477日目・・・「妄想現象学」の著作権はボクにあるのだが、「狂想現象学」とか、「狂気現象学」とかの「現象学」は「精神の中」でだけの「現象」でとどめてもらいたい・・・のだが。「狂想・競争・競走・競漕・協奏・強壮・狂騒←キョウソウ」も「狂気・狂喜・驚喜・共起・強記・侠気・狭軌・教規・兇器・凶器←キョウキ」もすべては人間の「脳細胞」に認識記憶されるが、それらの「脳細胞に記憶」されたモノは脳細胞での「精神現象・精神活動・思惟活動」の「手段・道具・テコ」となって、現実行動としての「判断」→「行為」としての「意味」

naie2008-06-23

 昨夕のNHK番組「ダーウィンがきた」の飛べない鳥である「ツカツクリ」・・・人間の「家族生活・社会生活」から観たらスゴク奇妙にみえる。オス鳥が樹木の空間に落ち葉、木の葉を二本の足でセッセと集めてかなり大きな「塚(縦1m:横2m)」を一所懸命に造る。そこにメス鳥がきて塚にもぐり、鼻先(クチバシ?)で「塚内部の温度」を検知するのだ。「塚内部の温度」が「33度」くらいでないとメス鳥はオス鳥に「交尾(セックス)」をさせないでオスから去っていく。「33度」が「タマゴ」がヒナになる「適温」であるらしい。「適温」であることを「検知」したメスははじめてオスにセックスを許すのだが、その「交尾」は数秒である。人間以外の殆どの動物のオスは「早漏」である。人間の祖先のオトコも早漏だったと思うが、ボクの眼からはセックスの快楽も、楽しんでいる様子もみえない。天敵が多い自然界ではノンビリとセックスをしている時間がないのだろう。もちろん、「性交の相互の歓喜」などもないだろう。ひたすらセックス行為は本来的な「子孫・種」を遺すだけの営みらしい。
 「セックス(生殖)」に常時発情し、快楽としての属性(?)を獲得しているらしい人間は「快楽」、「官能美」の無いところでは「絶滅」していたのに違いない。「種の起源」以後的な人間種の「常時発情快楽」の「進化(?)」が無ければ人間種はこの地球には跋扈することが出来なかったカモ(?)・・・
 鳥類である「ツカツクリ」・・・その後、メスはその「塚の内部」にタマゴ(多分、受精卵)を産み落として、その塚から去っていく。タマゴを抱いて孵化させるようなコトはない。「母親の愛情」などからは無縁な存在のように思える。
 郭公のメスも「托卵(タクラン)」等と言ってウグイスの巣に自分の卵を産んで、後は知らん顔である。
 ツカツクリのオスと交尾するメスは一羽だけではないらしく、オスの造った塚の温度が「33度」であれば数羽のメスが交互に巡回交尾に立ち寄り、そしてその塚の中に、これも巡回しながら何個もタマゴを産んでいく。メスが訪ねてくれるのは立派な「家屋」を有したオスであるのは人間とたいした変わりがない。
 人間社会では「一対の夫婦」、「一夫多妻」、「一妻多夫」、男女相互の浮気、あるいは乱交、なんでもアリだが、自然の雌雄の動物界で「同性結婚(同性生殖)」は聞いた事がない。「雌雄同体」とか、ある時期に「雌雄変態」のメスがオス、オスがメスになるとか、「単為生殖」とかはあるみたいだけれど、「同性結婚」は「自然のあり方」としては不自然だが、「社会的人間の場」では「私有財産」の「相続遺産」問題として「法的」に「同性結婚」は必要になって来たモノらしい。「オトコ同士」、「オンナ同士」、「兄弟姉妹同士」、「親子同士」の「法的な結婚(?)」は唯一人間の「社会的規範・法」の問題である。自然界の「種の保存・性交・生殖」からは無縁である。
 「ツカツクリ」のオスの役目は塚の周りでその「塚の中のタマゴ」を孵化するまで守りぬくコトである・・・お父さんってエライ・・・そして「孵化したヒナ」は、オス親鳥にもメス親鳥にも眼をあわすことなく素早く「塚の内部」から這い出してトットと去っていく。その時点からヒナは独立独歩で生きていくコトになる。それで生きて行けるなら結構だが、「人間」には無理だろう。
 親のアリガタさは自分が「親」になった時に初めてワカるモノだ。
 人間の子どもが、両親、家族から「社会の中」で独り立ちするのにどれだけの時間がかかるんだか・・・両親、あるいは片親、あるいはジジババ、一族郎党の養育する苦労は並大抵ではない。不幸にもステ児にされたり、様々な事情による孤児になったとしても、一応は「社会」が「国家(現状日本国家)」がその「人間としての養育」をスルに違いない(?)・・・「遺伝子次元の問題」は・・・ゾッとするが、生まれてきたモノには寿命まで生きる「権利」がある。育てていく「義務」がある・・・
 ・・・「オオカミ少年・オオカミ少女」・・・人間に捨てられたのか、オオカミにさらわれたのか・・・人間に捨てられたのに違いないとは思うけれど・・・それでも「オオカミ」は育ててくれた。
 「親の心、子知らず」とは心理で、真理だが、「心裏」とか「審理」とかの同音異字漢字もある。
 「アキハバラの結果」は「両親の所為」ではない・・・「両親兄弟」も含め、当人の「共同体の妄想、幻想」が「支配階級と同レベル」であった、と言うことだ。「特殊な利害」をまるっと別個な形で実行しただけのコトである・・・手遅れだが、雇って貰えるならば、フランス国家の外人部隊の傭兵がにでもなれ・・・
 問題なのは「家族生活の共有財産」が、「社会生活の私有財産」の枠内にあり、その「社会生活の私有財産」が、「国家生活の領有、公有財産」の枠内にあり、しかも「国家生活」は国家の枠をはみ出した「国際生活の私有財産の枠」にあることだ。
 単純には「共同社会」に於ける「衣食住」の「私有財産保有」の「格差」にある。「生活財の格差」である。そして、それを現今の個々人が担っている「社会的意識=私有財産意識=過剰私有財産の獲得意識」の問題である。「資本主義」だからね・・・モウケるのは「自由」である。モウカラナイのも「自由市場」次第である。
 当然、私有財産の過多、過小は「社会的地位の安定、不安定」と密着している。「今現在の衣食住を確保」しても「不安」は「未来の妄想」にスパイラルするのさ・・・次の「慾」へと・・・「憂鬱病」が「病気」ではないのは明白だ、この「病気」は「社会的に生きる個々人の価値判断」の「投機的ユメ=博打に勝てるかも=失敗するかも」、「私有財産を膨らますカモ」、「私有財産の損得」と言う「妄想」からくる・・・「躁鬱病」はアイツの「予備軍」でもあるが、ヤマイじゃないと思っている日常生活者であるオレもアンタもアイツと「同類」の土壌で生きているのさッ・・・そして、「意識上の価値判断」は「自殺」も「他殺」も同根で、「同恨」である。
 この「過剰意識」は「精神の妄想現象」である。この「疎外された実行」は「小説・映画・演劇」の中でだけ表現してくれ・・・
 「自覚した規律ある軍隊」を味方にした時は、この「妄想」から現実的に「解放」されるカモ・・・