421日目・・・節分も終わって干支歴では「戊子年」に突入です。月支「甲寅月」は・・・東京関東地方は雪、凍結で大変な日であったらしけれど「自然の災害」にはまだまだ及びもつかないのが人間の「文明」・・・世界的に「自然災害」が人間に与える影響は益々増大している。実は「人為的災害」で人間自身が自分自身の首を〆つつあるコトは最早世界の常識となっている。人間も「自然の一部」なんだけれど、「自然」と「人間社会」を区別しすぎて、人間の側からの、その相互依存、共棲関係を忘れてしまったツケがまわってきた・・・地球は未来に渉

naie2008-02-04

 また、「世界の書物」からの抜粋だが・・・今回はこの本の168ページの「アンクル・トムス・ケビン」である。
 黒い聖者・「アンクル・トムス・ケビン」(ハリエット・エリザベス・ピーチャーストウ)

 ・・・法律の陰に隠れて・・・

 奴隷のアンクル・トムは、この物語では聖者として描かれている。黒人の殉教者、すなわち”黒いキリスト”としての主人公が設定されたとき、すでにこの本の成功は保証されていた。・・・トムは悪虐な農場主レグリーに殺される直前、殉教のコトバを発する。(紀田順一郎
 「旦那、もしもあなたが病気だとか、困っているとか、死にかけているとかで、また私に助ける琴ができるというのでしたら」、神さまが私のために神様の血を下さったように私の血をいくらでもさしあげます。ああ、旦那、あなたの魂にそんな大きな罪を犯してはいけません。そんなことをすれば私よりももっとあなたが傷つくのです。あなたができるだけワルイコトをすれば、私の難儀はすぐ終わるでしょう。けれどもしあなたが後悔していないならあなたの難儀はいつまでも続くでしょう。(トム)」
 ・・・加害者も、キリスト教の異端者ではない。清教徒の伝統を頑なに守っている南部人である。「汝、殺すなかれ」の教義が、彼の心にある種の畏怖感を起こさせる。そこをストウ夫人はつぎのように描写する。(紀田順一郎
 「嵐のやみ間に聞こえた天上」の音楽の不思議な一節のようなこのあふれた感情は一瞬の空白を作った。レグリーはあっけにとられてトムを見つめた。そこには古い時計が時を刻む音が聞こえるほどのしずけさがあった。ソレは頑なな心に慈悲と試みの最後の時を
数えているようだった。(ストウ夫人)」
 ・・・だが、一時の逡巡ののち、七層倍の激しさで悪の勢力が戻ってくる。怖るべき瞬間がやってきた。聖者であるがゆえに、トムは殉教者とならねばならない。彼は、しかし神ではない。人間なのである。平凡な、無垢の心をもった一個の人間なのである。そうした人間を葬り去ろうとする悪の力に対して、作者の抑えに抑えていた怒りが爆発する。(紀田)
 「血が流れる、むごたらしい場面もわれrわれは我慢できない。そういうことをする人間もそういう話を聞く勇気は無い。我々と同じクリスチャンであるものが現在受けている苦しみを我々はたとえ誰もいない部屋でさえ機構とは思わない。それは我々の血を凍らせる。それだのに、ああ、私の国よ!そのようなことがおまえの法律の陰に隠れて行われているとは!おお、キリストよ、あなたの信者は大方それを黙視しているのです(ストウ夫人)」
 ・・・ニセ初版の出現・・・
 ・・・作者(ストウ夫人)はトムの臨終のコトバをくわえる----
 「おれは喜んで許すよ」
 ・・・人がおのれの死にあたって、加害者を許すということは奇蹟に近い。現代の日本で、公害その他社会制度の欠陥のタメに死んでいく者は、口が裂けても「許す」とは言わないであろう。
 ・・・制度は許せ無くても、人は許せるということがある。それは信仰と言うチャンネルが必要となる。トムの場合がそうであった。(紀田順一郎
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 ボクのコトバ・・・「信仰(宗教)と言うチャンネルが必要」であるワケでないのは中東のいがみ合い、憎しみが「三大宗教」の「信仰」によっているのを観ればワカルであろう。「救われる」とは何から救われたいのか・・・「信仰」が「現実的な人間」も「精神(魂)」も救うわけでもない。「リンカーン」は何よって、何を救ったのか?
 「制度は許せ無くても、人は許せるということがある」・・・「罪を憎んで、人を憎まず」とは詭弁である・・・「制度(罪)」を担っているのが「人間」だ。個別的に制度を担って、「悪(義務)を行う人間」を許すことが間違っている、のだ・・・「制度」も、ソレを担って「実行する人間」も許してはならないのさッ・・・「制度(義務・罪)」とは「人間責任の序列所在の体系」に裏打ちされて成り立っているからである。
 「戦争」で生きている人間を殺すコトができるのは「制度(軍律)」をバックにする「制度的人間(軍人)」である。だが、制度があっても「殺す事をできない人間(徴兵兵士)」はワンサカいた。
 そして、これは「精神・魂・気持」に於いてである。戦場での現実は逆である。「殺した」のは「兵士」であって、「殺さなかった」のは「職業軍人」であった。
 「階級制度」は「軍隊」ばかりと思うなよ。この「一般社会」が「金」の「大小を基準」にした「階級、階層社会」であることを・・・
 この「世界の書物」は1977年の原稿であるらしい。今年は2008年だから、今から31年前の本であると同時に日本の社会的状況をバックにして記されているモノだ。当時の森永、水俣四日市喘息等が公害であるとしたら、31年前の「日本社会」と現在の「日本社会制度」もたいして変わっていない、と言うことだ・・・エイズ石綿アスベスト塵肺、C型肝炎等「公害」、「自衛隊海外派遣」、「社会制度」が、と言うよりも「人間の意識」、市民社会のオブラートに包まれながら金があっても無くても「金権意識」が変わっていないのだ。・・・タシカに、「金」は無いよりは、あったほうがイイに決まっている。「カネ」があっても、平穏無事に寿命尽きるまでの「健康維持」が出来る方がイイに決まっている。
 米もその他の食料も、年金財源も税金財源も、ガソリンも道路交通網も、医者も病院も「不足」しているワケではない。
 ・・・「国家」としては、すっごく「イイ制度」を「法律」で持っている「国家」なのに・・・「法律」だけ・・・「担っている人間」と、それを「選んでいる人間」の「法的適用実践、実行」をスル、と言う「意識不足」、「根性不足」で、・・・あるのは、ダレでもアタリマエになっているらしい「金権意識・出世意識」だけが「過剰」だから・・・余ったカネがあったらドウスル。命令権を握ってエラクなったらドウスルの・・・?・・・ネテクラスか・・・