽衣伝説、白鳥処女説話となっている。

 星空
 織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出。
 前漢の「史記・天官書」では
 「牽牛」は「牛宿」のことであり、
 現在の「牽牛」すなわち「アルタイル」は
 河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星。
 七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

 中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、必ず上弦の月で、これを船に見立てた。
 そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。

 風習

 『市中繁栄七夕祭』(名所江戸百景の一つ。歌川広重):江戸後期殆どの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

 全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。
 短冊などを笹に飾る風習は、江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。
 「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、
 「五行説」にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。
 中国では五色の短冊ではなく、
 「五色の糸」をつるす。
 さらに、上記「乞巧奠」は技芸の上達を祈る祭であるために、
 短冊に書いて
 ご利益のある願い事は
 「芸事」であるとされる。

 「イモの葉の露で墨をする」と習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。
 俊成の女の歌に
 「たなばたのと
  わたるふねの梶の葉に
  いくあきかきつ
  露のたまづさ」
 とある。