476日目・・・タロットカードの「13=XⅢ=十三=壱拾参)」は「死神(クロノス)」となっているが、既に「中世」から「神話」がダブり、ゴカイされて居るようだ・・・元々は「農業の神様」で、「鎌を持った農夫が麦を刈り取っている絵」である。ギリシャ神話の「クロノス」は「時の神様・農業の神様」で、「冥土(メイド=Made)の神様」である。タロットカード番号の「13=壱拾参=XⅢ」は「女の子=乙女=乙姫=音秘め」が「オンナ=音名=オムナ=男矛納」になる時期である。「13=十三=足参=重蚕」には世界史的な「秘密の謎

naie2008-06-20


 日本では「農業の神様」とは「稲荷の神」で、「宇迦之御魂神(うかのみたま・倉稲魂命)」の「穀物の神」。「お稲荷さん」は「キツネの神様」である。以下の日本の神様達、

 豊宇気毘売命(とようけびめ・ホウキビバイメイ)
 保食神(うけもち・ホショクジン)
 大宣都比売神(おおげつひめ・ダイセントヒバイジン)
 若宇迦売神(わかうかめ・ジャクウカバイシン)
 御饌津神(みけつ・ゴセンシンジン)

 は皆、「農業・百姓」の神様である。
 インドの「荼吉尼天」が「宇迦之御魂神」と習合(集合)された。
 エジプトのオシリスも「死者の神」「農業の神」で、「オシリス神」の副将は「ジャッカル・アヌビス」で、死者を導く「墓場の守衛」だった。ジャッカルとキツネは耳を立て、尻尾が長くてスマートなのが似ている。オオカミも似ているのだが。

 「死刑」を廃止しても、廃止しなくても「殺人事件」は、この「人間社会・市民社会」では起こる・・・ならば、殺人犯罪抑止としての「死刑廃止」は無意味である。問題は別である。
 問題とは「殺人事件」を起こした「人間の罪の問題」である。正当防衛以外のいかなる「殺人者」もその代償としての「自分自身の死」である「社会的制裁」は「覚悟の上」である。殺人は「自分の死を覚悟」しての仕業である・・・ヒトを殺して「自分の命だけは許してください」とは「殺人者の風上にもおけないヤツ」である。人殺しもたけだけしい・・・
 勝手に自殺する人間が年間およそ3万人アマリらしいが、自死の選択は「自由」である。勝手である。だが、殺人を犯した者に「生きる選択」の「自由」は無い・・・殺人犯に時効があるとは?・・・市民社会での「人権」があるとは?・・・
 過失、あるいは「正当防衛」以外、社会的人間として、あのカミュの「異邦人」の殺人に如何なる意味を付与しても、当事者双方の「利害関係の無い他殺実行」そのものには「実行犯の生存する自由の選択」は無い。
 少なくても「長崎市長を暗殺」した元ヤクザには「利害関係」としてのウラミの「屁理屈」があった。
 「殺し屋」には「殺し屋の末路の覚悟」があった。「強盗殺人」にはそれなりの「屁理屈」があり、その末路の覚悟もあった。
 だが、文字も記録でき、携帯電話で実況記録を残す人間が「精神異常」であるはずがない。拳銃を向けられ、サバイバルナイフを捨てた人間には「自分自身の死の覚悟」などがあろうはずがなかった・・・
 どんな人間でも「妄想」はする。善悪、利他利己、互助、孤立、救命、殺人、推理小説家、シナリヲライターでなくても、あらゆる「精神妄想」は思考的人間であるコトの「特権」であり、「人間存在の証明」である。
 だが、自己妄想と、自己顕示、自己イライラを実行する通り魔、誘拐「殺人者」には「代償としての死の覚悟」が皆無である・・・
 切り捨てゴメンは武士階級の特権で、近代社会でも資本主義的雇用関係に於ける「切り捨てゴメン」は経営者の特権である。国家意思である侵略戦争での一般市民からの略奪、無差別殺人は「侵略軍隊の特権」であった・・・あったし、あるのだが・・・
 この「疎外された市民社会」であったとしても、「殺人動機」が利害関係の当事者の相手でもなく、仇討ちの怨恨の相手でもなく、その矛先が無抵抗な子ども達を、無関係、無防備な人々を殺傷したモノには、地獄に落ちる前に、この現世で「地獄の沙汰」を受けるのがソレ相応、相当、相分である・・・「眼にはメを、歯にはハを」での、己の肉を切り刻まれ、ジリジリと焼かれる恐怖と、苦痛の喘ぎを・・・
 無差別殺人、幼児誘拐殺人・・・自分のとりまく家族環境に、社会環境に、友人環境に「現況自己存在の不幸、孤立」の責任転嫁をするならば、そいつらとの直接対決を避けるな。恨みの矛先、相手を間違っていた・・・オマエらは殺した被害者、関係者を同じ立場にオトシ入れた。オマエ自身も「厭うべき社会」なのだ・・・だから、個人的な制裁ではなく、当然にも、この疎外された「人間社会の命の理屈」として、「掟」として、「罪の代償」として覚悟し、引き受けるのが「殺人犯」の末路なのだ。
 正当防衛以外に「殺人者」を擁護する「理由」などはない。「精神分析鑑定」が必要だって、か!?・・・「事件」は「利害関係での事実」でしかない・・・人間は「ウソ」をつき、「病気」を装う動物である。
 殺傷、殺人犯の「人間証明」としての究極は「自己存在の抹消、消滅」である。
 ・・・江戸時代なら市中曳きまわしで斬首、さらし首か、磔り付けである。
 少なくても生涯「島流し・重労働」に処す、である。
 山本周五郎の小説に「さぶ」ってのがあったけれど・・・あの時代の「畳みの上で死にたい」って・・・?
 「法律屋」、「弁護屋」も「裁判屋」も、「マスコミ屋」も、「人間」を忘れている。
 「アサヒの死神へ理屈屋」もモチロン、「人間」を忘れている。アサヒが昇るならばラクジツ(楽日)がある、ってか・・・「死の覚悟の無い(?)」、オマエのインテリアタマはヤミだろう・・・